息(どく)



立っているのは俺だけだ。ジャケットを正しながら俺は諫の方に顔を向ける。

指を向けて、マイクを握るパーカーを被る女に指を振った。

マイクを寄越せと言う合図。女はマイクを投げて俺はそれを受け取ると、諫に向けて声を張らない様に叫ぶ。


「約束は守れよ。俺の財布を持ってる奴は女だ。前にファーコートを着て店に来た事がある。女にそれを貸した際に財布も持っていかれた、女はまあ関係ない。財布だけ返して貰える様に言ってくれ。以上だ、俺は帰る」


そう言って再びマイクを投げる。

進行役にマイクが帰っていくが、あまりの短期決戦に声すら出てこない様子だった。

無理矢理湧きあがろうとする観客。俺は諫に挨拶はせずに店を出る。

ようやく、この人と人の息が交じり合った人工毒性ガスが充満した場所から出る事が出来る。

ほっと息を吐いて、俺は階段を上がる。

その際に、扉を開く音が聞こえて来て振り返る。


「お疲れ冬児」


白蜜だった。

俺の方に近づいて来て、肩にそっと手を回す。


「なんだよ。今日は帰るぞ」


「ん、分かってる…私も帰ろうかなって」


そうか、と俺は相槌を打つ。

こいつは良い所のお嬢様であるが、この様にグレてしまったので、基本的に男の家に転がり込んでいる。

今日はどの男と一緒に寝るのだろうか、いや。考えた所で意味はない。


「相変わらず強いね、冬児は。これで…何の能力も持ってないんだから」


「能力?…あぁ、そうだな。俺は、何の力も持たない、ただの人間だからな」


特別な能力などない。

あくまでも、俺の力は欠陥品。

人より劣っているに過ぎない。

人が人より劣っているのであれば、それもまた人だ。

もしも、人より優れているのであれば、それは人ではなく怪物や超人などと呼ばれるのだろうが、俺は違う。


「ねぇねぇ…なんだか火照っちゃってさぁ…ちょっと辛いからホテルまで看病してくれない?」


頬を赤くして、白蜜が俺の腕に手を回してくるが、俺はそれを引き離す。


「やめろ。金なんてねぇぞ」


「いいよ、私が出すから」


断る理由に金なんて言うんじゃなかった。


「あ、でも私も諭吉ちゃん居ないしなぁ…」


「じゃあ話は終わりだな、火照ってるなら他の野郎と遊んでれば良いだろ?」


「えー、強い人じゃないと嫌なんだけど」


じゃあ俺は論外だ。

俺に強さなんて持ち合わせてない人間だからな。


「ねえ、今日は冬児の気分なの」


「お前酒飲んでるのか?駄目だ、お前知ってるだろ」


俺は白蜜に振り向く事無く、歩き出す。

決して後ろを振り向く事無く、俺は声を張って言う。


「俺は人間が好きじゃねぇんだよ」


そうだ。

俺は人が嫌いなんだよ。

昔からそうだった。

友人と言う関係であろうとも。

そうでなかろうとも、俺が生涯、人を見つけて、人と共に過ごすなんて、そんなのは無理な話だった。


「…そっか、じゃあ、仕方ないなぁ」


悲しそうな顔をして、白蜜は聞き分けが良く、仕方が無いと言いながら頷いた。


「じゃあな…気が向いたらまた来る」


俺はそう言って、歓楽街から離れていく。


「…人は嫌いなのに、おせっかいは焼くんだ」


最後に、白蜜がそんな事を言っていた様な気がしたが、幻聴だと思って、聞かなかった事にした。


自宅に戻る。

すると、瑞美さんが顔を出して来た。


「お帰りなさい、冬児さん」


そう言って玄関前まだ向かうと、靴を揃えて来ようとする。

そして俺とすれ違った際に、すんすん、と音が聞こえた。


「冬児さん」


呼ばれて俺は振り向くと、瑞美さんが俺の体に手を回して、胸元に顔を近づける。

咄嗟の出来事に俺は血の気が引いた。


「…すぅ…はぁ…」


俺の服に顔を近づけて深呼吸をする瑞美さん。

その行動は、俺の衣服に付着した臭いを嗅ぎ分けている様子だった。


「…冬児さん、これはなんですか?この臭いは」


そう言われて俺は溜息を吐く。

瑞美さんは鼻が利く、主に人の臭いに対して敏感で、多くの人間の臭いを明確に分ける事が出来る。


「…いや、これは」


俺は誤魔化そうとする。

ジッ、と俺の目を見詰めて来る水晶の様に瑞々しい青色の瞳が俺を見詰めて来る。


「これは、なんですか?何処に行っていたか、それすら言えませんか?」


「…」


「バイトがあるのだと言っていましたね、こんなに早く終わる様なものなのですか?服を脱いで下さい、お風呂に入って、自分が何をしているのかを良く考える事です」


面倒な事だ。

久しぶりに『ヴァンプ』へと向かったものだから、まったくもって警戒するのを忘れていた。


真人間であってほしい。瑞美さんにとってはそれが俺にして欲しい事だ。

生前の爺さんが瑞美さんに託した事でもある。

俺をどうにか安全に社会に出してほしいと言う願い。

俺は厭世的な人間だから、人間社会に溶け込める筈が無い。

それでも爺さんはそうであるようにと、瑞美さんに願ってしまった。

本来ならば、彼女の使用人としての契約は爺さんの代で終わっている。

だけどこれは、瑞美さんが独断で契約を続行しているのだ。


俺は衣服を脱ぎ捨てて、脱衣所の籠に投げ捨てる。

そして風呂場を開けると、まず体を洗って、ゆっくりと湯舟に浸かる。

暖かい、今一度、瑞美さんが沸き直してくれたのだろう。


良い訳をするのならば、俺だってあの店に行くつもりは無かった。

ただ緊急事態だったからこそ、仕方なく足を踏み入れたに過ぎない。


出なければ、俺が好き好んであんな人間が多い場所に行くはずがない。

…それを言ってしまえば、瑞美さんは人間社会に溶け込める様に、舵を振り切るのだろう。

そうなったら、俺はいよいよ、瑞美さんから離れなければならない。

でなければ、俺は自らのストレスで自死してしまうかも知れないからだ。


がたん、と、扉の奥から音が聞こえる。

どうやら、瑞美さんが脱衣所へと入って来たらしい。

バツが悪い、何か言われないかと思いながら5分ほどが経過して、瑞美さんは脱衣所から出て行った。

恐らくは衣服を取りに来たのだろう。

脱衣所には洗濯機がない、外に設置された洗濯機に入れる為に、俺の衣服を持って行ったのだった。



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