1-5

「そう、それじゃあ早速補習を始めましょっか」


 女は素っ気なくそう言って、教卓の前へと戻っていく。


「あれっ、教師はどこにもいない……ような?」


 そうだ、改めて教室全体を眺めてみても、俺たち以外誰も見当たらない。

 黒髪の女は立ち止まってゆっくりと振り向き、不思議そうな表情で、


「……? 先生は必要ないけど?」


 必要ない? ……………………まさか。


 ふと、黒板に目を向けてみた。

 そこに書かれているのは数式、そして先ほどの『風景』と照らし合わせながら推理を進めた。その結果得られた一つの結論。…………いや、まさかな。


「ああ、まだ名乗ってなかったっけ」


 彼女はその端正な顔立ちを存分に見せつけるように俺を注視し、

 

「私は二年の黒川くろかわすず。今日から一週間、キミの補習を受け持つことになったからよろしくね」


 嫌な予感は的中した。


「どうしたの、浮かない顔して? そんなに榊原先生に教えてもらいたかった? それは期待を裏切ってごめんなさい」


 俺の浮かばれない顔を見ても彼女、黒川紅涼は嫌な顔を一つせずクールに取り繕う。


「いや、まさか同級生に教えてもらうことになるとは……。なんつーか、プライドってモンが……」


 教師と一対一になるのも嫌だが、友達でもない同級生の授業を受けるのは……なぁ。普段試験の順位等そこまで気にしないが、授業という形でまざまざと頭の違いってモンを見せつけられるのは結構ツラいと思う。


 黒川はそんな俺のもどかしさを一蹴するように鼻で笑って、


「じゃあ、補習を受ける必要がないくらいにもっと勉強をすればよかったのに。それができてないからここに来たんでしょ。プライドを保ちたいなら相応の努力をする。努力しなかったクセして見栄だけ張るのは滑稽よ」

「…………うっ」


 胸に突き刺さることをズバズバと突いてくる。


「さ、プライドは捨てて席に着いて。まだまだ挽回はできるんだから」


 黒川は教卓の上に置かれた一枚の紙を俺へと差し出し、


「これに板書を写してね。後でそれチェックするから気を抜かずに。見やすいように丁寧に書いてくれると助かるわ」


 渡されたのはA4サイズの白紙。そうして要件は全て伝え終えたのか、黒川は教卓へと戻っていく。可愛らしい声ながらもサバサバとした喋り口調なので、結構厳しそうな補習になりそうだと頭を抱える俺。


 ……あん? ……黒川紅涼? やっぱりどこかで聞いたことあるような……? 知り合いという訳ではないが、何かが頭の隅に引っかかる。


「……あっ」

「なに?」

「『氷の女王』じゃなかったか? 寄ってくる男をことごとく振るって噂の……」


 どっかで聞いた話だが、俺の学年には『氷の女王』と呼ばれる女がいるそうだ。その女は大変な美少女で、だから同級生、ひいては上級生の男子が頻繁に告白するらしいが見事全滅。クールな振る舞い、および断る際の毒舌も相まって『氷の女王』という異名が付けられたらしい。


「その異名、あんまり好きじゃないんだけど。というか、知らない男の子からいきなり告白されても……困るだけだし。何か文句付けて振らないとしつこいし……」

「そっ、そうか。悪かった、初対面で失礼なこと訊いて」


 たしかに、初対面の人間に異名を尋ねるのはアレだ。特に、男を振り続けるというある意味でのマイナス要素を含む異名、触れてはいけないのかもしれない。


 俺は話題を変えるために、


「なぁ、どうして黒川が補習を受け持ってんだ? 榊原に弱みでも握られてるとか?」

「握られてないから。私がやりたいと思ったからここにいるだけだし」

「将来教師にでもなりたいのか?」


 しかしながら、黒川は否定の意を示すように首を振り、


「私は国立の医学部に進学したいの。そのためには今よりも成績上げないとダメだから」

「……凄いな」


 医学部進学の夢もそうだが、今の段階から明確に将来を見据えている点も凄いと思った。


「榊原先生に相談したら、人にスラスラと教えられるようになれれば……ってアドバイスしてくれたわ。それで先生のお手伝いも兼ねて、こうやって補習を受け持つことになったワケ。お分かり?」

「医者になりたいのか? そりゃあ大変だな」

「なりたいと言えばそうなるけど、私には別の目的もあるの」

「……別の目的?」


 黒川は一呼吸置き、俺の目をしっかりと捉え、


「頭の悪い連中を見下すためよ。それが、私が上を目指す理由」


 一点の曇りもなくハッキリとそう告げたのだった。


「………………」


 俺はそれ以上言葉が出てこなかった。それは俺特有の、女子と会話をするとすぐに会話が途切れる症候群に掛かってしまったからだろうか? こりゃああの星ヶ丘花蓮さんに協力してもらって、本格的にこの症候群の改善を図らねば。


 黒川は上に飾ってある時計を見て、


「それじゃあ、補習始めよっか。今日は初回だから範囲は――……」


 範囲は『場合の数と集合』という、一日目にしては骨のある内容らしい。ともかくその場に突っ立っていては始まらないので、前から二列目の席に座ることにした。


 だが、その時、


「どうして二番目なの? 一番前の特等席が空いてるのに? ほら、そこ」


 早速注意を受ける俺。あぁ、優等生のアンタには分からんだろうねぇ。溝にはまるボールのごとく、この場所に吸い付かれるように自然と腰を下ろす俺の気持ちが。


「一番前は目立つもんね、キミみたいな人は考える前にそこに座っちゃうもんね」

「…………ッ!?」


 …………コイツ、笑ってやがる。


 口元を押さえているものの、全て見透かすようにニヤニヤと笑う黒川紅涼。


「お前、分かって言ったろ」

「さぁ、何のことかしら? それより補習を始めないと」


 適当に濁されつつ渋々一番前の椅子に座り、今度こそ補習開始となった。

 俺はシャープペンシル片手に、黒川の板書する内容を渡された白紙に移していったのだった。


 ……――そうして黒川の講義に耳を傾けるやら、白紙に板書を写すやら、実際に計算してみるやらで時間が過ぎてゆき、補習終了。


 一言で表せば、あっという間だった。


 普段の授業なら余程好きな科目でもない限り、毎回時計の針の進み具合を気にするものだ。しかし今回の補習ではそんなことに気を取られることはなかった。


 それに思ったことだが、黒川紅涼の教え方はかなり上手い。俺が顔に疑問符を浮かべているとすぐにそれを察知し、一旦話を止め、その都度分からない部分を丁寧に教えてくれた。それに話は聞き取りやすいし、板書も丁寧。しゃべっていても滅多に詰まることがない。それに、


「…………?」


 先ほどの頭の悪い人間を見下す、という黒川の発言。それを聞いて「あ、こりゃあ恐縮しっぱなしの授業になるな」と予想していたのだが、実際に授業を聴いていると、全くと言っていいほどそんな印象は受けなかった。むしろ親身な態度だった彼女。どういうことだ?


 ということを感じつつ、俺は机に出した筆記用具をペンケースに仕舞っていく。補習も終わったことなので、さっさと教室にでも戻ろうと思った。


 その時だった。


「ねぇ、コーヒーでも飲んでいかない?」


 予想外の誘い。


 ビックリしたもんで聞き違いかと声の方を向いてみると、黒川紅涼は教室の隅で何やら準備をしていたのだ。ポットで湯を沸かしたりコップの用意をしたり、まるでこれからお茶会を開くような手捌き。


「………………」


 参ったな、というのが素直な感想。ご厚意は嬉しいのだが、見知らぬ女子と二人きりというイベントには当然のことながら慣れてない俺。会話が続かず無言状態が生まれるのは目に見える。

 されど、すでに二つのカップを用意して頂いた手前、


「……それじゃ、よろしく頼む」

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