二十七

 雲省 上空

  

 空は、雲一つない晴天だ。にも関わらず、燼の気分は曇ったままだった。

 最後の目的の地、高麗山が目の前に迫っている。龍が飛ぶ高度は高く見晴らしは良いが、深い山々の代わり映えの無い深緑が続いていた。春色が終わった山は、退屈だが無心にはなれる。  

 何も起こらなければ、他と何も変わりなければ、一先ずは任務は終了となる。燼は、長く家を空けた後に、再び長く不在にする事が少々、不安だった。此処さえ終われば帰れる。そう思えれば、どれだけ良かっただろうか。

 燼は前方を見据えた。目の前は変わらず阿孫が先導している。

 視界の中心に映る男の症状は、本人の気力の程度が影響しているからか傍目には変化は無い。

 観察も、慣れると締まりが悪くなる。変化が無いのは良い事とは言い切れない。鳴りを潜めているだけ、まだ時で無いだけ。何を示唆し、何が合図かの見極めは、未だ不完全なのだ。


「燼、そろそろだ」


 軒轅の声が、風に乗って耳に届く。浮かれたり、沈んだり、何かと表情の変化が多い軒轅だが、今はどちらの感情も隠れている。


「此処が最後だ。何も無い事を祈る」

「俺も、そう思います」


 赤、青、黄の龍が目指す同じ地は、聖域と呼ばれる場所にも関わらず、鬱蒼と立ち並ぶ木々が、不穏を誘っていた。


 ――


 鬱蒼とした木々の間を、次々に人が飛び降りる。空は見事な晴天だと言うのに、この地に降りると景色が様変わりし、天候まで変化した気分になる。鬱蒼と茂る森は空を遮り、光が届きにくい。

 薄暗い森の姿を何気なく一望した後、燼は神子華林と共に目線を下げると、それまでと同じ変化のない玉繭の姿がそこにあった。神子華林を隣に、その姿を確認した燼は小さく息を吐く。これで帰れる。

 この後も、再び勅命が降る可能性も捨てきれないが、ただ家に帰れると言う事実が燼を浮つかせた。


「羅燼、問題は無いか」


 少し離れた場所で、高麗山を見回っていた阿孫と浪壽が戻ってきた。そちらも変化は無かったのか、平然としている。

  

「ここも同じです。変化が無い」

「封も問題なく維持されている。そちらが問題無いのであれば。皇宮に戻ろうと思うが」


 燼は頷いたが、その隣の人物は首を横に振っていた。


「夜を待ちましょう。それからでも、遅くは無いのでしょう?」


 美しくも、鋭い声は、斯くも深々と語る。

 如何にも妖しい様子に、嫌疑の目が神子華林に集中した。

 それを言葉にしたのは阿孫だった。 


「夜は、危険なのでは?」

「あくまで可能性です。深い闇の中で、蠢く胎を見ておくのも悪くありません」


 女は、くすりと笑う。

 これが、神言なのだろうか。全てが、それに値はしないが、それでも神子華林の言動は不信感しか生まないだろう。燼は、思ったまま口を開いていた。

  

「神子華林、何を考えているのですか」

「言葉の通りです。夜の異形は、常夜から生まれた存在。闇でしか、見えないものもある」


 ならば何故、今まで一度としてその意見を述べなかったのか。聖域を刺激する行為では無いのか。

 神子本来の姿を知っているのは、護衛官の蒼楓杏だけだ。その人物は、これと言って反応は見せない。そう教育されているからと言ってしまえばそれまでで、安易に腹を見せる人物でも無いらしい。


「燼、どうする」


 軒轅が表情を硬らせながらも、答えを欲しいてか燼に意見を求めた。そもそも、この場で勅命を受けているのは燼と軒轅でも有る。だが、軒轅に夢見の目は無い。

 託されている。そう思うと燼は俯き加減に表情を隠していた。今まで、意見を求められても、決定は別の誰かに託してきた。

 判断を人任せにきた付けか、今一つ決め切れない。

 神子華林の言葉通り、夜の変化も必要かもしれない。変化が無ければ、其れ迄だ。判断材料の一つになるのは、確かだ。


「では、夜を待ちましょう」


 鬱蒼と茂る木々が風で揺れる。流れる風と共になる葉の音が、更なる陰気を呼んでいた。

 夜は、直ぐそこだ。 


 そうして、ニ刻程経った頃。夕陽が沈むと共に、夜が背後から迫っていた。

 黄昏が薄闇へ。薄闇が宵闇へと変化する。燼は夢見の目が無くとも、夜目が利く。その変化をまじまじと感じながら、阿孫にばかり目がいった。


「灯火は?」

「今は我慢して下さい。火は避けた方が良い」


 火は浄化の作用がある。下手に刺激を与えたくはない。何よりも、不完全な暗闇は意味が無い。

 完全な夜が出来上がった頃、燼は再び、下方へと目を向けた。

 変わらず脈打つ玉繭に変化は無い。成長する姿も、目覚めの気配も無いのだ。


「(これで、帰れる)」


 燼が、息を吐いた時だった。


 ――

 ――

 ――


 雲省 省都アコウ  


 遅がけの春が終わった省都アコウ。青々とした、新緑で満ちた都へと変貌した一角、小さな宿屋で祝融、雲景、彩華の三名は、暫しの休息をとっていた。

 神子瑤姫から雲省へ迎えとだけ連絡はあったが、その後詳細が送られてくる様子が無い。取り敢えずと、アコウに来ては見たものの、途方に暮れ、連絡を待つばかりの時間だけが過ぎていく。

 そして、アコウに到着して一刻もたった日も暮れ始めた頃、祝融の肩に白い鳥が留まった。

 側から見れば、偶然にも人の肩に留まった鳥が嘴を動かしているだけなのだろうが、志鳥の持ち主である祝融にだけは、その白い鳥が話す言葉がしっかりと届いていた。


『急ぎ、高麗山へと飛んで下さい』

 

 神子瑤姫から、再び届いた志鳥しちょうの言葉に、祝融の顔が強張った。

 何故、祝融がその場へ行く必要があるのか。

 はっきりと場所を示唆されないま、雲省アコウにて休息を取っていた一行だったが、祝融の顔色に共にいた雲景と彩華にも、何も言わずとも緊張が伝わる。


「……して、行き先は?」

「高麗山だ」


 アコウから高麗山まではそう遠くは無いだろう。急げば、陽は落ちるが一刻程度で到着するだろう。祝融が立ち上がれば、二人もそれに続く。


「今から向かうと、夜になってしまいますが……」

「急げとの事だ。意味があるのだろう」


 夜から生まれた異形が封じられる地で、一体、何が出ると言うのだろうか。


「祝融様、燼は今……」

「昨日の話では、高麗山に辿り着いたか、すでに調査を終えているか……」


 時節が重なっている。祝融は、以前も同じ感覚に囚われた事を思い出す。それを感じたのは、正確には鸚史だが、その時は薙琳と燼だった。


「今度は、俺と燼か?」


 祝融は、独り言の様に呟くも、それは最悪の自体であり燼の使命の時を指すだろう。

 祝融に夢見の力は無い。それでも、自分の胸に手を当て胸中に問うてみる。


「祝融様」


 立ち上がったまま、考え事をしていた所為か、背後で二人が困惑していた。特に、彩華は燼が心配で堪らないのだろう。 


「行こう。全ては高麗山だ」


 今は、考える時ではない。神言を抱え、一向は高麗山を目指す。

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