第12話「経緯の話」

 敷地面積4300坪という広大な店舗を構えているライラックは、ウォーターフロントという立地に映える。


 年商5億、従業員数50名と言うライラックに、その女は事務員として採用されていた。


 ただし――、


「……」


 喫煙ルームでタバコを吹かす女の境遇は、決して良いとはいえない。


 年商5億といえば、なかなかの売り上げのように感じるが、年商と年収は違う。この年商から経費と税金を引いた金額が利益であるから、実際に社員に配当できる金額は5億ではない。また人件費とは社員の給料だけを指す言葉ではないのだから、年商5億で社員50名を雇えば、必然的に年収は寂しいものになる。


 ただ年収だけが仕事の甲斐がいではない。面白いからこそ続く仕事もある。


 特にバイク屋という仕事は、マニアが存在している分野であるだけに、働いている者もバイク好きが多い。


 だが女は、バイクに然程の魅力を感じていない。


 車やバイクよりも電車が便利だと思っているし、本人もバイクの免許を持っていない。車は持っているが、ペーパードライバーだ。


 そんな女にとって、バイク屋など魅力的な仕事には成り得る理由が不在だった。


 年収だけが仕事の遣り甲斐ではないとは、彼女にとって遣り甲斐搾取さくしゅ以外の何物でもない。


 くわえタバコでスマートフォンを操作し、ニュースサイトを次々と捲っていく。それも全国ニュースではなくローカルニュース。


「情報が遅い。これだからマスゴミは。偏向報道は早いくせに、事故のニュースくらい更新しろ」


 苛立ちを隠せない、隠そうともしない女が探しているニュースは、昨夜、だった。



 暴走高校生、深夜の高速道路で死亡事故――そんなニュースがなければならないはずなのだ。



 苛立ちに任せ、短くなったタバコを灰皿に擦りつけた女の名は、桜井さくらい あや


 ――就職した時期が悪かった。


 40過ぎの桜井は、その思考が癖になっていた。女が就職した時期は、就職氷河期の最底辺と重なる。今でも同窓会へ行くと、「あの頃、就職口がなかったよな」と出てくるくらいだ。


 桜井は大学院卒。ケインズ経済学を学び、修士となった自分にとって、バイク屋の事務員などという仕事は、取るに足らない、自分に相応しくない仕事だと思い続けている。


 その苛立ちを二本目のタバコに火を点ける事で紛らわせようとするが、100円ライターを擦る音にドアをノックする乱暴な音とが混ざった。


 喫煙室に入ってくるのは、桜井から見れば一回りもしたの男。


「桜井さん。タバコ、一日に何本、吸ってます?」


 溜息ためいきを思わせる長い嘆息たんそくと共に投げかけられる言葉は、隠そうともしていないトゲがあった。


 ――嫌味ったらしいガキ。


 桜井がそう感じるように、男にも強い苛立ちと腹立ちがある。


 恐らくは平行線。


 だから桜井はいつもと同じ事をする。


「……ごめんなさい」


 火の点いていないタバコをパッケージに戻し、桜井が席を立つだけだ。


 ――そういえば。


 喫煙スペースを後にしながら、桜井が脳裏に浮かべるのは、


 ――こいつが持ってきたんだった。


 スマートフォンばかりを気にしている理由だ。


 ――売り場から文句いわれましたよ。中古品の値段、5と2を打ち間違えてたでしょって。何で、ルイスレザーズのサイクロンジャケットが2万なんです?


 桜井が値段設定をミスしてしまったジャケットの事を指摘してきたのは、この男だった。


 ――次は、お前をぶっ殺すぞ。


 自分の肩越しに男の姿を盗み見る桜井だったが、スマートフォンの画面には遂に事故のニュースを見つける事はできなかった。


 ――こいつも……。


 ギッと桜井のした歯軋はぎしりが、不快な音を立てた。


 ――クソガキ一匹、始末できないのかッ。


 苛立ちを文章にして、スマートフォンのメッセンジャーアプリに打ち込む。



 画面に表示されている名前は、パイエティ。



 ――お前の仕事は、てめェの穴蔵を出て来てしてる奴を始末していく事だろうが。全力で!


 画面のガラスも砕けよとばかりにタップしていく桜井の指は、フリック操作もうざったいとばかりにタンタンと音を響かせている。


 ――始末できたのは、バカ猫に餌をやってたクソガキだけか!


 その言葉が示す事実は一つ。



 パイエティとは即ち悪魔、桜井こそが契約者だという事だ。



 パイエティに始末させたクソガキとは神矢かみやの事だ。


 ――野良猫だろ。野良犬だろ。何の役にも立たないどころか害虫同然だって事も知らないクソガキが!


 神矢の事で覚えているのは、エサをねだりに来た地域ネコを蹴り上げた時だ。


 ――所構わずクソ垂れるしか能のないネコに、ギャンギャンギャンギャンうるさいだけの犬だろ!


 地域全体で世話をするのだから、エサやりも自由という地域ネコ、地域犬に関して、桜井は独特の解釈をしている。


 ――私の自由だろう。


 この自由とは勝手――蹴ろうがどうしようが、自分の自由だろうという意味だった。


 ――やめてあげて下さい。


 血相を変えて走ってきた神矢は、手に持っていたキャットフードやドッグフードを放り出して桜井が蹴り上げたネコを抱き上げた。


 何をするんだと責めてきたならば、桜井も怒鳴り返してやった事だろう。


 ――か弱い動物に何をするんだと、鬼の首を取ったようにいう奴なら、叩き潰してやったのに。


 事実、相手が一いえば十いい返すのが桜井の流儀だ。やられたらやり返す。相手が黙るまで言い続けられる弁舌べんぜつだけは、誰にも負ける気がしない桜井だからこそだ。


 だが神矢は桜井を責めるのではなく、蹴り上げたネコを抱き上げて、眉をハの字にして向けてきた言葉は、


 ――ネコや犬は、肋骨がないからお腹を蹴ると大怪我するんです。やめてあげて下さい……。


 叫ぶのでもなく、怒鳴り散らすのでもなく、その声はだった。


 怒鳴り合いになるならば負けない桜井であるから、懇願するしか能のない神矢を黙らせる事くらい簡単だった。


 知るかと一言、それで済む。


 神矢は黙り、ネコを連れて逃げ出した――少なくとも桜井はこう見た。



 しかし逃げたとしか見えない神矢に対し、いい様のない敗北感を感じたのも事実。



 ――クソガキが! そんなにバカネコやバカ犬が好きなら、ずっと一緒にいられる状況にしてやれ!


 パイエティに命じ、神矢の死体は神矢が葬った犬の更に下に埋めさせた。


 ――またボロ車イジってるの? ウチの店から有り得ない金しか払わずにジャケット持っていった奴の始末は?


 桜井がつけ間違えたジャケットを買っていき、年下の、しかも高卒の男から怒鳴られる原因にしたたくみの始末はつけたのかと、立て続けにメッセージを送る。


 返信は……あったのかどうか、桜井は見ていない。


 誰がどういおうと、いいたい事しかいわないのが特技といえば特技だった。

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