第六章
第一話 琵琶湖
比叡山に入ってから、すでに六日経っていた。
誰かが動き出したという報告もなく、その間に私は十分すぎる模写もできた。
蒼威様は依然朱慶様や他の僧兵たちと話し合いを重ねていたけれど、先ほどおもむろに訪ねてきて、気分転換に景色でも見ないかと誘ってくれた。
私はもちろんそれを受けて、二人で山道を歩いていた。
「不思議です。戦の準備をしているはずなのに、日々が穏やかすぎて……」
「そうだな。情報網は張り巡らせているが、まだ動きはない。しばらくはこの穏やかな日々が続くのかもしれない」
それはそれで嬉しいけれど……。
「鷹無家はどうなっているのでしょうか。謀反を起こした三家は――」
「和冴とは連絡は取っているが、鷹無家自体は特に変わりないと言っている。謀反を起こした三家は、屋敷を放棄して別の場所に集まっているようだ」
今までは鷹無家の周りに全ての分家が寄り集まって生活していた。
弁解もせずに一方的に出て行ってしまったのなら、まだ一応謀反は継続中ということ。
穏やかすぎて、このまま謀反なんてなかったことにならないかしらと思ったけど……。
「澄、こちらだ」
蒼威様は岩の上から手を差し伸べてくれる。
少し躊躇ったけれど、手を重ねると、一気に引き上げられた。
そして岩の上に立った瞬間、眼下に巨大な池が広がっていた。
「ひっ……!」
驚いて蒼威様にしがみつく。
何これ。考えてもみないほど巨大すぎる池だわ。遠くは白く煙り、まがいもののようにただただ美しく水面が広がっている。
それを見ていると、このままその水面に向かって引きずり込まれるような不思議な力に体が支配される。
それがとてつもなく恐ろしくて、さらに蒼威様にしがみつく腕に力を籠める。
「なんだ、琵琶湖を見たのは初めてか?」
「は、はい。び、琵琶湖……、というのですか? 池では……」
「池ではない。池よりももっと広いだろう」
「ひ、広くて、美しすぎて、恐ろしいです……」
できれば遠くから眺めたい。不安定な岩の上ではなく、たとえば屋敷の中からとか……。
よく見たら、岩の先はもう崖が広がっている。足を置く場所を間違えた、滑って落ちそう。
一人で立つには恐ろしく、蒼威様にしがみつくしかなくて、それがまた……。
ハッとして、顔を上げる。
「どうした」
見下ろす蒼威様が近すぎる。
いえ、近いというかこれは、私が蒼威様に抱きついている?
その証拠に、蒼威様の着ている深い青の着物が、私の頬に付いていた。
「も、申し訳ありません! 私、なんてことを!」
慌てて離れようとしたけれど、肩を抱く蒼威様の手にぐっと力が籠る。
「暴れるな。落ちるぞ」
確かにそうですが!
言い返したかったけれど、全く言葉にならない。
蒼威様はまだ岩の上から降りようとせず、無言で眼下に広がる琵琶湖を見つめている。
恥ずかしさと恐怖がせめぎ合う。でもやっぱり怖くて、風が吹いた時、体勢を崩して落ちてしまいそうで、蒼威様に気づけばまたしがみついていた。
「澄は知らないことばかりだな」
「そうですが……」
怖くて目を開けられない。
「ほら、目を開けて見てみろ」
蒼威様に促されて恐る恐る瞼を開く。
すると、雲の間から光が差し込み、湖面がその部分だけキラキラと輝いていた。
まるで天女が空に昇っていく光景のよう。
神々しさに、恐怖も忘れて見入ってしまう。
「綺麗……」
興奮のままに身を乗り出した私を、蒼威様は支え続けてくれる。
私たちはしばらく寄り添って、この世のものとは思えない美しい光景を見ていた。
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