最悪 4

「名前は?」

 俺の問いに、端末へ指を走らせる。

『名前は無い』

「無い?」

 からかっているのか。眉をぴくりと動かした俺の様子を気にも止めず、更に何事かを打ち込んだ。

『好きに呼んだらいい。私は二ツ森と呼ばせて貰うよ』

「無いわけないでしょ、馬鹿にしてるの?」

「無いわけあるんだなあ」

 突如割って入った課長を俺は容赦なく睨み付ける。普段なら失礼だと憚られるかもしれないが、この状況下ではそんなこと気にしていられない。

「この人に名前は無いよ。正確に言うと……言っていいのかな、まあパートナーだし、いいか。この人はね、名前を名乗ることを禁止されている」

「禁止……?」

「名前を名乗ること、喋ること、およそ自分の痕跡がこの世界に残ること。あとはこの部屋から出ること。その一切が禁止されている。今のところね」

 妙に含みのある言い方だった。

 名乗ることを禁止されている? 何故そんな制限を課さなければならない。喋ることも許されないなんて。軟禁もそうだが、人権侵害どころか犯罪の域だ。そしてそれを当たり前のように受け入れているその人自身が、一番分からなかった。

 完全に足下が崩れた。俺はもうここに立っていられる自信が無い。

「課長」

「ん?」

「この人、一体何をしたんですか」

 ああ、と彼は小さく唸る。その人は愉快と言わんばかりに、今度は目元まで細めて笑う。赤い唇に添えられた指先は細くて、この場に不釣り合いなほど扇情的に見えた。

 きっと犯罪者だ――直感的にそう思った。それはこの人を取り巻く環境に懲罰的なものを感じ取ったからかもしれないし、この人自身を取り巻く禍々しい不穏さに無意識に圧倒されたからかもしれない。唇を摘まみながら、俺を舐め回すように見つめてくる。品定めでもしているのだろうか。不愉快すぎて舌打ちで返してやった。

「へえ。二ツ森にはこの人が犯罪者に見えると。酷いこと言うな?」

『悪いことはしてない』

 まるで他人事のようなその言葉に、酷い嫌悪感を覚えた。

「こら。余計なこと言っちゃダメだろ」

『すみません』

 端末を叩くとき以外、俺から視線を離さずにいる。意外と凜々しく形の整えられた眉がぴくりと動いて、ほんの少し伏せがちに傾けられた顔に小さな影が落ちる。

『これからよろしく、二ツ森』

「よろしくって……部屋から出れもしないのに、どうやって捜査するのさ」

 現場にも行けない、聞き込みも出来ない。せいぜい俺の集めたデータを整理して推理するくらいが関の山だろう。しかしそれは二人だけでは無く、チーム全体で行うべきことだ。

「他の皆は? この人のこと知ってるんですか」

「いや、ここでこの人の存在を知ってるのは俺だけ。そして今日からは俺とお前の二人だけ。誰にもバラしちゃダメだよ? 首が飛んじゃう」

 だったら尚のこと捜査なんか出来やしないじゃないか。幾ら二人一組で動くとはいえど、結局のところ捜査はチーム戦だ。しかしこの人はチームの一員ですらないし、なれもしない。

 俺は額に手を当てて盛大な溜息をついた。意味が分からない。指の隙間からその人の様子をちらりと覗えば、やはり真っ直ぐにこちらを見据えていた。しばらくすると、何やら端末に打ち込み始めた。伏し目がちになると長い睫が一層目立つ。やがて一瞬のノイズの後、

『二ツ森となら捜査が出来る』

 顔を上げたその人は、真剣な面持ちを浮かべていた。視線が真っ直ぐに俺の心臓を貫いて、どくりと大きく脈を打つ。無意識のうちに小さく震えていた。それを隠すように右手で左手を押さえ込むように握った。体温調整が成されているはずの義手が、やたらとひんやりしていた。

「はあ? 俺となら? 何で?」

 喉がまだ震えていた。絞り出したような声が響く。

 気を抜くと、首を縦に振ってしまいそうだった。俺の意志は常識という薄い皮一枚で繋がった状態で、彼をどうにか拒絶しようとしている。

『詳しくは教えられない。でも二ツ森がいれば、私は何処にだって行ける』

 ぞわりと産毛が逆立った。この人を信じてはいけない――全身の細胞が警鐘を鳴らしている。鳴らしているのに、あの瞳でもう一度貫いて欲しくなるのは何故だろうか。邪念を振り飛ばすように激しく頭を振った。

「意味、分かんない……お前の言う通り、捜査が出来たとしても。名前も無い、経歴も怪しい、おまけにここから出られない。理由も話せない。詳しくは言えない? 冗談じゃ無い。俺はそんな人間を信用出来ないね」

 殆ど罵りのような勢いを持つ言葉だったが、その人は顔色一つ変えることはなかった。そりゃあそうだろう、と言いたげな表情を浮かべている。その態度が殊更に俺の神経を逆撫でした。

 掴みかかってやろうと右腕を伸ばした瞬間、横から伸びてきた課長の腕に止められた。

「二ツ森。これは上官命令。この人と組むんだ」

 行き場を失った手が、課長の肩を鷲掴みにした。

「無理です! こんな訳の分からない人間と組むなんて有り得ない」

「じゃあどうする? 言っておくけどあんな問題を起こしたお前を引き取ってくれる部署なんてないからね? 俺がどんだけ頭を下げてお前を貰ってやったと思ってるの。大変だったなあ、辞表書かせるとか話が出てたのを撤回させてさあ」

「……だったら、辞めます。恩知らずだと思われても」

「ふーん……このご時世そんな体でねえ」

 課長は肩に掛かったままの俺の右腕をはたき落として、ダンスに誘うかのような手つきで左手を取った。俺の、機械の手。

「雇ってくれるとこなんてあるのかな。ただでさえ警察上がりって一般では人気ないのにね。二ツ森は自信家なんだなあ」

 挑発するような言い方だ。いや、実際に挑発されている。分かっている。こんな体では新しい職にありつけやしないなんて、自分が一番理解している。

 憤慨しすぎて頭に血が上ったのか、再び左目がちかちかと瞬き始めた。俺は手を振りほどくと、瞼の上からやや乱暴に左目を押さえた。弾力のある右目とは違う、硬い機械の左目。そしてそれに触れている左手も、人工繊維で組み上げられた機械だ。左耳も、左足も、左半身を覆う全ての部位は、全部。

 つまり俺に選択肢は無い。課長の言う通り、得体の知れない人間をパートナーとして受け入れて、捜査を行う。その道しか残っていないのだ。

『二ツ森』

 機械音声が俺を呼んだが、そちらを向くことは憚られた。するとその人は端末を机の端に放り投げると、何やらキーボードに何かを打ち込み始めた。無機質なスクリーンセーバーが流れていたモニターにパネルが浮かび上がって、一瞬ジャギーのような乱れが画面に走り、鮮明になった画面に一人の人間が映し出された。

「……は?」

 これでどうだ、と言わんばかりにその人は俺を見遣った。背中を預けたチェアの背もたれがぎしりと重く軋んだ。

 モニターに映し出されているのは、その人が俺を見上げている、まさにその光景だった。その人が瞬きをすると、画面の中のその人も同じように瞬きをする。軽く頭を振る。僅かに遅れてモニターの中でも同じ動き。動揺した俺の視界が揺らぐ。やはりモニターの光景も同じように揺らいだ。

『視界が高くて面白いな。新鮮だ』

 映し出されたのは、あろうことか俺の今見ている視界そのものだった。

 どういうことだ? 俺は無意識に自分の左目を隠していた。モニターの中から大きな手が現れて、画面を乱雑に覆う。軽くジャギーが走って暗転した。視界をハックされているのだと気付くのに時間はかからなかった。

「嘘だろ……そんなこと出来るなんて……」

「だからお前を呼んだんだよ。このデカい警察組織の中、視覚、聴覚、触覚……五感のうち三つも機械化モデリングされてる人間は二ッ森、お前だけだよ。感覚を共有出来れば出来るほどこの人の行動範囲は広がる」

 感覚を共有? その瞬間、俺の中にぞわりとした嫌悪感が広かった。自分を内側から見られているという、通常なら有り得ない感覚。自分を乗っ取られているという、有り得てはならない感覚――

『安心して、プライベートは見ないから』

「あっ……たり前でしょ、ふざけるなよ!」

 怒りに震える両手は行き場がなくて、ぐっと拳にして握りこむ。そんな俺の様子を見て、その人はふっと笑ったようだった。艶やかな下唇をぺろりと舐める仕草が艶めかしい。モニターに映ったままの視界は、彼の口元にピントを合わせていた。

「表向きは特別に単独行動を命じられてる、ってことで。一先ずはよろしく」

「……はあ」

 返事なのか溜息なのか判らない声が出た。追い詰められた人間は何をするか分からないと言うが、そんな中で険しくとも一本道を示されれば大人しくそちらに向かうしか出来ないのだ。自分がそれなりに常識人だった事を今だけ呪う。もう少し向こう見ずな性格だったら、こんな場所とっくに飛び出して、課長の机に辞表の一つや二つ、叩き付けてやっているのに。

 俺は横目でパートナーの様子を覗った。相変わらず真っ直ぐに俺を見つめて、何やら考え込んでいるのか下唇をずっと弄くり回している。時折唇の後ろ側から、てらてらと濡れた粘膜が顔を覗かせる。

 見てはいけないものを見た気がして、咄嗟に目を逸らした。同時にスピーカーから小さくノイズが流れて、

『左目、早めに調整に行った方がいい』

 反射的に左目を押さえた。

「……なんなんだよ」

 右目で睨み付けると、肩をすくめて見せただけで、その問いには答えてくれなかった。

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