第三話 失敗
あれからどれくらい経ったのかわからない。
ゆるやかに季節は変化し、暑さも和らいで少しずつ過ごしやすい日々になっていた。
私は相変わらず地下牢で一日中模写を続けている。
ここに閉じ込められる前と、正直あまり変わらない生活だけれど、水早緒が顔を出さなくなったのは大きく違う。
模写の原本を届けてくれるのはまったく知らない人で、私が何を話しかけても答えてくれることはない。
だから今、水早緒がどうしているのかもわからない。
本家への謀反の準備がどの程度進んだのかも、ここに閉じ込められていては何の情報もない。
でも……。
今作っている模写をじっと眺める。
これは明らかに……。
ぎゅっと瞼を強く閉じる。
ここにいては、水早緒を止めることもできない。
やっぱりこんなこと、駄目。水早緒はこの謀反が失敗したら、どんな影響を及ぼすかなんて、本当にはわかっていない。
私の家族のように見せしめに殺されて――。
脳裏に浮かぶ凄惨な光景は、今でも私を追い詰める。
もし水早緒もあんなことになったら私は――。
体から力を抜き、視線を牢の格子に向ける。
すると、男性がうつらうつらと船をこいでいるのが見えた。
今の私にできることは……。
模写をする筆にぎゅっと力を籠める。
青白く光る紙の上にかざした左手は、小刻みに震えている。
降り注ぐ歌声に耳を傾け、聞こえた文字と違う文字を記す――、その瞬間。
「――っ‼」
模写していた原本から、黄金の矢がいくつも天井に向かって飛ぶ。
その一つが私の左手に突き刺さり、その衝撃で弾き飛ばされた。
気づいた時には地面に倒れ込んでいて、土の香りが鼻につく。
「どうした⁉」
慌てたように、牢が開く。さっきまで牢の外で船をこいでいた男性が駆け寄ってきて、私の左手を覗き込む。
「す、すみません……。模写に失敗して」
「酷い怪我だ! 今手当ができる者を……」
背を向けた瞬間、男性に体当たりして扉に向かって駆け出す。
外に出たと同時に、牢の閂をかけた。
「ごめんなさい!」
「えっ、お、おい!」
男性は戸惑ったように扉に駆け寄る。どうにかして開けようとするけれど、閂をかけたおかげでうんともすんとも言わない。
私はその様子を横目に見ながら階段を上がって外に出る。
足を踏み出した途端、大きな満月が私を見下ろしていた。
幸いなのか、月明りのおかげで今いる場所がなんとなくわかる。水早緒の住む母屋の東にある、蔵の中にいたのか。水早緒に早く会って、もう一度止める――。
その時、私がいた地下牢から、男性の喚き声と物を壊すような音が響いた。
母屋に灯りがともるのを見て、慌てて庭の草木の茂みに身を隠す。すると数人の男性が私の横を走り抜けて蔵に飛び込んでいく。
そして、鐘を打ち鳴らしながら再び蔵から出てきた。
「脱走だ! 澄が逃げた! 水早緒様に報告しろ! まだ近くにいるはずだ!」
焦った声が辺りに響く。怒号が辺りに響き渡り、勝手に膝が震える。
「何事⁉」
水早緒の声。
「すみません、澄が脱走したようで……」
「な、なんですって⁉ 一刻も早くあの子を捕まえて! 見つけたら足を折って逃げられないようにするのよ! 手は駄目! 模写ができなくなる!」
ひっ、と悲鳴が唇から漏れ、慌てて強く両手で口元を塞ぐ。
「殺すのは駄目よ! あの子はまだ使えるんだから、生け捕りにして!」
はっ、と男性たちが応えて駆けていく。水早緒は私が本当にいないか確かめるためなのか、蔵に入っていった。
私はただ、水早緒を説得したかっただけなのに。
もしここで捕まったら、足を折られてただ飼い殺される。
――今は一度、逃げないと。
一旦ここから離れて、また状況が落ち着いたら水早緒を説得する。
そう決めて、水早緒が蔵から出てこないうちに、静かにその場を後にする。塀伝いに歩いていくと、大きな木が塀の向こうにまで枝を張っているのが月明りに浮かび上がる。
私はそれを見上げながら、ごくりと唾を飲み込んでいた。
全部ボロボロだ。
木の枝から落ちたせいで、着物も破れているし、足もくじいた。
手からは出血は止まって痛みも感じないけれど、燃えるように熱い。指先の感覚も最早なく、闇の中ではどんな状態かも正直よくわからない。
寒い。
怪我を負う前までは、過ごしやすいと思っていたのに、今はうってかわって寒すぎる。
ガタガタと体が震えて、自分で制御できなくなっている。
その時、ガサッと藪から音が鳴り、身構える。でも、一向に誰かが姿を現すことはない。
気のせい? 神経が過敏になって、ほんの少しの物音にも反応してしまう。
とにかく朝を迎えるまで逃げ切って、明るくなったら――。
「――ルガスタ」
低い声が響いた瞬間、目の前に紫色の閃光が走る。
思わず倒れるようにその場から離れる。すると私がさっきまで立っていた場所に雷が落ちた。
「――澄だ! これ以上抵抗するな!」
倒れている私に向かって杖を構え、数人の男性が私を取り囲む。
今のは、顔を確認するためにわざと外したんだ。
抵抗すれば、恐らく次は容赦なく襲ってくる。
もう、ここまで――。
「――丸腰の相手に杖を向けるのはやめたほうがいいと思うけどなあ」
私の背後から、ジャリッと小石を踏みしめる音が響く。
「それとも、杖を向ける正当な理由があるなら、聞くよ?」
月明りに照らされた白い衣がふわりと翻り、誰かが私の前に立ちはだかる。
その間に、別の男性に抱え起こされる。
涼し気な目元が、青白い光を受けて、きらりと光る。
気づけばその瞳に吸い込まれるように、食い入るように見つめていた。
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