第16話「契約を司るという意味」

 文様と呪文が意味する事を知らないベクターフィールドと亜紀ではない。そもそもパイエティの契約者なのだから、どこかでパイエティを呼び出すのは当然である。


「チッ」


 ベクターフィールドの態とらしい舌打ちは、らしいどころか本当に態とだ。


 手をひるがえし、魔王の剣を抜く。


 その剣を構えるのだが――、


「え?」


 出現したパイエティの姿が、ベクターフィールドすら停止させてしまった。


 アポイントメントなしの召喚であるから、どういう状態で呼び出されるかわかったものではないというのはベクターフィールドも経験してきた事。食事中、ゲーム中、就寝中、お構いなし。



 その時のパイエティは、頭には三角巾、左手には皿、右手には大根の煮物を摘まんだ菜箸を握っていたのだ。



「……料理?」


 亜紀も目を瞬かせた。洋食好きというベクターフィールドも悪魔という印象から程遠かったが、大根の煮物を作る悪魔など程遠いどころか考える余地すらない。


「!」


 当然、対応の早さは明暗を分ける。


 パイエティは手にしていた大根をベクターフィールドに投げつけると、咄嗟に桜井を抱きかかえて廊下を走ったのだ。


「クソッ!」


 顔面に大根を直撃されるというような事はなかったが、大根の煮汁がベクターフィールドの目にかかる。一般的にはしょう油、みりん、砂糖で味を整えるのだが、パイエティはみりんを入れていない。生のしょう油に近い分、目に染みる痛みは一入ひとしお


 それで稼げる時間は数秒に過ぎないが、桜井を抱えるパイエティが廊下の突き当たりにある窓まで走るには十分な時間だ。


 床を蹴ったパイエティは空中で半回転し、自分の背で窓を突き破る。


 桜井を抱えているのでは受け身など取れないが、アスファルトの上ならば、パイエティは息が詰まる程度で済む。


「逃げろ」


 起き上がるパイエティは、自分たちと同じくオフィスから身を躍らせたベクターフィールドを見ていた。


「勝てるんでしょうね!?」


 パイエティから離れる時も、桜井は怒声をぶつける事だけは忘れない。


「算段は立ててある」


 パイエティが手を翻す。


 現れる剣を、ベクターフィールドも見た。


 ――狗鷲いぬわし


 護拳ごけんの意匠は、ベクターフィールドと同じく最上級だと誇示している。


 そして算段は立てたという言葉も、ベクターフィールドは聞いていた。


 ――こっちに乗るタイプ……か?


 声が届く距離に来た所でベクターフィールドは立ち止まる。


「なぁ?」


 剣の切っ先を地面に向け、敵意がない事を示すベクターフィールドだったが、これには度胸を総動員させられた。最上級の剣を持っているパイエティは、魔王の称号こそ得ていないが、とびきりの強者である事は間違いないのだから。


 ――隙アリなんて飛び込んできてくれるなよ。


 場合に酔ったら一撃必殺の隙を与える事にもなりかねないのだから、ベクターフィールドの声からも緊張は消しきれない。


「何だ?」


 幸か不幸か、パイエティも話を聞くタイプだった。


「お前と俺は、多分、似たような契約をしているだろう? 契約者が必要だと思った事に対し、全力で協力しろ、だ」


 ベクターフィールドは、それに違いないという確証を得られている。


「けど納得できる仕事に全力を出せてるか?」


 ベクターフィールドが立てた算段は、パイエティに対する説得だ。


 孤独が最も怖いというのは分かっている。パイエティが誰かを隷属させられる性格でない事も同様だ。直接、言葉を交わすのは初めてでも、残していく痕跡が如実だとベクターフィールドには映った。


たくみクンに走り屋の霊をけしかけたり、神矢かみやクンの事なんて、特にそうだろう? 子供を殺す事は本意だったか?」


 パイエティは剣を降ろしたままだった。


「……」


 それもそのはず。


 パイエティの目は、ベクターフィールドに合流してこようとする亜紀へと向けられていた。


「あの女が、そっちの契約者か……」


 外見から職業や性格が判別できる訳ではないが、策略を好む相手でない事だけは分かる。


「あァ……」


 ふとパイエティは目を細めた。


 ――同意か?


 ベクターフィールドの脳裏に浮かぶ言葉はそうだったが、パイエティから出て来た言葉は――、


「そりゃ、あんな人と、自分が必要な事件には全力で手を貸す事、なんて契約を結んでたら、誰だって全力になるし、全力になりたくなるだろうな。誰だって」


 パイエティの言葉にある響きを、ベクターフィールドは判別できなかった。


「優しい人なんだろうな。悪魔は孤独が一番、怖い。だから誰かを隷属れいぞくさせたがる奴が多いし、相手を思い通りにしたいから踏みつけにもする。いや、それは人間も同じか」


 自嘲。人間が悪魔になる理由は簡単だ。自殺、事故、事件の被害者は、死神が間に合わない可能性があり、その代わりに悪魔が来てからだ。


 パイエティは自殺者。人も悪魔も、吐き気がする程、グロテスクな感情をぶつけてくる存在だと知っている。


「俺に、優しい言葉をかけてくれり女性は……母親くらいなものだ。うらやましいぜ」


 この言葉で、ベクターフィールドは自分の算段が崩れた事を察知した。


「お前は分かってない。契約を司るって事は、相手がどんなクズでも契約を守るって事だ。クズだから見捨てていいと考えてるなら、ベクターフィールド、お前とは友達になれない」


 パイエティにとって、神矢を殺せ、匠を事故死させろという桜井の要求は、多大なストレスとなって襲いかかってくるものだったのは間違いない。


 桜井を主観的に見た場合、確実にクズという二文字が浮かぶ。


 パイエティもそうだ。


「そしてクズでも見捨てられないと考えてるなら――」


 それでもパイエティが口にする言葉は、ベクターフィールドも理解できる。



「友達になっても、ここでは殺し合う」



 理解できてしまう。


 ベクターフィールドが魔王になったのは、悪魔と人の仕打ちによって、膨大な涙を流してきたからだ。自らの涙を飲む事により、悪魔は喜怒哀楽のいずれかと引き換えに力をつけていく。


 哀の感情を完全に失うまで涙を流しながら、契約を堅守してきたベクターフィールドが、そのパイエティに何をいう事ができるというのか。


「出会う形が違っても、友達にはなれなかったみたいだぜ」


 ベクターフィールドが剣の切っ先を上げた。


「一緒に笑う事はできても、一緒に泣けない」

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