第2話「現場:公営住宅」
大胆な政策転換をスローガンとして住宅扶助の充実を語った都市であるから、公営住宅は、その言葉から受ける印象とは裏腹に古ぼけた印象はなかった。
しかしデザイナーズマンションが建ち並んでいる訳でもないのだから、そこへ乗り付けるベクターフィールドの愛車は誰の目にも異質に映った事だろう。
ベクターフィールドの愛車は、20世紀末、まだ日本がバブル景気の
「で、少し訊きたい事があるぜ。いいかい?」
ステアリングを握るベクターフィールドは、
「防犯教室なんかに熱心っていうのは分かったが、他に特徴はないか? 何でもいいぜ。知ってる事を教えてくれ」
「……動物が好きな子だった」
「地域猫活動にも熱心で、そう言うボランティアにも頻繁に顔を出していたみたい。その活動で、地域猫に餌やりをしてトラブルになった事もあるみたいだったけど……」
「他には?」
ベクターフィールドが亜紀へと向ける横目には、ある種の確信めいた光がある。
――こいつ、嫌われるタイプだろ?
亜紀が言い淀んでいる事が何よりの証拠だ。
「……あまり目立つタイプじゃないし、友達が少なかったみたい」
亜紀の説明はベクターフィールドの予想通りだった。
次の言葉も含めて。
「だけど生徒の感想は
「そりゃそうだろう」
ベクターフィールドの言葉は、
「学校の先生っていうんなら。いい先生なら教え子を悪くいわないし、どうしようもない先公なら覚えてないっていうぜ」
口にしてしまった以上は説明するしかないという口調だったが、いいたい事は簡単だ。
「つまり先生の評判がいい生徒ってのは、記憶に残ってない証拠だぜ」
神矢少年に対する周囲の評価は、それだという事。
「それは……そうかも知れないけれど」
亜紀も調査していく上で同様に思ってしまったという事だからこそ、語尾を濁らせてしまう。
「この事件の発端も、そんなところにあるんじゃないかといわれてた。確かに」
亜紀が言葉の裏に隠したのは、「神矢少年は嫌われている」だ。
「夕方前に家を出たまま行方不明になった時も、地域猫のたまり場になってる公園へ餌やりに出かけたからだったから」
放課後の時間に友達と遊びに行くでもなく地域猫の世話を優先したのだから、神矢は友達が少ないというよりも皆無という可能性すらある。
その可能性を加味すると、ベクターフィールドにはもう一つ思いつく。
「神矢くんは、ただ餌やりをやるだけのタイプじゃないな。フンの始末や募金にも熱心だったはずだぜ?」
それは
――クソがつくあだ名をつけられてそうだぜ。
全てベクターフィールドの想像に過ぎないが、現実とて当たらずとも遠からず、だ。勿論、そんな事は口に出さず、亜紀の耳には入れないが。
「してた。確かに。とても優しい子だったの」
だからこそ、この迷宮入りしそうな事件を解決したい――例え職務の範囲を超えていても――亜紀はそう思っている。
ベクターフィールドの愛車が停止する。
神矢少年が最後に向かった公園に到着だ。
公園を一瞥しつつ、ベクターフィールドは亜紀へ言葉を向ける。
「捜査は、どういう風に進んだ?」
昨今の事情を考えれば仕方のない事でもあるが、公営住宅の真ん中にある公園は、公園とは名ばかりで遊具の一つも接地されていない場所で、唯一、公園らしいものといえば花壇がある事くらいだった。
その花壇を亜紀は指差した。
「そこ。花壇よ」
「この、雑草も生えていないようなとこか?」
ベクターフィールドに亜紀は「そう」と頷くと。花壇の周りにつけられた足跡の中に混じっている犬の足跡を指差した。
「警察犬も投入されたの。三頭よ。でも、その三頭が三頭とも、その花壇で足を止めて、吠えるだけで動こうとしなかったの」
「おい」
ベクターフィールドは眉を顰めさせ、花壇から亜紀へ視線を移す。
「警察犬が吠えたって事は、目的のものを見つけたって事じゃないのか?」
警察犬の習性だ。
「警察犬は、標的の匂いを嗅いで行動してる訳じゃない。あくまでも補助的なものだぜ。標的の匂いを嗅ぎ分けるのは麻薬捜査犬だ。警察犬が追いかけるのは地面と靴底の擦過臭。ここで立ち止まると言う事は、ここから動いていない――そういう事になるぜ?」
そういうと、ベクターフィールドは大股に花壇へと近づいていく。
「ここ、花壇だろ? 埋まってるんじゃないのか?」
「そう思って、許可をもらって掘り返してみたの」
亜紀の口調はウンザリしていた。それくらいの事を見逃す警察ではない。
「でも、出て来たのは麻袋に入れられた犬の死体だった。調べて見ると、地域犬だった。神矢くんが管理者に問い合わせて、埋める許可をもらってたわ。この花壇に埋めれば花に宿って生き続けてくれるんじゃないかと思ったって」
「……」
その行動力と、管理者が許可を下ろすほどの人格を持っているのは、やはり亜紀にとって好ましい小学生だったという事だ。
だかベクターフィールドの質問は終わっていない。
「その下は?」
その下――。
「え?」
亜紀が思わず聞き返したが、ベクターフィールドは「下だ、下」と花壇を囲っているレンガにコツコツと靴の爪先で鳴らした。
「犬の死体の下。死体を隠すんなら、犬の死体なんてもってこいだぜ。カモフラージュになる」
「無理でしょ」
亜紀は即答。
「自衛隊員が、人ひとりが入れる穴を掘るのに必要な時間は、30分っていわれてる。自衛隊員並みのスピードでやったとしても、30分もここで作業をしていたら、いくら何でも誰かが気付くわよ」
その可能性は除外すべきだという亜紀だったが、これにはベクターフィールドが苦笑いした。
「おいおい、俺を呼び出しといて、常識を理由に退けるのか?」
ベクターフィールドが必要なのは、常識に囚われない調査方法を必要としているからに他ならない。
だが、そのベクターフィールドの曖昧な笑みを消す者がいる。
「……いや、待て……」
不意に公営住宅の方へ向けた目に、何かが見えたのだ。
「あの三階、広い部屋があるな。何だ? あれ」
「ああ、多目的ルームね。この公営住宅には集会所がないの。だから、サークル活動とか会合とか、そういうのに使われる部屋よ」
それに従えば、誰がいてもおかしくない場所である。
しかし亜紀の言葉には続きがあった。
「誰もいないみたいだけど」
窓は磨りガラスではなく、カーテンがいつも閉められている訳でもない室内は、隅々まで見えるかといわれれば不可能でも、誰かがいるならば見える。
「誰かいたな」
ベクターフィールドがいっているのは、亜紀が見落としたという事ではない。
「え?」
不思議そうに振り返った亜紀に対し、ベクターフィールドは「出直すぞ」と告げた。
「解決は、多分、早いぜ。……いや長引く場合もあるかも知れないか」
「?」
小首を傾げた亜紀へ、ベクターフィールドはそれ以上の言葉を投げかけなかった。
ただ車に戻れと促す。
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