最悪 3

「入りますよー」

 扉の向こうには、意外にも快適に見える居住スペースが広がっていた。

 ダークグレーのカーペットが敷き詰められているここは、どうやらリビングにあたるらしい。真ん中にはオフホワイトのソファがL字型に置かれていて、机を挟んだ対面の壁には大型のテレビが備え付けられている。ソファには誰も座っていないがテレビの電源は入っているようで、ごくごく小さな音量でコメンテーター達の会話が辺りに響いていた。

「靴、ここで脱いでね」

 扉の前だけタイル張りになっていて、どうやら玄関でいうところの三和土の役割を果たしているらしい。言われたとおりに靴を脱いで、カーペット部分へと足を踏み入れる。思ったよりも柔らかい。

「ここは一体……」

『ずいぶんと寄り道をされたようですね』

 言いかけた瞬間、機械音声に遮られた。妙に不自然な抑揚のそれは、人工知能の発する音声に良く似ている。感情はないが芯のある美しい声だった。ロボット系の家具でも置いてあるのだろうか。辺りを見回したがそれらしきものは見当たらない。すると混線したようなノイズ音が頭上から降ってきて、見上げると高い天井の隅に、簡素なスピーカーが設置されていることに気が付いた。どうやらあれから聞こえたらしい。

「遅れてごめんね。今度美味いものでも差し入れるから、機嫌直して」

『では欲しいものリストを送ります。限定品のアイスから優先してください。あれは入れ替わりが激しい』

 声色は女性のようだった。謝りながら食事で機嫌を取ろうとする男と、拗ねはしてもちゃっかり奢って貰う女。まるで痴話喧嘩に巻き込まれた気分だ。

『お二人とも奥へどうぞ』

 ソファの向こう側、壁際に取り付けられた背の高い本棚の横に、質素な扉があった。課長が迷わずその扉に向かうので、俺も後を追う。控えめなノックをすると、どうぞ、とやはりスピーカーから機械音声が響いた。

 奥はどうやら仕事部屋のようだった。六畳くらいはあるだろうか。リビングのような華やかさは無く、壁一面に本棚が敷き詰められている。俺は機械に疎いのでよく分からないが、モニターが数台と、メインで使っているらしい少し大型のコンピューターが机の上に並んでいる。照明をやや落としているのか、リビングに比べて少し薄暗い雰囲気だ。

 手前の椅子に、誰かが座っている。その人はくるりと椅子を回転させると、まっすぐに俺達を見遣った。

 オーバーサイズの白いタートルネックセーターに、はっきりとシルエットの分からないブルーグレーのワイドパンツ。もこもことした暖かそうなルームシューズを履いていて、爪先は見えない。

 その人は、両手に抱えた端末機を指先で叩く。それを合図に、机の端に置かれた小さなスピーカーがノイズを吐き出した。

『いらっしゃい』

 音声自体は女性のものだが、その人自身は女性のようにも男性のようにも見えた。喉元から顎周りにかけて、セーターで隠されてはっきりと確認できないせいだろうか。酷く中性的だ。体付きも女性にしてはややがっしりしているし、男性にしてはやたら華奢な気がする。足を組んだその上に投げ出された両手は恐ろしいくらい整っていて、濃い色のパンツの上で気味悪くも白く浮いている。涼やかな目元はぞっとするほど大人びているのに、襟元から覗いた頬はふっくらとしていて不自然に子供っぽい。

 年齢も性別も、この人の前では全てが無意味なカテゴリーに思えた。

「課長、まさか……?」

 戸惑う俺を、その人の真っ直ぐな瞳が容赦なく貫いた。切れ長の目を縁取る長い睫が何度か瞬いて、病的に白い肌の上に紅で描いたような唇がうっすらと弧を描く。男にしては長い髪が一束、はらりと落ちて目元を隠す。それを鬱陶しそうに耳にかける仕草は優雅だ。

 まるで背中を指先でなぞられたかのような怖気が、瞬時に全身を駆け巡った。

「うん。君のパートナーだよ。制約付きのね」

「制約?」

 制約とは何だ。何も聞いていない。が、こんな状況下にいる人間とまともなバディを組める気もしない。そもそもこの環境は一体何だ。この人は一体何者なんだ。どうしてこんな場所にいて、機械音声なんかで喋るんだ。男なのか、女なのか、大人なのか、子供なのか。

 次々と疑問が溢れるせいで言葉が追い着いてこない。しかもその疑問が想定どころか常識の範囲を超えている。キャパシティオーバーで今にも頭が破裂しそうだった。目の前がくらくらする。視界の左端で星がちかちかと瞬いた。

 課長は俺を無視して、その人に向き直る。

「彼が二ツ森鈴鹿。これから仲良くしてあげてね」

 仲良くって、子供じゃあるまいし。その人はまたもや端末に短く何かを打ち込む。スピーカーから『よろしく』と機械音声が響いた。

 俺は文字通り頭を抱えて、その場に蹲った。

「おーい、大丈夫?」

 暢気な声が頭上から降り注ぐ。

「大丈夫なわけないでしょ……何なんですかこの状況は。この人何者なんです? 名前は? 男なの? 女なの? どうしてこんなところにいるんですか? これいわゆる軟禁ですよね? 警察組織が軟禁とか有り得ないでしょ。それで何で俺のパートナーなんですか。多分喋れないんですよね? この状況でどうやって組めって言うんですか無理ですよっ」

 堰を切ったように疑問と文句が一緒くたに混じり合って放出される。この状況ではい、よろしくなんて言える人間がいるなら是非ともお目にかかりたい。そいつはきっと倫理観と道徳心の欠如しているクズだ。ついでに常識も生まれる前に捨てたタイプだろう。

 俺の心配やら混乱やら反抗やらを余所に、課長はははっ、と乾いた笑い声を吐き捨てた。

「まあそりゃあそうだろうね。この状況ですぐよろしく、なんて言える人間だったら俺も困る」

 課長はしゃがみ込んで、俺に目線を合わせてくる。彼は眉間に刻み込まれた皺を更に深くさせながら、小さく舌を鳴らした。

「だけどね、これはある種の運命なんだよ。信じる? 運命」

「はあ?」

 急にスピリチュアルな話が始まった。パートナー自体も信じがたいが、この上司ですら信じて良いのか定かではなくなり始めていた。足下が確実に揺らいでいる。

「この人のパートナーであれるのは二ツ森、君だけだよ。警察にもまあ色んな奴がいるけどね――君以上にこの人と共にあれる人間はいない」

「だから何で俺なんですかっ」

「つまりはそれが運命なんだなあ。諦めなよ、運命ってのは大抵想像とは違う形で想像とは大きく違うものがやってくるんだ。俺もそうだった」

 子供をあやすような優しさで背中を叩いてくる。それを子供みたいな乱暴さで振り払うと、立ち上がって”パートナー”へと勢いよく歩み寄った。興奮しすぎたせいか、左目の視界にはまだ星が瞬いている。

 パートナーはこれまた子供のようにきょとんとした表情で俺を見上げて、何が可笑しいのか小さく鼻で笑う。その僅かな行動だけが大人びていて、独特のアンビバレンツさをより一層際立たせた。

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