第三章
第一話 模写
柳瀬家で生活するようになってから三日目。
あれから和冴様が姿を現すことはない。屋敷はとても広く、蒼威様とも顔を合わせることはなかった。
未鍵家にいる時は外に出たことがなかったからわからなかったけれど、柳瀬家を含めた分家は、本家である鷹無家を囲うようにして建っている。
そのせいか蒼威様はほとんど鷹無家で過ごしているようだった。
蒼威様は朝早くから本家に向かい、仕事をし、夜遅くに帰ってくる。
たまに早めに帰ってくることはあるけれど、自室に籠って仕事をしているか、和冴様と一緒にどこかに出かけているようだった。
そんなことを考えながら、息を吐く。
こんなに長い時間模写をしなかったのは、自分が能力者だと知ってから初めてだ。
染みついた感覚は容易く消えてくれず、気づけば模写したい欲求に駆られていた。
それに何もしないと、水早緒のことばかり考えてしまう。
盲目的に信奉して何が悪い、と強気に思うのと同時に、水早緒から投げかけられた言葉を思い出すたびに、和冴様がおっしゃる通り目を覚ましたほうがいいのかもしれないと弱気になって不安が増す。
意識を逸らすために何かしたい、そう思っていた私は、気づいたら部屋の火をともそうとしている下女に声をかけていた。
「突然申し訳ありません……」
頭を下げた私に、文机に向かい合っていた蒼威様が筆を走らせる手を止める。
先ほど下女に蒼威様がいつ帰るか聞いたら、もう帰ってきていると聞いて、迷ったけれど、押しかけてしまった。
「どうした。何があった」
「は、はい。あの……、できれば私に何か仕事を与えてくれませんか? 模写の仕事があれば、やりたいのですが」
「お前は柳瀬家の客人だ。別に何もしなくていい」
「でも、何かしていないといろいろ深く考え込んでしまって……」
消え入りかけた声で「辛くて」と呟く。
すると蒼威様が私に向き直った。
「……お前は未鍵家にいた時はどんな生活をしていた」
思ってもいなかった問いに、目を瞬く。
「真実を話さないなら、また強制的に話をさせるぞ」
嘘を吐いても、きっとすぐに露見する。
その言葉に、唾を飲み込んだ。
「未鍵家にいた時は、朝から晩まで魔導書の模写をしておりました。夕方になると水早緒がやってきて、今日作った模写を渡し、明日作る模写の原本をいただきます。その時に水早緒がお菓子を持ってきてくれて、少しだけおしゃべりして……。終わったらまた模写して軽く仮眠を取り、また朝から模写を続けます。その繰り返しです」
そこまで話して顔を上げると、蒼威様は眉間に深いしわを刻み込んでいた。
「自由はないのか?」
「え……、自由、ですか? 屋敷の中は自由に歩けました。好きな時に休憩もできます。でも作らないといけない模写の数が多くて、遅くなると水早緒に悪いですから、ひたすら模写に没頭していました。強要されていたわけではなく、自分で望んでやっていたことです」
反発する私に、蒼威様はますます眉を深く顰める。
まるでそんなものは自由とは呼べない、と言いそうで身構える。
そう言われても、毎日決まったことを繰り返してきた私には、何が自由かと問われても答えることができない。
しばらく沈黙したあとに、蒼威様は立ち上がって部屋を出る。すぐに桐の箱を抱えて現れた。
「模写しろ。ただし俺の目の届く範囲でやれ。またわざと怪我をされたら困る」
「は、はい! ありがとうございます!」
パッと心が弾む。受け取った桐の箱を開けると、青白く光る魔導書が入っていた。
気づけば頬が緩んでいた。
見慣れたものを手にして安堵する。
蒼威様は私に文机を譲ってくれて、私の斜め後ろに腰を下ろした。
魔導書に向けて左手をかざす。すると美しい歌声が天から響いてきた。
それを何の変哲もない紙に書き写していく。
ああ、やっぱり模写するのが好き。
没頭している時だけ、辛いことも全部忘れられる。
完璧に模写した変哲のない紙は、原本と同じように青白く輝き出し、歌い出す。
原本よりも明朗に、美しく。
できあがった模写を手にしたら、弾む心を抑えきれない。
「できました!」
振り返って満面の笑みを浮かべて蒼威様に差し出すと、私を見て目を丸くした。
その姿を見て、我に返る。
「す、すみません。緩んだ顔をお見せしました……」
「いや、構わない。それはお前の箱に入れろ。待て、持っていなかったんだったな」
蒼威様は慌てたように立ち上がる。動揺していたのは私だけではなく蒼威様も、かしら。いいえ、そんなの思い上がりだわ。
「これを使え」
手渡されたのは、紐につるされた小袋だった。青地に金の糸で美しい水紋の装飾がされていた。懸守かしら。
「えっ……、こんな美しい守り袋をいただけません」
「いいから使え。どうせ捨てるものだ」
抗う私を封じ込めるように、蒼威様は顔を背ける。
「……ありがとうございます。それならいただきます。大事に使いますね」
ここまで言われては、断る理由も見つけられなかった。
私は模写した魔導書を袋に入るくらいにまで折りたたもうとした。でも急に手を掴まれた。驚いて目を向けると、蒼威様が私以上に驚いた顔をして魔導書を見ていた。
「……何をしている?」
「え? 箱に入れろとおっしゃったので、折りたたんで小さくしておりました」
「お前は自分が解読者だと言ったが、今まで模写するばかりでその力を使ったことがないのか?」
「は、はい。魔導書が青白く輝くのを見ることができるのは、解読者だけだと聞いていたので、そう思っていたのですが……、違いましたか?」
戸惑いながらも尋ねると、蒼威様はがっくりと肩を落とした。
あまり表情を変えない方だと思っていたから、こんなにも感情を出しているのを見て目を瞬く。
「はあ……。いいか? 魔導書を手にして、この守り袋に入れと強く願え」
「えっと……、わかりました」
戸惑いながらも、言われた通りにする。すると魔導書はみるみるうちに小さくなり、吸い込まれるように袋の中に入った。
「すごい! どうなっているの⁉」
思わず声を上げる。何度も袋を覗いたり、他の方向から眺めてみるけれど、わけがわからない。
そのうちに、声を押し殺すような笑い声が耳に届いた。目を向けると、蒼威様が苦笑していた。
――え、笑顔を初めて見た。
端麗な顔が途端に甘くとろけ、氷が解けるように優し気な雰囲気に姿を変える。
見なかったふりをしたほうがいいはず。でも目が離れない。
吸い寄せられるようにその笑顔に釘付けになっていると、蒼威様の目が私を捕らえる。
一気に笑顔が消え、蒼威様の咳払いの音で我に返った。
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