Phyllobates terribilis-そして魔王は今日も空腹-

玉椿 沢

第1章「魔王ベクターフィールドの日常」

第1話「魔王は今日もアポなし」

「ヨッド・ハー・ヴァル・ハー」


 甘粕あまかす亜紀あきの呪文によって床に描かれた魔方陣に光が灯る。


 150にも届かない小柄な、ショートカットの女が口にしたのは召喚の呪文。


 似たような言葉であるが、神仏ならば降臨と呼ぶ。


 召喚されるのは、人間よりも下位の存在――である。


 広がった光が収束し、その中心にいるのは契約を司る悪魔であり、魔王の称号を持つ男ベクターフィールド。


 その肩書きとは裏腹に、ベクターフィールドの外見に現実離れしたものはない。角も豪奢ごうしゃな衣装もなく、190センチ届こうかという長身痩躯ではあるが、目は日本人らしい切れ長の一重瞼。顔こそ彫りが深く、外国人を思わせるものの、全て人間の範疇はんちゅに収まっている。


 モヒカンラインを若干、立たせた短髪の美丈夫。


 そのベクターフィールドは――、生ワッフルにかぶり付いて口元をクリームで白くしているところだった。その口元から出される言葉も、一言でいって間抜けである。


「お前……何回、いったらわかってくれるんだ?」


 召喚にアポイントメントなど取りようがない。召喚した亜紀も、眉間にしわを寄せるばかり。


「寧ろ、いつならものを食べてないの?」


 亜紀はメモ帳を示していた。


「7時に起床して朝ご飯、10時にお茶、12時お昼、6時に夕食、10時就寝。これに3時のおやつもいるの?」


 肩を落とした亜紀は思う。


 ――魔王なんて呼ばれているのに、何でそんな健康的な生活をしているの?


 浮かんだ言葉は亜紀の顔にも出ていたのだろう。


 ベクターフィールドはティッシュで口を拭いなから、


「健康的でいいじゃねェか」


 自分の生活にとやかくいわれる覚えはない、と唇をとがらせた。


「今回は、金払った後だったからよかったけどな」


 亜紀にぶつけたい苦情は様々にあるが、口を拭ったティッシュと共に握りつぶす。アポイントメントなしの召喚である。就寝時や食事時に呼び出される率の高さにこぼしたい愚痴は際限ないが、それら全てを今だけは放棄した。


「で――」


 ベクターフィールドが言葉と共に、宙へ放り捨てたティッシュに火が点く。


 ありえない高温の灯り。


 それに照らされたベクターフィールドの顔に、とぼけた表情などはない。


「俺との依頼を行使しなきゃならない事件ってのは、何だ?」



 ベクターフィールドは契約を司る魔王である。



「契約に従おう」


 ベクターフィールドに笑みはない。元より似合わないと自覚している。


「お前が必要だと思った事件に対し、全力で協力するぜ」


 日本カナダハーフを自称する男の目は剣呑さこそ伴うが、無表情に近くなった。



***



 甘粕亜紀の仕事は警察官。


 とはいっても本庁の刑事部に所属している訳ではなく、また所轄の刑事課でもない。


 防犯課少年班の巡査だ。


 契約者でもある亜紀の経歴で、ベクターフィールドが覚えているのは、ただ一行分くらい。


 ――18で奉職した切っ掛けは、ガキの頃に見た刑事ドラマの影響……だったか?


 当然、今のベクターフィールドは話を聞く体勢ではない。


 ――高級スーツ、スポーツカーでカーチェイス、銃撃戦。


 亜紀が憧れたという刑事ドラマは。いささか古い父親の趣味だった。


 そんなものの影響は、亜紀の悪癖に繋がっている。



 管轄外の事件に平気で首を突っ込んでしまう程、正義感を暴走させてしまう事だ。



 煙たがられる彼女についたあだ名は、小柄である事とショートカットである事から毒キノコ。


 ――まぁ、無用だぜ、その正義感。実際の警察にはな。


 無表情だったベクターフィールドの口元に苦笑いが浮かんだ所で、亜紀は一度、ポンとテーブルを叩いた。


「聞いてる?」


 上の空としかいいようのないベクターフィールドへの不満を口にする亜紀だったが、当のベクターフィールドは苦笑いしていた口を開き、


「聞いてるぜ」


 要点だけを覚えれば十分だろうというのは、やはり亜紀にとっては不満のタネだ。しかしベクターフィールドも過ごす。要約すればA4のレポート用紙一枚にも満たないとばかりに。


「防犯教室で知り合った小学生が、何日か前から行方不明。公営住宅の敷地内にある公園から忽然と消えた。場所が場所だけに事件性が疑われ、警察犬まで出動する騒ぎになった」


 ベクターフィールドは一度、フンと強く鼻を鳴らすと、


「これだけで済むぜ」


 要点だけならば、本当にこれだけだった。


 だが納得していない亜紀の顔を見ていると、ベクターフィールドの中に生まれる言葉もある。


 ――警察犬を出しても見つからなかったから俺……じゃないな?


 亜紀が納得できない顔を見せているのは、迷宮入りしそうだからというような理由ではない。反論の言葉を、亜紀はゆっくり、一言一言をかみ砕くようにいおうとした。


「あのね」


 だからベクターフィールドは一言目でさえぎる事ができた。そして遮ったベクターフィールドの言葉は、亜紀の反発を呼ぶものではない。


「わかるぜ。防犯教室でも、ふざけたり騒いだりしないタイプだったんだろ? ついでにいうと、交通安全指導とかも真面目に聞くタイプだろうぜ」


 亜紀がいいたい事を、解決しなければならないと思う理由だ、とベクターフィールドは察していた。


「そういう小学生は、大事だぜ」



 素直に、そして茶化さずに大人の話が聞ける小学生は、真っ直ぐに育っている。



 そういうインテリジェンスをベクターフィールドは持ち合わせていた。魔王という肩書きは称号に過ぎず、角も異形もなく、豪奢な衣装とも無縁のベクターフィールドは、悪徳の王ではない。


「手伝うぜ」


 指示を出せと、ベクターフィールドはジェスチャーで示した。

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