読(よみとる)

俺が次に目を覚ました時、そんなセンチメンタルな感情が蘇っている事に対して驚きを隠せないでいた。

両親の死は俺が忘れた記憶だ。それが蘇る事など、切っ掛けが無い限り甦らそうとは思わないし、蘇らない様に封じていた筈だった。

俺は、忘れる事が出来る。記憶であれ、感覚であれ、感情であれ、経験であれ、この体が受容するものは、忘却の彼方に追いやる事が出来る。


それが俺の、人間として得た能力と言っても良い。

俺が雪山で遭難して、両親を失った時、死に掛けた俺が自然の暴虐を見た末に、慈悲として与えられた力。


一部の脳が凍傷して、何らかの機能が失われた。

それによって、俺は脳髄の機能を自在に扱える様になったんだ。

脳の思考回路を高速で加速させれば、周囲はスロースペースに見えるし、一度見た記憶は絶対に忘れる事が出来なくなる。そして、俺が望めば、その記憶すら忘れる事も出来る。

それが、俺の後遺症だった。


体を起こそうとする。

そして、俺はベッドの上で眠っていた事を知る。

衣服は…脱がされていない。けれど、部屋に内装されているシャワー室から、鼻歌交じりが聞こえて来て、シャワーの音が流れて来る。


「…」


体を起こす。

俺の体は異常が無い。

首筋に手を添える、後ろ首には、しこりの様なものが出来ていた。

とにかく、気分が悪いものだった。

俺は立ち上がり、シャワー室の方へと向かう。

扉を蹴り上げて、シャワーを浴びるものを認識する。


「あれ?もう起きたの?」


惚けた声を出す、黒にピンクのメッシュヘアを濡らす、零戸の姿が其処にある。

俺は、シャワーに濡れる事も厭わず、シャワー室に入ると、女の首に手を添える。


「お前、俺に何をした」


「か、ぁッ」


怒りに任せて、このままこの女を絞め殺そうと思った。

息が出来なくなって、表情を赤くする零戸は、全裸のまま悶えて…そして、嬉しそうに笑っていた。


「ッ」


何を喜んでいるんだ、この女は。

即座に手を離す、そのまま床に倒れる零戸は、首に手を添えて息を整える。


「はぁ…はぁ…あぁ…もうやめちゃうの?」


シャワーの熱からか、零戸の表情は赤らめている。

何だ、この女は…妙に気味が悪い。見ているだけで、不安定さが伝わって来る。

まるで、人間のフリをした化物の様に…。


「そうだよ…私は、怪異なんだぁ」


「…あ?」


なんだ、この女、まるで。


「俺の思考を読んでるみたい?…あはは、正解」


女は、自らの首筋に手を添える。

後ろ首には俺のしこりが出来ている部分だ。


「タネ…私の栄養源で、同時にそれは、貴方の心を理解するもの」


俺の思考を読んでいるっていうのか?


「そういう事」


なんて事だ…気分が悪い。


「私は、気分が良いけどね」


最悪な話だ。


俺に針を刺して、その針がお前と通信状態になっている、と言う事か。


「そう言う事、あと、思考だけじゃなくて、栄養…生命も吸い取ってるんだ」


「あ?」


生命って、なんだよ。

俺の寿命みたいなもんを、コイツが勝手に吸ってるって事なのか?


「そういう事、まあ気怠く感じるけど…死ぬ程じゃないから」


ざけんな。勝手な真似をしやがって、これを外せ。


「うーん、当然そういう反応だよねぇ…だから、私はキミの心を奪おうと魅了を掛けようとしたんだけど…」


「魅了?」


「人の心を支配する力、恋と言う感情を媒介に、奴隷とさせる、まあ魔術的能力?…けど、それが効かないから、面白いなぁって」


恋?それが感情に繋がっているのであれば、俺はそれを忘れる事が出来る。

こいつの言う魅了とやらは効かないのは当たり前の話だ。


そっか、と俺の思考を読んで、零戸は言う。

全裸のままの彼女は、シャワーのバブルを捻ると湯を閉ざす。

バスタオルを巻いて、ある話をしだした。


「怪異、怪物、化物、妖怪…御伽噺に出て来そうな存在が私でぇ…受肉したの」


その話は、彼女が何者であるか、と言う疑問を解消させるための内容だった。


「この氷泉市は怪異を封印する場所で、長い間、怪異たちが凍結されていた…けど、その封印の術式は氷を題材にしていたから…氷は停止した世界、けれど、時間が経てば溶けていく。氷の中に封じられた怪異は、溶けて再び、この現代に現れた」


とても、話が本当だとは思いにくい。

…そうか、これは、こいつの言うデタラメみたいなものか。


「くだらねぇ…良く考えたら、メンヘラ女のメンヘルを語ってるだけだろ」


自分の設定を、他人に押し付けようとするな。

そう一蹴してみせようと思った時。


「そう思う?…思っちゃうか、仕方が無いよね…けど残念。これは現実で…私は怪異、名を『ぬえ』」


彼女の背中から、血管の様な赤色の糸が伸びる。

葉脈の様に複雑な模様を描くそれは、床や壁に接着すると、生きた臓物の様に、無機物が蠢いている。


「ッ!?」


驚きを隠せない。

俺の目は、または、俺の脳は、その幻の様な現象を、本物だと理解してしまったのだ。

咄嗟に、喉から出ようとした悲鳴を押さえるべく、人差し指でこめかみに当てて、ある感情を忘れる。


「キミの脳でも分かるよね。この血脈の様な翅を。生命であろうと無機物であろうとも…私は取り込み、取り込んだモノを自在に操れる」


俺は、この現状を、ニセモノではないと悟る。


「…本物かよ」


「…えへへ、やっぱりすごいね、普通はこんな姿を見られたら、大抵の人間は発狂するのにね」


「…」


事実発狂しかけた。

それでも俺が冷静さを取り繕えるのは、俺が発狂の元となる恐怖を『忘れた』からだ。

恐怖と言う観念を感じなくなれば、其処にあるのはただのマネキン人形だ。


「それで?俺を殺すのか?」


「ん?ふふ、違うよ、キミは殺さない。現状のお気に入りだから、養分として働いて貰います。怪異の力は、結構厳しいから、他の人間から栄養を貰わないと戦えないからねぇ」


「…戦う?誰とだよ」


「ん?うん、私以外にも、この地に封じられた怪異は存在するんだ…私は結構温厚派なんだけど…封印が解かれた怪異は、縄張り争いとかしそうだからねぇ…他の怪異を殺す事になるかも知れないから」


お前の様な化物が…他にもいると言うのか?



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