代(かわる)
眠っていた俺に対して。
「冬児さん、朝ですよ」
いつも通りの朝がやってくる。
その声につられて、俺は目を開くと、ぼやけた脳に渇を入れる様に、中指でこめかみを突いた。
これは一日のルーティーンだ。
これをする事で、俺は自分が早く目覚める事が出来ると言う暗示を掛けている。
多少、体の芯が蜃気楼の様にふわふわとしているが、体を動かせば自然に戻るだろう。
朝食を食べて準備を進める。
昨日は瑞美さんに怒られた事が朝になっても響いている。
本日の朝食は味噌汁とごはんに生卵とパックの納豆だけだった。
ご機嫌な朝だったらこれに加えてベーコンエッグや焼き鮭が出てくるのだが仕方がない。
バツが悪く感じながらも俺は飯を食らった後に学校へ行く準備を進める。
ファーコートもジャケットも無いので、学生服を着込むだけとなる。
「本日も学校ですか?」
「学校、バイトがあるかどうかは」
「バイトはダメです」
瑞美さんがそう言って俺の言葉を遮った。
昨日、俺がクラブに言った事に対して怒っている様子らしい。
「昨日は悪かった。けど、バイトにはシフトがあるんだ、シフトを空けるのは悪い事だろ」
「問題ありません、既に私が話を着けておきました」
話を?俺は飯を即座に食べてバイト先に連絡を入れる。
話の内容は『もう来なくていい』の一点張りだった。
瑞美さんが何か裏で手を回したのだろう。
「…」
「そう睨まないで下さい。バイトなら私が用意しました」
瑞美さんが連絡先を書いたメモ用紙を俺に渡してくる。
「急過ぎる」
「貴方の為です、内容は家事、炊事、身の回りの世話、ようするにホームヘルパーの様なものです」
使用人である瑞美さんが持ってきた仕事は、瑞美さんと同じ様な仕事の内容だった。
瑞美さんは味噌汁を啜って一息つく。
目を伏せている。もうこうなれば、話をしても無駄だった。
「はぁ…じゃあ、学校に行ってくる」
少しはストレスになるな。
俺の意志を確認せず行う行動は、自分にとってはそれが正しい事であると思っている。
事実である事は代わり無い。俺自身ストレスを感じる事はあるが、それでも危険から遠ざける行動も、そうに至った経緯も、理解すれば仕方がないとしか言えなかった。
「いってらっしゃい、冬児さん」
瑞美さんは箸を置いて、俺の後ろを着いてくる。
玄関前に立つと、彼女は軽く頭を下げていってらっしゃいと手を軽く振った。
俺は外に出る。
生憎と空は曇りであったが、それでも雪が降っている事はなく、雪に埋もれた道を歩き出す。
学校へと歩いていく。
ぐちゃぐちゃになった地面は白と灰色に満たされて、靴から伝わる感触は冷たくて、足の指先に感覚がなくなっていく。
少し厚めの格好をしておけばよかったか、と少しだけ後悔しながらも、雪で覆われながらも、見慣れた風景が現れる。
登校する道。凍天高へと続くこの道は、一か月も経過すれば、もう二度と通る事は無い。
この道を通る事はあるだろうが、俺が高校生として、凍天高へと通う事はもう二度とないのだ。
そう考えると、少し、感慨深いものがあった。
これが、なんだか大人になっていく様な感じがして、寂しさが胸に込み上げて来る。
しばらく歩き続けると、次第に生徒の数が多くなっていく。
懐かしいが、しかし。
この数は、なんとも言い難い。
人が嫌いな俺からすれば、この生徒の数は、まるで荒波の様で、波を乗るには少し、気分が悪くなる様なものだった。
「ねぇあれ」
生徒たちが校門前を見ながら声を漏らしている。
どうやら、校門前に誰かが居るらしい。
俺には関係の無い事だ、なるべく人を見ない様にしながら歩いていると。
「あ、トージ」
俺の名前を呼ぶ声があった。
その声は、何処かで聞いた様な声で一体どこで声を聞いたか思考を張り巡らせる。
そして数秒もしない内に答えが出て、顔を前に向ける。
校門前に立つのは、細い蜘蛛の糸の様な黒髪に、ピンクのメッシュが入ったツインテール。
目元はアイシャドウで覆われて、まるで泣き腫れたかの様な目尻をしている。
耳には幾多、多くのピアスが付けられていた、そして口元には、自らの唇を隠すかの様に、ピンク色のマスクを装着していた。
眼力がある彼女の目付きは、俺を見つけると同時に、ネイルアートが刻まれたピンクのマニキュアで塗られた五指を広げて、手を左右に振っている。
「アイツ…」
そうだ。アイツだ。
名前は、零戸、と言っていた。
俺が昨日、ファーコートをくれてやって、おかげで財布を無くしてしまった、その元凶にして張本人が其処に立っている。
おまけに、零戸は俺のファーコートを羽織っていた。
後生大事そうに、細い指先でファーコートのチャックの部分を爪でなぞっている。
「トージ、遅かったね、財布、届けに来てあげたよ」
俺の財布を懐から取り出して、零戸が近づいて来る。
「うわぁ…あの人あれか、敬基さんの知り合いなんだ」
「どんな関係だよ…」「あれでしょ?中退した二人の…」「あぁ、それっぽい」
そんな囁き声が聞こえて来る。
うるさい、耳障りだ。俺をよってたかってはやし立てる様な真似をするな、気色悪い。
「…おい」
零戸が俺に財布を渡す。そして、俺の手には財布以外の感触があった。
手を開くと、俺の手の中には、財布以外にも万札が握られている。
「ファーコートのお礼、あげちゃうね」
「なに?お金」「うわぁ、あれだこれ、援助交際」「マジかよ、あの人…」
やかましい、黙れ。
クソ。こんな人の視線を奪いやすい場所で、金を出すな、金を。
俺は、これ以上、噂を騒ぎ立てさせぬ様に、零戸の手を掴んで学校から離れていく。
「あれ?何処に行くの?ホテル?」
「どいつもこいつもッ」
なんで俺が行く場所がホテルなんて思うんだ、この脳内ピンクが。
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