第2話

雲省 ノザン 花柳界


 静瑛は誰が見ても傑物と称される人物だ。実兄である祝融にも信頼され、その実力も祝融に引けを取らない。今でも、過去の優秀さから文官の道へと進む事を求められているが、静瑛自身が断り続けているという話もあるらしい。皇族というだけでなく、祝融を支える立場としても誰よりも秀でた人物なのは確かだ。

 ある、一つの問題を除いて。

 誰しも、人は完璧では無いと言うが、その代表ではないのかと、燼は常々考えていた。その問題は大して露呈もしていないから、静瑛は側から見れば、完璧な人物のままだ。勿論、燼も主人を貶める行為など、言語道断と口は慎んでいる。だが、それを許容できるかどうかは、別問題だ。燼は、未だにそれに慣れる事ができず、平常心である様にと自分に言い聞かせていた。

 今も、煌びやかな妓楼で、食事と酒にありついているが、正直落ち着かないと、箸も酒も進まなかった。

 主人の隣に座り、酒を注ぐ女は、貴族の姫君と遜色が無い程の美貌だが、幾分か露出が多い。それは、燼の隣にも同様に、愛らしい顔つきの女が座っては、燼の腕や背にやたらと触れてくる。助けを求め、飛唱を見たところで、主人と同じ様に全く動じていない。

 普段接する女と言えば、彩華や薙琳の様な武人か、皇宮の女官か皇都の家で働く下女ぐらいだ。それらとは、全く別の生き物かと思う程、繊細でか細い。目のやり場に困る衣装に、どこを見て良いかも分からず、首を項垂れていた。


「静瑛様、俺……金無いですよ」

「払いは私だから、気にするな。女を買っても良いぞ」


 さらりと、とんでもない言葉が口から零れ落ちた。何を思ったか、妓楼に泊まり、酒を搔っ食らう主人。出来た人物だったが、時折、女好きな部分が目に付いた。誰彼構わず手を出すわけでもなければ、女に惑わされる事があるわけでも無い。兄である祝融から言わせれば、「何の問題無い」だそうだ。とても、結婚している男の言葉とは思えなかったが、静瑛は未だ独身の為、確かに問題は無いのも事実だった。

 ただ、付き合わされる身にはなって欲しいものだ。

 慣れない妓楼に、慣れない女、酒は嗜むが、落ち着かない所為で大して味もしない。


「無理に買う必要は無いが、女には慣れておけ。手玉にされたくなければな」


 初心な様子は、一目で分かる。だからこそ、面白がられている事も、燼自身わかっていた。

 今迄も、何度かこう言う事があったが、人を揶揄って弄ぶ様な人物ではない事は燼もよく知っていた。だが、女が絡むとなると、途端に信用が無くなる。今も隣の女に愛想笑いを浮かべては、こそこそと耳元で会話を繰り返している。普段とは違う色男の様相に、いかにも妖しい雰囲気だ。


「(逃げよう)」


 不穏な空気としか思えない状況に、燼は衝動的に立ちあがった。


「俺、部屋に戻ります」

「少しは慣れろと言っただろ。二十を越えた男が、女に触られたぐらいで顔を赤らめてどうする」


 矢張り、嫌がらせかもしれない。別に女嫌いとか、男色の気がある訳でもないが、こうも女を見せつけられる場が苦手なのだと主張したかった。それでも、静瑛は気にする事なく、女の腰を掴み引き寄せては楽し気だ。女も満更でも無さそうで、今にも事に及ぶのかと冷や冷やする。とても見てなどいられなかった。

 静瑛もその姿をを一瞥しては、くぐもった笑いを見せると、掌を軽く振って下がる様に命じた。


「今日はもう良い、飛唱も休め。」


 やっと解放されたと思うと同時に、燼は足早に部屋を出ては、逃げる様に自身に用意された部屋へと駆け込んだ。逃げ込んだと言っても、主人とそう離れる訳にもいかず、静瑛の部屋の隣でしか無い。

 それでも、やっと落ち着けると思えば、安堵の息が漏れた。

 部屋は飛唱と相部屋となっており、寝台が二つ、中央に卓が一つと簡素な作りだったが、あくまで主人の御付きの者の為の部屋だ。特に、妓楼に用事のない燼にとっては十分だった。

 さっさと寝てしまおうか。寝台へ足を向けると、背後で扉が開いた。妓女が付いてきてしまったのかと慌てて振り返ったが、扉から覗いた飛唱の顔に心なしか再び、盛大な安堵の息が漏れてしまった。


「燼、大丈夫か?」

「……一応」


本音を言えば、あんな状況に巻き込まれたくは無いが、飛唱も付き合わされているのだ。彼に言っても、仕方が無い。それに、飛唱の顔色には疲れたと、しっかり書いてある。文句など、言うべき相手では無いだろう。


「良い物をくすねてきた。飲み直さないか?」


そう言って、飛唱は酒器を一つ、目の前にぶら下げた。先程の不味い酒を思うと、何とも嬉しい申し出だった。酒の味を覚えてからというもの、最初こそ恐る恐る飲兵衛達に混じって飲んでいただけだったが、今では楽しみの一つと言える程飲める様になった。


「飲み過ぎるなよ、明日はどうなるか分からないからな」

「……酒を目の前にそれを言いますか」


 そう言いながらも、軽々しく栓を開け、酒器を傾け杯を満たしていく。

 酒を注いでもらうなら、どれだけ美しい女だとしても、見知らぬ者よりも、慣れ親しんだ仲が心地良い。元が平民だっただけに、静瑛が楽しむ様な場が、只々、苦痛でしか無かった。きっと、静瑛の趣味は一生理解出来ないだろう。


「今日は一段と酷かったですね」

「仕方が無い。誰も、助けられなかった。気を紛らわせたくもなる」


 そう言って、主人の部屋がある背後に目線をやった。いくら護衛が必要無い強さを持つとは言っても、主人の動向から気を逸らすわけにもいかない。ただの妓女が彼に傷一つ付けるのも難しいだろう。とはいえ、今頃楽しんでいる筈だ。何かあって困るのは確かだった。出来れば、あの壁の向こうで何が起こっているかなど知りたくも無いが。

 静瑛は、いつも女に、だらしない態度を見せるわけでも無い。酒を注いでもらっただけで満足する時もあるが、今日の様に一夜を共にする事も暫しあった。そういった時は決まって、血が流れた時だ。静瑛が取り乱す事は無いが、彼も完全無欠と言うわけでは無い。腹に溜まった物を吐き出す方法が、たまたま女だっただけだと思えば、ある程度は我慢も出来る。


「燼、お前は問題無いか?」


杯に目を向けながら、疲れた顔をした飛唱がぽつりと呟いた。それを指す意味は、恐らく、燼の力を心配しての事だろう。形容し難いそれに、飛唱は遠回しに口にしている様だった。


「……平気です、飲まれている感覚も無いですし」

「そうか、おさまっているなら良い」


そう言って、杯の中身を飲み干しては、また注いでいく。彼も彼で、鬱憤を晴らしている様に見えた。


「明日に響くのでは?」


勢いの止まらない飛唱へ向けた言葉に、ぴたりと手が止まった。杯を惜しむ様に眺め、一息吐いた。


「……そうだな。これぐらいにしておこう」


残り僅かだが、城に戻ったらまた飲めば良いか。などと呟いては、酒器の栓を閉めた。


「先に休んで下さい。俺は、もう暫く起きていますので」

「……悪いな。私も、今日は気分が最悪でな」

 

 飛唱は寝台に横になると、ほんの数秒で静かな寝息をたてていた。省都への往復と、妖魔討伐、龍人族は飛べると言う事もあるが、平気そうに見えるだけで、疲労は溜まっているのだろう。


「(今日は、寝かしておいた方が良いかもな」


 自分には、まだ余裕がある。移動を任せきりにしているのだから、それぐらいは新米としてやらねばならないだろう。

 一人になると、部屋の中はいよいよ静かになった。目の前には、酒器がそのまま置かれ、つい手が伸びてしまう。飛唱には、ああ言ったが飲み足りない。酒器の栓を開けると、自分の杯を満たしては、喉へと流し込んだ。

 酒を覚えたのは、成人して直ぐだった。当時は祝融に麾下であり、成人祝だと彼の居宮に招待され、豪勢な食事を振る舞われた。平民でも成人は祝い事だが、貴族が高々、平民の従者相手に豪勢だと思えたが、それだけ期待され、彼の人柄を知る機会となった。

 半年程前まで、燼は祝融や雲景そして、彩華と行動を共にしていた。成人を迎え、祝融から正式な誘いを受け、祝融の麾下となった。彩華は渋ったが、自身もまた祝融の麾下として仕えていたのもあり、同意せざるを得なかった。側にいた方が安心できるという考えもあったのだろうが、苦心の上に同意したと眉を顰めた顔が、燼は忘れられなかった。

 祝融は、燼にとって主人というよりは兄に近かった。時に威厳は見せるが、温厚そのもの。その姿を時折、弟の静瑛が諌めたが、本人はどこ吹く風と穏やかな人相ばかりが目立った。寿命が無い事を除けば、只人と何も変わらない、それが、燼が祝融の印象だった。

 それも、一度業魔が現れると、様相どころか、人が変わる。炎を纏い、業魔に立ち向かうその姿に、確かに、神の血を引いているのだと、思わざるを得なかった。

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