第4話「そこにいた彼らの事」

 亜紀が用意したホットサンドをかじるベクターフィールドは、自分が好きな味付けだと笑った。


「うまいぜ」


 牛丼、中華丼、親子丼と様々なレトルトの丼物は、総じて味が濃い。パンに挟んで焼けば、亜紀が思った通りのジャンクフード的な味、つまりベクターフィールドが好む味になる。


「こりゃいける」


 とはいえ、亜紀から「どういたしまして」という言葉はなく、ホットサンドは移動しながらでも食べられるから早く出ようと急かすのみ。


「で、直接?」


 ベクターフィールドの口にした言葉が、特に気にかかる。自然と亜紀の視線は真剣なものとなり、ベクターフィールドものんきな表情は消す。


「あァ。いたぜ、神矢クン」


 見つけた――ベクターフィールドがそういえば、亜紀の顔を覆っていた絶望は希望に転じようとするのだが……、


がな」


 やはり絶望に変わりはない。ベクターフィールドは続ける。


「警察犬が花壇の周囲で吠え始めたっていう事もそうだし、俺も調べた。間違いないぜ。花壇の下に神矢くんの死体が埋まってる。神矢クンがとむらった犬の死体は、カモフラージュに使われたんだろうぜ」


「でも、何人がかりで掘ったの? 掘ったとしても、それだったら離れる時の行動が警察犬にバレるでしょ? まさか、元の足跡と寸分違わず戻った、なんていわないでしょ?」


「おいおい……」


 ベクターフィールドは苦笑いした。自分の足跡を正確に踏んで後退りするというテクニックは、野生動物ならば身につけている事もある。だが人間が、しかも大勢がやるなど不可能な話だ。


 常識的な方法には存在しない。


「だから、会って聞けばいい。その為の俺だぜ?」


 ベクターフィールドは、常識の範囲外にいる存在だ。


「できるの?」


 亜紀の問いにベクターフィールドは頷くと共に、苦笑とも皮肉とも取れる笑みで口元を歪ませる。


「俺じゃ判断がつかない事があるだろうからな」


 ベクターフィールドが持つ弱点のためだ。



 魔王や悪魔が実在しつつも、この世の支配者が人間である理由は、無限の時間を生きる悪魔は創作活動が一切できないからである。



 無限の時間があるが故に、明日できる事を今日する気になれない。


「俺は指示された事しかできないぜ」


「……わかった」


 亜紀は決意を噛みしめるように、ゆっくりと頷いたのだった。



 ***



 二人が向かったのは多目的ルーム。


 ベクターフィールドがいるため、日が暮れた後に公営住宅へ入る事自体は問題ない。


 だが多目的ルームがある階へ上がる前に、ベクターフィールドは亜紀を止めた。


「いくつか注意しておくぜ」


 口調こそいつもと変わらないが、ベクターフィールドの雰囲気から、ふざけた話ではない事は明らか。


「まず、この中にいるのは、想像通り亡霊だ。大抵のヤツは見えない。それを見えるようにするんだが……気を付けろ」


 現実離れした単語が並ぶが、亜紀がそれらを本当だと感じるくらいに。


「霊は、自分の姿が見えるヤツに襲いかかってくる場合がある。警棒、持ってるか?」


「一応は」


 伸縮警棒を見せるも、亜紀の顔には不安が浮かんでいる。


 しかし続くベクターフィールドの言葉には不安というより、不審な表情にさせられてしまう。


「いざとなったら身を守れ。眉間を割るか、胸を突くかで霊は消滅するぜ」


「え?」


 亜紀が持っているのは伸縮警棒であり、括弧書きで「何の変哲もない」と書くようなもの。


 霊――超常現象に対抗できるようなものではない、というのが亜紀の印象だった。


「できるぜ」


 しかしベクターフィールドはステンレス製の伸縮警棒は十分な武器だという。


「質量保存の法則とか、エネルギー保存の法則とか、そういうのがあるだろ。何もないところには、エネルギーは充填されない。だから霊は、自分が存在できるを薄い膜で作ってる。この膜は、木とか人体と同じで、プラスの性質を持っててな。マイナスのエネルギーで切断するか貫通させて、外と中を繋がれると消滅する」


 警棒を指差すベクターフィールドは、


「ステンレスは電荷的にマイナス。十分だぜ」


 ベクターフィールドのように実体といえる程の密度を備えているならば兎も角、霊ならば十分だ。


「でも最後の手段なんでしょ? 中にいるのは神矢くんの幽霊なんだから」


「頭には叩き込んでおけ。霊は経験の蓄積とか時間の概要とか、そういうものが人間とは明らかに違う。同じ事を繰り返すし、唐突にキレる時もあるってだけでもな」


 常識を捨てろ、とベクターフィールドはいう。その中には、亜紀が持っている職業倫理も入っている。


「ここから先は、打ち倒さなきゃならん、そういうが来る場所だぜ」


 亜紀が臨んだ事のない場所だ、とベクターフィールドは念を押した。人の言葉を善意で解釈し、常に聞く体勢を保つ事は亜紀の持つ美徳だが、悪徳になる場所でもある。


 何よりも――、


「開けたら、この神矢クンのところに走れ。多分、護衛がいるから、そいつらは俺が何とかしてみる」


 この場にいる霊は、神矢少年一人ではない。


 ベクターフィールドはドアノブに掛けた手を引くと同時に、空いているもう片方の手をひるがえす。


 室内へと身体を滑り込ませるように入った時には、その手には剣が握られていたのだが……、


「……何?」


 室内の光景は、ベクターフィールドにも思考をストップさせられてしまった。



 室内には複数の霊がいるという予想は正解だったが、その例が揃いも揃って



 数十匹分の目が一斉にベクターフィールドへと向けられる光景は異様であり、


「ううーッ」


「シャーッ!」


 武器を持って乱入してきた男へと向けられる威嚇は、彼らが真っ当な生物でなくなってしまっている事も手伝い、気の弱い者ならば心臓麻痺でも起こしてしまう程。


「ハン」


 だがベクターフィールドが持つ魔王の肩書きとて、伊達ではない。鼻先で笑い飛ばして剣を構える。


 そこへ亜紀の声が、横っ面を叩くかのように飛ぶ。


「ベクターフィールド!」


 ベクターフィールドは視線すら向けない。


「心配無用だぜ。例え、目の前にいるのが地獄の番犬だったとしても、口ン中に辛子入りのちくわ放り込んでやる」


 軽い冗談を混じらせたのだが、亜紀が呼び止めた理由は敵の数と姿ではなかった。


「そういう悪戯じゃないし、斬っちゃダメ!」


 ベクターフィールドが亜紀に期待した判断力だ。


 自分たちに牙を剥く相手だから剣を振るおうとしたベクターフィールドに対し、亜紀は霊の牙より立ち位置を見ている。


「この子たち、神矢くんの友達でしょ!」


 亡くなった犬が安らかに眠れるようにと、団地の中心にあり、子供もよく来る公園の花壇に葬った神矢である。



 ここにいる霊は神矢と共にいるために集まってきている。



 ――斬り捨てたら、心を開かなくなる、か?


 ベクターフィールドの切り替えは早い。


「お前は奥の子供のとこまで走れ!」


 剣を捨てて踏み込んでいく。


 ――犬か!


 まず襲いかかってくる犬の霊に、ベクターフィールドは眉間にしわを寄せた。角も豪奢ごうしゃな衣装も、威厳のある声もないベクターフィールドが魔王という称号を得ている理由は、喜怒哀楽のどれか一つを力に変え、完全に失ってしまったがためだ。


 ベクターフィールドが失った感情は


 故に犬への拳を伸ばす事くらい、何という事もなかった。


 ――犬の攻撃は厄介だぜ!


 それでもベクターフィールドは慎重さを見せる。


 犬は祖先を辿っていけばオオカミへと行き着くのだが、オオカミの狩りが捕食のための行動であるのに対し、犬の狩りとは主人を守るための防衛行動である。


 オオカミは何が何でも急所を狙う必要はない。傷を負わせ続け、動けなくする事が最も安全な狩りの方法だからだ。


 だが犬は違う。


 主人を守るため、一撃必殺こそを本能に刻み込んでいる。


 ――来やがった!


 犬は真っ直ぐベクターフィールドの喉を狙う。強靱な下肢から発揮される瞬発力、跳躍力を頼みに、その牙を絶対に突き立てようと飛びかかる。


 足を竦ませて立ち尽くしてしまえば、かみ殺されていただろう。


 そうでなくとも、迷いが一瞬でもあれば、決着がついていた。


 だがベクターフィールドに迷いはない。


「やられる訳には、いかねェな!」


 敢えて踏み込む事で、ベクターフィールドは犬の間合いを外す。犬の身体を抱きかかえるようにして、攻撃をかわした。


 次に来る犬へと投げつける――少々、乱暴な行動であるが、斬るよりはマシだと高を括った。


 三匹目の攻撃を避けたところで、亜紀は部屋の最奥へ走る。神矢少年は、そこで膝を抱えて座っていた。


「神矢くん?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る