最悪 9

「おい、聞いてるんでしょ!? 何なの一体っ」

『しばらく真っ直ぐ進んで』

 訳の分からないまま指示された通りに真っ直ぐ路地を駆け抜ける。途中ビルの裏口から出て来た中年男性にぶつかりそうになって、すみませんと慌てて謝った。背後から遠く怒号が響いてくる。

『十字路を右』

 古い雑居ビルの角を曲がる。路地は細く頼りなくなり、アスファルトの舗装が傷んで割れた隙間から草花が顔を覗かせていた。

「こっちに何があるのさ……!」

 急に走ったせいで酷く息が上がってしまった。一瞬足を止めて左手を壁につく。心臓が大きく脈を打って煩い。呼吸が整うよりも早く、体重を預けていた左半身が突然がくりと揺れた。バランスを取ろうと右足を踏み出すと、自分の意志に反して左足が前に出る。途端に重心が崩れて俺はその場に倒れ込んだ。

『早く立って』

 どこか不服そうな機械音声が鼓膜を揺らす。そうか、あいつか。あいつが俺の体を勝手に使っているのか。投げ出したままのはずの左手が、立ち上がろうと地面を押し返している。やめろ、と呻くように呟いて抵抗を試みるがちっとも言うことを聞きやしない。どうやら機械体モデルは完全に俺の脳波をシャットダウンしているらしい。

 目の前が回るような気持ち悪さがあった。吐き気にも似たそれを俺は知っている。五年前のあの日、寮で突如として暴れ出した左半身の、あの――

「分かったから! 頼むから止めてくれ!!」

 絞り出すように叫ぶと、左半身はぱたりと大人しくなった。遠くからパトカーのサイレンがこだまして、少しずつ近付いてそのまま飲み込まれるような錯覚に陥る。はあ、と深く息を吐きながら目を閉じる。開ける。視界はいつも通りクリアだった。

「一体どこに連れてこうっての……」

 ようやく左半身があいつの支配から解放され、自分の力で立ち上がる。脳波は正常に機械体モデルへ届いているようで、何度か軽く手を握ってみるといつも通り自分の右半身と遜色なくスムーズに動く。早く、と耳の奥から沸いてくる音声に急き立てられて、俺は再び路地を走り始めた。

『突き当たりを左に行った行き止まりに犯人がいる。しばらく動いてないようだから、今のうちに近付きたい』

「犯人が……?」

 何故地下深くのあいつに犯人の位置が分かるのか。何で、と疑問を口にするよりも先にあいつが言う。

『事件発生時刻に駅前で拾えた機械体モデル情報の中から、今回の犯人に当てはまる”両腕が機械化モデリング”されていたのが五人。その中で一人、不自然に現場から急いで逃げるような動きをしている人間がいる。恐らくそいつが犯人だよ』

「なるほど……犯人の身元って分かるの?」

『勿論。機械体モデルの情報は全部管理されているから、それを見れば何だって分かる』

「はあ? それって」

『名前は牧村瑠衣まきむらるい。二十一歳、男性。都内の大学生らしい。幼少期に田舎の祖父母の元に遊びに行った際、農業用のトラクターに巻き込まれて両腕を切断している』

 可哀想に。幼い子供が体を失うだなんて。本人は勿論、家族や周囲もさぞかし心を痛めたことだろう。

 いやしかし、それよりも情報の出所の方が驚きだ。

「情報まで見れるのはすごいけどさ、それってつまり厚生労働省のデータベースにハッキングしてるってこと?」

『そう』

 にべもなく肯定する。仮にもお役所の、しかもそんじょそこらの自治体とは情報の重要性もそれを守るセキュリティも桁違いの規模を持つ中央省庁のデータベースだ。

『安心して。痕跡は残してないから』

 そこに痕跡もなくアクセスをしている? そんなこと、一朝一夕で出来るようなものではない。機械体モデルへの干渉技術といい、一体あいつは何者なんだ。特別室で脳裏に焼き付いた、あの悍ましいほど美しい切れ長の目が俺を何処かから貫いているような気がした。背中がぞわりと粟立ち、首を振って彼の視線を脳内から追い出す。

 言われた通り突き当たりを左に曲がると、二十メートルほど先で道を遮っている高い塀の前に、誰かが蹲っているのが視界に映った。

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ニブンノイチ さくらいりこ @sakurairico

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