第9話
ドクン ドクン
脈打つ鼓動は次第に大きくなっていく。血のように赤く、それでいて闇のように黒いナニかが生まれようとしている。
「何もかもが憎くて仕方がない。助けてくれなかった世界が…人間が憎いの。アナタは分かってくれるわよね…」
虚ろなままに問う。その声は覇気がない、まるで操られているようなそんな表情をしてアリアはその得体の知れない物体に触れる。赤黒い液体がアリアの頬を濡らして包み込む。
液体は次第にドロドロと床に広がっていくと意思を持つかのように階段を上り、礼拝堂に広がる。
異変に気付いた、アンジュとアビスは外に出ると各々の羽を広げ宙を舞う。
「…潮時かな」
「そのようですね。少々早いですがここで引き上げたほうがいいでしょう」
「どこに行くの」
「アリア」
赤黒い液体は協会を飲み込んでいく、それはまるで飢えた獣が捕食する様のようで気分がいいものではない。
協会の礼拝堂に彼女は居た。ただこちらを睨んでいる。
「ここまでです。アリア」
「何故です、天使アンジュ、そして悪魔アビス。あなた達も私を見捨てるというのですか」
「違うけど…これは少しやり過ぎかな。僕らはキミが望むことは何でもしてきたでもこれは駄目だ」
「何故…」
「貴女は道理を外れたのです、聖女アリア。なのでここでさよならです」
「最後まで、一緒にいてくれると思っていたのに…どうして」
「アリア」
「アビス!!」
アリアは俯き零れる雫を拭う。アビスが近づこうとした瞬間赤黒い液体が触手のように伸びてくるそれは鋭利な刃物にも似て光が反射する。寸でのところで、アビスを庇ったアンジュがその触手の刃に腕を切られ血が零れる。
「アンジュ…!」
「アビス、いまから僕の言うことをしっかり聞くんだよ」
「なにを…っ」
アンジュの血に喜んでいるのか、触手が蠢き辺りが地鳴りのような音を立てる。
アビスは揺れる視界で、アンジュを見つめる。アンジュの表情は苦く歪む赤黒い影がアンジュの顔を染めていく、ビー玉のように綺麗な金の瞳が黒く赤く染まっていく。
思わず伸ばした手を、アンジュがそっと握って引き寄せ耳打ちする。
「 」
「————っ」
ノイズ交じりの声が耳に届いた時、アンジュが太陽をあしらった杖を出現させアビスの体を遠くへ飛ばすと同時に辺りは光に包まれた。
羽が思うように動かないままアビスは、真っ逆さまに落ちていく。
木が折れる音、枝が露出している肌に刺さり痛みが連続する。落ち行く意識の中空が、太陽が赤と黒に染まっていく。
雅大は、異変に気付き屋敷の外に飛び出す。
黒子は危険だと、雅大を止めるが制止を押し切って外へ飛び出す。行かなければならない。急ぐ雅大の目の前に天が立ち塞がる。
「退いてくれないかな」
「いけません」
天も気付いているのだろう。この気配がどれほどものか、今までのどの妖魔や妖怪よりも酷い瘴気だ。普通の人間は今頃意識を手放し、夢の中だ。早くこの原因を突き止め対象を滅さなければ人間は一生、夢に留まることになる。それがどういう意味なのか言われなくても理解できる。
「行かないといけないんだ。天、分かってくれ」
「……」
「雅大!いるか!」
「ごめん」
階段の下から、縁の声がした。雅大は天の横を通り階段を飛び降りた。
天は、ただその背中を見守るしかなかった。
「なんで…だって、貴方はまだ”子供”じゃないか」
彼は、まだ高校生で。未来がある、死地に立たなければならない理由なんて何一つない。幼い頃から共に育った、ずっと傍にいた。天は痛む胸を抑え、心の中で雅大の名を呼んだ。
「縁先輩」
「やはり原因はあの協会だ」
階段の下にいた縁と合流した雅大は走りながら話す。
どこもかしこが歪み、時々瘴気と共に妖怪や妖魔の目がこちらを見つめているのが分かる。襲ってこようとはしないが明らかに飢えた目を向けている。
今はまだ昼間で、多くの人間が外に出ている。外で意識なく倒れている人間の多くが混濁した意識の中悪夢に魘されている。
「この瘴気、全てが協会から出ている。いとが調査隊と共に先に向かっている。急がないと命が危ない」
「それって…」
「全員持ってかれる。あちら側でも歪みを抑えて人間が来ないようにはしているが時間の問題だ」
「先輩!マサ!」
走っていると、目的地近くの森に辿り着いた。此処を抜ければそこには協会がある、はずだった。森の入口にはいとが居た。
「現状は?」
「酷い瘴気でこれ以上進めない…というか、進みたくないって言うのが本音」
いとの頬を汗が伝う。今の言葉に誤りはないが、正確には「連れていかれる」が正しい。森の入口を境目に異様な気配と所々で歪みが起き、ノイズが風の音に混ざって聞こえてくる。足が竦む、冷や汗が伝う。
「先輩、これって…」
「しっ!何か来る」
草木の踏みしめる、音と何かが這いずる音が近づいてくる。緊張感が体を包み込む、押し潰されないように、雅大は深呼吸をする。
腰に携えた刀に手を掛け、体制を前に落とし前傾姿勢を取る。つむじ風が一瞬で縁の周りを回ったと思ったら縁が本来の姿に戻る。
いとを下がらせ、迫りくる存在を待ち構える。次第に何かが零れる音が聞こえてくる、這いずる音と零れる音、そしてその姿に一同が愕然とする。
「——な」
身体の半分が浸食され歪みを帯びたまま、血の涙を流しながら歩くのはその美しい翼が証明してくれている。天使だ。
「天使…?」
「ア瀰*」
ノイズが酷くて言葉が聞こえない。苦し気な瞳が捉えたのは雅大だ、手が伸びてくる。息が詰まる、金縛りにでもあったかのように体が動かない。
それは、雅大だけではないようでその場そのものが時を止めたように思えた。
血に濡れた手が近づいてくる。頬に触れようとしたその時、何かが砕ける音と次に耳に届いたのは、あの男の声。
「何してんだぁ?アンジュ!!」
「ラヴィアン…!」
「ウァがあァ」
細長い剣を片手に現れた吸血鬼は、ニヒルな笑みを浮かべて躊躇いもなく天使の片腕を落とす。黒ずんだ片腕は溶けるように地面に広がる。
雅大たちの前に立ったラヴィアンも、既に本来の姿に戻っており、手にした細い剣を真っ直ぐアンジュに向ける。
「どうしちまったんだぁ?色男が台無しだなあ!」
「うるさ、いぃ」
「まぁ、安心しろよ。オレ様が殺してやっからよぉ!」
止めを刺すように、剣を構え直したラヴィアンは思い切り地面を蹴るとアンジュの心臓目掛け斬りかかる。
「やめろ!」
羽ばたきの音の後、目にしたのは黒い羽が舞う中アンジュの前に立ちはだかる人の姿。ラヴィアンが貫いた剣を引き抜く、濃い鮮血が地面に散る。
「何の真似だ、アビス」
「うるさ、い。 アンジュ、あんじゅ」
聞く耳を持たないのか、アビスは零れ落ちる血に目も止めず。苦し紛れに暴れるアンジュを強く抱き締めた。
もう殆どの言葉が聞き取れない。暴れるアンジュを離すまいと抱き締めて、空高く舞い上がる黒い羽は、美しく見えた。
「ラヴィアン」
「んだよ」
いまのラヴィアンはとても苛立っている。アンジュを殺せなかった苛立ちなのかそれにしては殺気が駄々洩れだ。
「何かを探している?」
「…言えねぇ。でもオレはそいつを殺さないといけねぇ、やっと見つけたんだ。その為にここに来た」
こちらを向かない広い背中に、ただ言葉を投げる。しっかりと受け答えは出来ることに安堵を抱き、雅大は「そうか」と頷く。
そうこうしているうちに、町のあちこちで悲鳴と地割れの音、そして浮かび上がる大きな物体は、影のようなナニか。赤黒い体に目玉がたくさんついている。
サイレンが街を包み込む。調査隊の一人が息を切らせ走ってくる。
「報告!」
「話せ」
「町の中枢部に巨大な妖魔が出現。調査隊が応戦していますが既に戦線崩壊も近く、まだ民間人の救助も残っています。このままでは間に合いません!」
「続けて報告します。現在、妖魔は人間を取り込み肥大しています。……それと…」
言い淀む調査隊員に、いとは強く迫る。
一瞬雅大を目で見た後、深く頭を下げ叫ぶように報告する。
「先程、里見家当主、乍二郎様が応戦中です!」
「——!」
その言葉を聞いて、雅大は駆けだした。背後ではいとの叫ぶ声。
雅大を追いかけるように、いとと縁も駆け出す。ラヴィアンはそれとは逆に森の中に姿を消す。
崩れる建物、土煙が上がり建物からは炎が上がる。人々は目が覚めたのか現状にパニックになっている。子供の泣き叫ぶ声、大人の怒号。全てを振り切るように雅大は走る。
息を切らせ、いとはやっとの思いで追いついた雅大の背中に勢いよくぶつかってしまい後ろに半歩後退る。「なに…」と声を掛けようとした口が次の言葉を放つ前に固まる。見つめる先に広がるのは、血塗れの調査隊の屍。辺りは血の海と化し、まるで地獄絵図になっている。 その中央に立つ人間の背後にはぐちゃりぐちゃりと肉を噛み千切る音共に、あの得体の知れない妖魔が大きな口を開け調査隊を頭から貪っている。異様な光景に吐き気が込み上げる。
「ぁ…ああああああああ」
「駄目!雅大っ!」
腰の刀を抜き、まるで従えるように立つ男—祖父、
真っ赤な炎があちらこちらで柱のように燃え盛る。サイレンの音がけたたましく鳴り響く。
「…あぁ、これでは何も変わらぬ…。すまぬな、我ではあやつは斬れぬ」
町全体を見下ろす犬月は、ただ見つめることしかできない。
「この戦い、しかと見届けさせてもらうぞ。雅大」
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