殴(おうだ)
長居してたワケでは無いが、吹雪いてしまったのか。
歩く道は、既に足首を包み込む程に雪が積もっていた。
前を向けば視界が霞む。時刻は五時前。やがて空は灰色から完全な闇に変わる。
「…中止じゃないだろうな」
大雨や雪が積もり過ぎると工事は中止する。
よくある事だ、なんでも安全第一と言う話。
昔はそんなの関係なく、仕事は時間順守でしていただろうが。
今の時代はコンプライアンスを重視している。
「はぁ」
息を吐く。
重苦しい息は、さぞ重みが乗った白い息となって散っていく。
普通の息よりも、この白い息の方が重量感があると思うのは、俺だけだろうか。
そんな事を考えながら自宅へと戻っていたら。
「返せよ、オイ、クソ女ッ!!」
そう叫ぶ声に俺は耳を傾けた。
殴る音が聞こえて来る。それは豚肉に槌を振り下ろす様な、ぺちぺちとした軽快な音ではあるが、それに加えて女性のか細い、喉を潰して漏れる声が聞こえて来る。
男が女を殴っている。
その事実が其処にあった。
ざっ、と雪を踏み締めながら歩き出す。
地面を見れば、赤い血の滴りが出来ていて、曲がり角に続いていた。
恐らくは、音は曲がり角の奥から聞こえて来るのだろう。
「…」
吐息すら出てこない。
息をひそめて俺はまっすぐ道を通る。
その際に、曲がり角に目を向ける。
「いい加減にしろよ!さっさと返せッ!早くッ!!あぁ!?」
ホスト風の男が、黒髪で、ツインテールの女性を殴っていた。
女性の鼻からは血が流れていて、息を荒くしていた。
…気性が荒いな。見た感じ、男女の縺れと言う奴か。
俺は周囲を見渡す。他にこの状況に顔を出す様な人間は居ない。
今、この雪の中に居るのは俺と男と女の三人だけだった。
「…」
ポケットが振動する。
同時に、着信音が響き出す。
その音に、ホスト風の男は俺の方に顔を向けた。
俺は、スマホを取り出して耳に傾ける。
「敬基です…はい、中止ですか」
バイト先だった。
雪が積もっているから中止だと言う連絡だった。
俺は溜息を吐いた。
同時に、ホストは俺を見ていたが、何かに怯えた様子で、胸倉を離して女から離れていく。
「そうですか…また、よろしくお願いします」
女性が俺の方を見ている、鼻から血を流しているが、何処か様子がおかしい。
何がおかしいのか…即座に分かった。
普通は殴られたら泣くものだろう。しかし、その女性は泣いていない。
痛みなど感じていない様に、自分の体よりも、衣服に血がついたり、ボタンが弾けている事に対して気にしている様子だった。
「お兄さん、ありがとぅ」
柔和な笑みを浮かべて、女性がそう感謝の言葉を口にした。
俺はスマホを切ってポケットにしまうと、女性の元へ歩く。
「救急車呼んだ方が良いっすか?」
「んん、いいの…けど、家には帰れないかなぁ…あの人が居るし」
やはり痴情の縺れか。
あのホストとこの女性は付き合っていて、何かしら、やらかしてしまったんだろう。
「お兄さん家族居るの?」
「お兄さんじゃない…あんたの方が年上だろ」
俺はまだ未成年だが、彼女の雰囲気は、年上の様に感じた。
「おばさんじゃないよ…二十一歳、
「…聞いてねぇよ」
名前は聞いてない。
聞いたら、自分も名乗らなければならないだろう。
いや、名乗る気はない。
このまま立ち去りたいが、そうはいかない。
「二三日でいいからさ…泊めてくれない?」
零戸澪織と名乗る女性は血だらけの笑みを浮かべて懇願した。
開口一番で何を言うかと思えば…。
「無理だ」
家に帰れないのなら、何処か別の場所に行けば良い。
氷泉市の中心部にでも足を運べば、ホテルやネットカフェなど普通に建っている。
見ず知らずの人間に集ろうとするなんて、最早乞食と同類だ。
「ただじゃないよ、これ」
ポケットから一万円札を出してきた。
それも五枚も、それを俺の方に向けてくる。
泊めてくれたらこの金をくれてやる、と、そう言う事なのだろう。
「おい…だったら余計な話だろ」
それ程の金があれば、高級ホテルだって泊まれるだろう。
少なくとも、家が無くても1ヶ月は過ごしていける額だ。
「んー…、一人じゃ寂しいの。ダメ?」
更にポケットから、一万円札を取り出した。
「金を見せびらかす女とは付き合えないな」
それで会話を終わらせる。
雪の上に座る彼女を無視して、俺はゆっくりと歩きだした。
「そっか、残念。…ばいばい」
そんな彼女の声が聞こえて、俺は歩道を曲がって、道なりに進んでいく。
変な女だった、見てくれは良いが、あれは明らかに地雷だ。
関わるのは感心する事じゃない。
頭の中ではそう思っている。
けれど、俺は冬の寒さを知っている。
あの零戸と言う女性は、裸足だった。
それと同時に、その服装は冬の最中に外出しても良い様な格好ではない。
何よりも殴られて体力も消耗している。
…これから夜になれば、もっと寒くなるだろう。
この何も無い歩道から、駅までは歩いて数十分。
最悪、雪が降れば凍傷する可能性もある。
寒さは身に堪える。
冷えすぎて頭では何も考えられなくなる程に。
「…はぁ」
あまり人と関わるのは良くない。
だが、それが原因で死んでしまえば寝覚めも悪い。
俺はもと来た道を戻る。
女性が座っていた場所には血で濡れていて、それを雪が隠そうとしていた。
地面を見る。
雪を踏んで足跡が刻まれている。
これを追って、俺は女性へと駆けた。
案外女性は近くにいた。
俺はファーコートを脱ぐと、彼女に声を掛ける。
「寒いだろ」
そう言ってファーコートを渡す。
女性は後ろを振り向いて俺の顔を見る。
既に鼻血は止まっていて、鼻の下に付着した血が固まっていた。
女性は俺の方を見ては、俺の手に持つファーコートを見て、それを交互に繰り返す。
「あと、知ってるかどうかは知らんけど、この道を真っ直ぐ進んだら、駅に着く。其処で都市の中心部まで行けばホテルとかあるから」
彼女が手を伸ばしてきた。
血で汚れた手に、俺のファーコートを乗せた。
「いいの?」
「別に構わない…、どうせ捨てるつもりだった」
俺はそれだけ言って、学生服のままでその場から離れる。
これで今度こそさよならだ。
「ねえ、キミの名前、なに?」
女性がそう聞いてきたが、俺は無視をした。
この降り積もる雪の中だ。
声が雪に吸収されて聞こえなかったという言い訳も出来る。
今度こそ振り向かずに、俺は家に戻るのだった。
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