二十八
太陽が西へと沈んでいく。
橙色に染まった空が、茜色へと変化する色彩。更には紫紺へと変貌する姿は見事の一言だ。赤龍の姿を飲み込まんとするそれを横目に流し、夕暮れ空が闇へと飲み込まれた頃合いに、一行は高麗山へと辿り着いていた。
完全なる宵闇の始まりに、鬱蒼と茂る木々は風でゆらゆらと揺れては禍々しいその地へ手をこまねいている。
「見えんな」
「……上からは、燼でも何も見えませんでした。降りてみない事には」
様子見程度に探れたならとも思ったが、暗闇の上に聖域ときた。折角の月明かりも、視界を遮る木々が邪魔をして意味をなしていない。
かくも聖域とは薄気味悪いものなのか。
祝融は気怠げに赤龍の背の上で立ち上がると、頭を掻く。
「行ってみるしかないか……」
その声に彩華も立ち上がるが、暗闇の中でも、項垂れている姿がはっきりと映る。
「どうした」
「いえ、何か居る気がして……」
不穏な空気の上に、不穏な発言。彩華は軽はずみな発言をする女ではない。一端の武人として、その実力今も留まる事を知らない。最近では、鸚史が遂に彩華に負けたと本気で落ち込んでいたぐらいだ。
そんな女の言葉に祝融は立ち上がった足下を覗き込んだ。闇の中で、鈍く月明かりに照らされた赤い鱗の下。
ぞわぞわと、確かに何か伝わるものがある。闇を介して、祝融の身体にか細い糸が絡み付く。蜘蛛の糸の様に弱いが、上手く払えない。
そんな妙な感覚だった。
崑崙山では何も感じなかった筈……昼と夜の違いか、それとも別の差異か。そう考え始めると、祝融はいても立ってもいられなくなっていた。
「行くぞ」
祝融は一歩前に踏み出すと、彩華も続く。背に何者の気配も無くなると、雲景もまた人の姿に戻り、宵闇の底へと向かっていった。
――
燼の背後に何かが落ちてきた。正確には着地なのだが、自分達以外に空からの来訪者があるなど、予想だにしていない一行の視線は一同に向いていた。
暗闇でも人影程度に判断が付くが、それがが誰かを理解できたのは、燼と神子華林ぐらいだろう。
「……祝融様?」
「燼か……問題があったのか?」
何故、主人が此処に居るのかも、その質問の意図も読めない。
茫然とする燼を他所に、激甚なる声が轟いた。
「何故お前が此処に居る!!」
落ち着いた様子が消えた阿孫の顔は、厳しいなど生やさしいものでは無くなっていた。憤怒のままに、祝融へと敵意どころか殺意を向けている。
「神子瑤姫の命令です」
「叔母上は、いつだってお前に肩入れする。どうせお前が唆したのだろう」
脈絡が無いうえに、そもそも思い込みに近い。皇帝と同格に神子をどうやって唆すと言うのか。
荒々しい様子に、浪壽が落ち着いてくださいと声をかけ、近寄る。
様子が一変した姿に、浪壽が一番焦っていた事だろう。皇軍の将を務める男が、任務の最中に私情で感情を露見させるなど、醜態でしかない。
「一体どうされたと」
言葉が途切れたかと思えば、近づいた朱浪壽の身体は吹き飛び、何かにぶつかる音と共に呻き声が闇のなかで小さく続いた。
「なっ……!?」
思わず誰もが身構えた。
何が起こった。浪壽は何をされた。
「楓杏様!神子華林を連れて上空へ!」
護衛官である楓杏が優先すべきは何を置いても神子だ。燼の言葉で、何が起こったか把握出来なくとも、動くしかなかった。
神子華林を腕に抱くと同時に、龍へと姿を転じる。
「少しばかり、手をお貸しします。お気をつけて」
神子華林の更なる不穏を呼ぶ言葉を最後に、上空へと蒼龍が登って行った。その言葉通り、祝融達は視界が広がる感覚があった。暗闇の中で、阿孫の姿が、景色がはっきりと形を表していたのだ。
何が、きっかけだったのか。阿孫の姿が、どろどろと闇へと溶けていく。
元の姿は影にも似た姿になり、宵闇と同化する程に黒く変貌したそれに、祝融は思わず声を上げた。
「
その声に、阿孫だった
「……しゅ……く……ゆう……」
その声は、阿孫の姿ごと足下から吹き出した陰に飲み込まれた。
闇が集まる。陰が阿孫を飲み込み、新たなる形となる。嵐と見間違う程の黒い渦は、徐々に大きくなり、やがてそれは、人ならざる姿を表した。
人であった頃の何倍もの体に、角の生えた猪にも似た頭と、身体は二本足で立ち上がり、その手には二対の剣が握られたいた。
迷いなく振り上げられた右腕が、祝融に狙いを定め、その巨体に似つかわしく無い程に素早い動きを見せた。祝融は避けるも、恐ろしい速さで剣が振られ、風が舞起こる。
「雲景!従卒の男を待避させろ!彩華は……」
指示を繰り出そうとすると、その隙を与えない様にか、
その中でも、皆が武器を手に構えた。祝融が
「燼!!」
彩華が思わず動いた。しかし、
業魔が
「厄介なっ」
そこで漸く祝融が剣を抜いた。心に蟠りを残したまま剣を握り、異母兄だった
情は、遠い過去で消えた筈だった。だが、それでも兄弟として過ごした記憶が、祝融の中で躊躇いとなって邪魔をしていた。いや、今も殺意を生み出せずにいるのだから、妨害していると言えるだろう。
今は、手に剣が握られているが、果たして異母兄だったそれを殺せるのか。
だから、燼が弾き飛ばされても、業魔が生まれても尚、彩華は祝融のそばを離れられなかった。
どうせ業魔は人に寄ってくる。
足手まといは消えた。
「彩華、燼の様子を見に行けるか?」
「ですが……」
彩華が祝融の命令を渋る理由はもう一つあった。
「……これは俺がやる。お前は燼と軒轅と共に業魔の相手を頼む」
祝融の目に揺らぎは無かった。
話している最中も、剣撃は止まない。疲れ知らずの怪力のままに、地面を抉り、風を巻き起こす。
そんな中でも、業魔は増え続ける。燼が目を覚ましたとしても、軒轅と二人だけでは荷が重いだえろう。
彩華に迷っている余裕は無かった。
「……承知しました」
頷いた瞬間に、彩華は剣撃を避けると同時に業魔へと向かっていた。
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