昔(むかし・そのいち)

中学生の頃に、涼川恋と出会った事がある。

丁度、両親が亡くなって爺さんの住む氷泉市へと越して来た俺は、中学三年生の夏頃に転入した。

既にコミュニティが結成されていたクラスに俺は馴染む事無く授業をサボっていた。

幸いにも体は鍛えていたから、クラスから弾かれても、イジメと言う事態にはならなかった。

恐らくは、クラスの人間も俺を腫物として扱って、なるべく触れない様にしたんだろう。


俺にとっての教室は、クラスメイトが居る場所よりも、図書室しかなかった。

様々な知識が置かれている本の数々。暇さえあれば図鑑や小説などを読み漁っていたのを覚えている。


『一年生が吐いたぞ』


トイレから戻っていた時だ。

廊下で生徒たちが群がっていた。

何かあったのか、その輪の中心に目を向けてみると、其処に涼川恋が居た。

茶色のワンピースの様な学生服に、自らの嘔吐した吐瀉物で塗れている。

手は、昼食に食べた給食の食材でべっとりと付着していて、酸い臭いが廊下に包まれていた。


『あれ涼川じゃん』『大丈夫か?』『先生呼んで来いよ』


そんな心配する声が聞こえる中。

誰も彼女に向かおうとはしなかった。

当の本人は、嘔吐したショックかその場から動く事が出来なかった。

ずっと、廊下の方を見て口元を抑えている。


『…』


瞬間的に、俺は苛立った。

こんなに人が居るのに、誰も手を貸そうとしていないのだ。

当時の俺は、物凄く苛立っていた。

それは多分、両親が死んで、まだ心の整理が付いて無かった事が関係していたんだろう。

怒りのコントロールが出来なかった俺は、思い切り窓を握り拳で叩いた。

バリン、と音を鳴らして窓が割れると、セミの音がより一層響いて聞こえて来る。

夏の噎せ返る様な熱気が、冷たい廊下の外気と交じり合っていく。

音に反応して振り向く生徒の波を掻き分けて、俺は着ていたシャツを彼女の頭に掛けた。


誰であろうと、自分の汚らしい姿は見られたくないだろう。

俺はシャツを掛けたまま、涼川に話し掛けた。


『保健室に行くぞ』


そう言って彼女を連れ出す、歩けない涼川に代わって、俺が肩を抱いて廊下を歩く。


『ごめんなさい…ごめんなさい……』


小さな体で涼川はそう謝っていた。

俺は聞かなかった事にして、彼女を保健室へと連れて行った。


それが、涼川恋との出会いであり、その事件が切っ掛けで、涼川恋は中学は殆ど登校する事は無かった。


俺はその後、お礼などと言われて、家に招待してもらったりしていた。

彼女はその時に俺が凍天高に通う事を知った時、同じ進路にしたのだとそう聞いた。


俺が高校三年生になった時、涼川恋はこの学校へ入学した。

前の中学校よりかは遠い場所だ、其処ならば涼川恋の事など知らない生徒も居るかと思ったらしいが、生憎とこの学校には、中学の頃に在籍していた生徒も居たらしい。

涼川は入学式が終わって教室で自己紹介をする際に、その生徒と出くわしてしまい、緊張と恐怖の最中、再び嘔吐してしまったらしい。


それ以降、彼女が凍天高へと足を運ぶ事は少なくなった。

所謂登校拒否。

彼女のトラウマは高校に上がった際にも刻みついてしまったのだ。


「冬児くん?」


「あ?…あぁ」


俺は床に座りながら彼女の声に反応した。

心配そうに俺の顔を覗き込んでくる彼女には、恐怖などと言った表情は無い。

涼川は俺に対してはその様な嫌悪感を催している様子はない。


「久しぶりだね…三か月くらい、かな?」


「そうだな」


涼川はベッドから降りて机へと向かっていく。

落ち着かない様子だった彼女は、百合を模した髪飾りを頭部に咲かしてみせた。


「忙しかった?」


「あぁ…爺ちゃんが死んじまったからな、忙しくて来れなかった」


本当は、このまま消え去っても良かったが。

そっか、と目を伏せて笑みを消す。

俺の爺ちゃんが死んだ事に対してお悔やみなどと考えているのだろう。


「気にする事じゃねぇさ…それよりも…元気か?」


当たり障りない会話を選んで、涼川に調子はどうかなどと聞いてみる。

涼川は咄嗟に手首を隠して眠たそうな笑みを浮かべた。

多少、眉が困り果てた様な角度であるのは、聞いてはならない話であったのかと思ってしまう。


「うん…私は、大丈夫だよ…なんて、長く休んでいる人間が言う事じゃないよね?」


尤もだ。

しかしそれを口にする事は無い。

俺は彼女に何も言う事は無い。

何故ならば、彼女の心の傷は彼女のものだからだ。

当然ながらそれを、赤の他人が勝手に穿り返して良いものではない。

それ以上の言葉は口にはしない。

だから黙る、すると、涼川も下を向いて黙ってしまった。


「…」


あぁ、だから長居はしたくない。

空気が重くなっていくのを感じる。

いたたまれなくて、まるで其処に座っているだけで罰を課せられている様な気分に陥る。

こういうのは苦手だ。

だから長居したくないんだ、俺は。


「…あの、冬児くん」


…いつもなら、涼川が口を開く事は無かった。

言葉が詰まれば五分程して、俺が立ち上がって帰ると言えばそれで終わりだった。

けれど今日は、涼川の方が更に会話をしようとしていた。


「プリント、ありがとう」


涼川は感謝の言葉を口にする。

別に率先して持って来たワケじゃない。

だから、感謝の言葉など必要無い。

それでも彼女が感謝の言葉を伝えたのは、他でもならぬ彼女の自己満足だ。

施された、だからそれに対する報酬を与える。

ただ与えられただけではバツが悪いから、その罪悪感を払拭する為に感謝の言葉で茶を濁す。

全ては自分の心に余裕を持たせる為の行動。

俺には何も響く事も無い。


「あぁ、大した事じゃない」


そう言って俺は立ち上がる。


「…冬児くん、もう帰るの?」


まるで、ご主人様が居なくなる事を悟る犬の様に、悲し気な表情を浮かべる。


「バイトがあるんだ」


だからこれ以上は居られない。

涼川は悲しそうな顔を浮かべて首を縦に振る。


「そっか…じゃあ、またね?冬児くん」


「あぁ、またな」


彼女はそれ以上の言葉を口にしない。

しかし、その目から物語るに、もっと部屋の中に居て欲しいと思っている。

それは適わない。何よりも俺は、この部屋に滞在したくはない。

彼女は綺麗だ。きっと、今回の事件が無ければ、それなりに快適な人生を歩めるだろう。

心の持ち様、見方さえ変えれば、彼女は何処に行っても大成するだろう。

俺とは違う人間だ。だからそりが合わない事は分かり切った事だ。

ただ俺は、この部屋から逃げる様に飛び出した。

秋雨さんからコートを受け取って、外に出ながら俺はコートを着込んだ。



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