最悪 6
クリニックは平日の真昼間だからか、空いていた。待合には四十代くらいの女性と、学生らしき男性が座っているだけだ。診察券を出すと、大変でしたね、と受付担当の女性が苦笑いした。ほんとにね。
五分も経たないうちに自分の名前が呼ばれて、診察室へと向かう。目の不具合だと電話で伝えていたので、椅子に座るなりスコープを取り付けられてレーザーを照射された。
「あー、レンズが歪んで浮いちゃってますね。転んだりぶつけたり、大きな衝撃を受けたりしました?」
医師の問いに、俺は首を縦に振った。正確には殴られた、だ。それも複数回。相手は右利きだったから、左頬のあたりにダメージが集中して大変だった。思い出しただけでも腹が立つ。
「その時に歪んじゃったんでしょうね。眼球自体に問題はなさそうですから、これならレンズの張り替えだけで済みますよ」
隣に立つ看護士がスコープを外してくれた。レーザー照射の名残なのか、視界がうっすらぼんやりとしている。
眼球の中で一番多い不具合と言えば、レンズの破損だ。外れる、割れる、傷が入る。日常茶飯事というほどではないが、五年も使えば一度くらいはそういった不具合に当たるのではないかと思う。実際に俺は三回目だ。
「じゃあ眼球のスイッチ落としますよ」
言いながら医師が端末を操作すると、照明が切れるかのようにばちんと左目の感覚が途切れた。医師は自らの目にスコープを嵌めて、何やらピンセットのような器具を取り出すと、左目のレンズを剥がし始めたようだった。感覚はないが妙に気持ちが悪くて、俺は無意識のうちに右目を瞑っていた。
施術はおよそ十分ほど。終わりましたよ、と言われると同時に左目の視界がクリアになる。強く瞬きを何度かする。もう星が舞うことがなさそうだ。
「眼球自体は強いんですけど、レンズはどうしてもね。薄いから。大事に使ってあげてくださいね」
「はい、すみません」
何となくバツが悪くて、すみません、と何度か繰り返してしまった。俺は何に謝っているんだろう。怪我をした切っ掛けにしたって、俺が悪いわけではない。なのにどうして俺は仕事を中抜けして、自費で調整を受けているのだろう。受付に出した数枚の札にやけに未練が残る。保険が適用されたって高いものは高いのだ。ああ、懐が寒い。
そういえば義手の調整を何年も怠っている気がする。最後に診てもらったのはいつだったか。義手や義足は機械義体の中でもかなり丈夫で長持ちするから、眼球や耳に比べて調整の回数はどうしても減る。不具合のメッセージは出ていないから、まだしばらくはいいかな……次のボーナス貰ってから……いやボーナスあるのか、俺。減給食らったぞ?
会計を終えてから、窓から正面の様子を窺ってみる。先程まで出入り口を封鎖するように押し寄せていたデモ隊は解散したようで、車道の端に停められたパトカーだけが置き去りにされていた。中では先程の男性たちが何やら話し込んでいる。威圧的な方の男の手には端末が握られていて、何やら真剣な面持ちで話し込んでいた。事件でも起きたのだろうか。
同時に、俺の仕事用の端末が鳴った。場所が場所なので声を潜めて応答した。漣課長からだ。
『あー、二ッ森? 終わったか?』
「はい、すみません」
謝ってばかりいる気がする。
「何かありましたか?」
『事件だよ、事件。駅前で傷害。犯人はナイフを持って逃走中。クリニックの前にパトカー停まってるよね?』
「は?」
俺は窓の外に目を向ける。停車したままのパトカーの中から、二人はこちらに視線を向けていた。
『五係の宍戸井と美吉野。途中まで乗せてもらって』
「ええ……?」
『じゃ、急いで。よろしく』
「ちょっ」
俺が声を上げる前に通話は切れた。何なんだよまったく。よく見ると助手席の男が早く来いと言わんばかりに手招きをしている。俺は駆け足でクリニックを後にすると、助手席側の後部座席に滑り込むように乗り込んだ。
「早く! 遅いよ!」
「すみません! 出してください」
俺が言うよりも先に車は発進していた。今合流しました、と助手席の男は無線機に投げかける。けたたましいサイレンが鳴り響き始め、窓の外を通り過ぎる通行人が何事かとこちらを見遣っていた。
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