三十
祝融が阿孫の首を落としても、業魔は暫く湧き続けたが、時が経つにつれ、それも次第に治った。最後の一体を祝融が斬り裂くと、重苦しい山の姿が、再び姿を表していた。
朝はまだ遠く、夜の寒さに冷たい風が吹く。
木々の間を抜けると、異形が声でも上げ吼えている様だった。
業魔を全て討ち終わったと同時に、彩華は燼へと飛びついていた。あれだけ派手に飛ばされたのだ業魔を相手取ると余裕が無くなる。湧きでる業魔を一体でも多く斬らねば、気絶している燼へと向かって行く個体もいるだろう。そう思えば敵意にだけで意識を向けられる。だが、本心は、心配で堪らなかったのだ。
無理矢理、彩華に地べたに座る様に押さえ付けられ、飛ばされた際に打ち付けた背中や頭を丹念に確認されている。
その様子に、祝融は思わず小さく息を吐いた。只の暗闇の中に、信頼する者達のいつもの光景がある。
それが何よりも、祝融の心を落ち着かせていた。
「燼、大丈夫か」
「彩華が心配しすぎなんですよ。何ともありません」
言葉通り、顔色は悪く無い。後頭部にも腫れはなく、出血もない。問題無いだろう。
彩華もしっかりと自分の目で見て納得したのか、その顔に安堵が広がっていた。
「彩華、放してやれ」
「……はい」
余程、心配したのだろう。燼が容易に弾き飛ばされる姿を、まざまざと見せつけられたものだから、余計に心傷を与えたのかも知れない。彩華の手を離れた燼が立ち上がると、その目線は、直様下へと向いていた。
「(これは……)」
燼の目に、玉繭が映った。
まだ、その刻ではないとでも言うように、玉繭は相変わらず胎動を続けている。
しかし突如、変化が始まる。玉繭が大きく脈打ったのだ。
「(何だ……?)」
大きく、激しく、銅鑼でも叩いているのかと思える程に、燼の耳の中で激しく打ち鳴らす。燼は思わず耳を塞いだ。その行為に意味は無いが、それでも、脈打つ玉繭から目を離す事も、力を遮断する事が出来ず、燼は、完全に囚われていた。深淵の底から、燼の身体を掴み、捉え、無い目で燼をじっと見る。
目が離せない、引き摺り込まれそうだ。燼は、そう思いながらも、微塵も動けなくなっていた。
不意に燼の身体が大きく揺れた。左腕を力任せに引き上げられたと気付くのに、大して時間は掛からなかった。視界は開け、目の前には迫り来る黒い陰達。それは大波となって燼に纏わりつこうとするも、龍が空を登る勢いには勝らず、ある一定の高さでピタリと止まると、そのまま引き下がっていた。
地面は黒い大沼で覆われ、それまで転がっていた業魔の死骸も阿孫であった
山が静まっても、龍は登り続けた。木々を抜け、月明かりが見える夜空が見えると、その勢いは止まっていた。聖域の境界を超えたのだ。
陰の気配は鎮まり、月影が懐かしくも、世界を照らす。そうすると、現実へと引き戻された燼は、自分の腕を掴んでいる主を見上げる。暫く見慣れた、彼の異母兄を思わせる厳しい顔が、燼を見下ろしていた。
「……大丈夫か」
「はい」
祝融も、黒龍の前足に右腕が掛かっているだけで、身体は宙に放り出されたままだ。燼が身動ぎできない間の一瞬の出来事で咄嗟だったのだろう。
「頭を打った後遺症ってわけじゃ無いな」
「……申し訳ありません」
阿孫の一撃は凄まじかったが、少々瘤ができた程度だ。背に降りろと、足下に金龍の姿が見えると、燼と祝融は飛び乗った。
燼は何かを問いただされるのかと考えていたが、祝融の目は空で待ち構えていた青い龍へ向いていた。
「神子華林、神子瑤姫と何を企んでいる」
祝融が神子瑤姫を叔母と呼ぶのは、親しみを込めてだ。それが、今の言葉には憎しみすら篭っている。
「何の事でしょうか」
素知らぬ振りか、はたまた、本当に知らぬさけか。惚けている素振りは無く、神子華林は祝融から向けられる目を、そのまま返していた。
「勅命が降り、燼がこの場に居る事は納得出来る。だが、俺が此処に呼ばれた理由は何だ。最初から、阿孫が異形になると知っていたのか?」
「……可能性は有りました」
「可能性とは何だ!」
祝融は激情に駆られ、憤怒のままに言葉を発していた。強張る顔つきは、とても神子を相手にしているとは思えない。それでも、従者の誰一人として、祝融に冷静になれなどとは言わなかった。
背を貸している軒轅と同様、龍の姿で傍を漂う雲景と彩華は見守るだけだ。
恐ろしいからでは無い。忌み嫌われていた相手とは言え、異母兄を殺す為に呼ばれたなど、考えたくも無かったのだ。抑えられるはずも無い。
それを、神子華林もわかっているのか、何も咎めない。
「始まりは、遥か昔ですが……きっかけは……ねぇ、燼」
女は、静かに笑っている。その笑みに意味は無いだろう。如何にも意味有る行為に見せるのは、燼に注意を向けたいからだ。意味は、そちらに有ると。
祝融はゆっくりと振り返り、燼を見た。燼もまた、冷静だった。祝融の憤りをまじまじと感じながらも、燼の目は真っ直ぐと祝融を向いている。
「……俺が、阿孫様に夢を見せました。
「だが、それは俺も見た筈だ。何も起こっていない」
見たいと言われて、見せただけ。その行為を咎める事に意味は無い。
「殿下、そもそも、条件が違うのですよ」
知っている。だが言わない。
「燼、貴方は何故、阿孫殿下が変じたか、了知したのでしょう?」
燼は、静かに頷いた。逃げる姿勢は無い。
正確には、逃げ場は無いのだ。周りは龍で上空を漂う。下は、今は沈静化したとは言え、陰の存在が蠢く地だ。その状況は、いっそ、燼に堂々と祝融に向き合う決意を与えた。
「種です。俺の中にある、
燼は、それ以上を語るべきか思い悩んだ。これ以上語ったとして、傷つくのは主人だ。
祝融の鋭い眼光は、神子華林に向いたままだった。それでも、祝融からひしひしとした威圧が燼に向けられていた。
「燼、正直に話せ」
普段の穏やかさは微塵も見せない、低い声だった。敵意にも似た、余裕のない声。ある意味で、命じる姿は主人としての姿とも言えるだろう。燼は、ゆっくりと息を吐くと同時に、喉の支えと共に言葉をこぼしていた。
「祝融様の存在を目にした瞬間に、阿孫殿下の中の陰が一層大きくなりました」
それが、阿孫を包み込み、異形となったのだと。
ああ、そうなのか。祝融が小さく溢す。
それまで放っていた怒りと威圧は消え、呆然と天を見上げる。
「祝融様……」
放心してしまったのだろうか。上を向いたまま、何一つ言葉を発しない。燼は、何と声を掛ければ良いかが分からなかった。
異母兄を自らの手で殺した事実だけが、祝融の手の中に残っている。忌み嫌われていたが、殺したい程の憎しみではなかった。そして、嗾しかけたのは、祝融を殺したい
そして、もし
「俺が、何をした」
祝融が天に向かって放った言葉を、誰かが掬い上げる事もなく、消えていく。
「祝融様、皇都へと戻りましょう」
夜の静けさの中、雲景の言葉に祝融が小さく、「あぁ」と返事をする。
失意の中の祝融に向ける言葉を持つ者はいない。動き出した黄龍の背の上で、燼は生気の抜けた主人の為に、自分がすべき事を決意する日が近づいている事をひしひしと感じていた。
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