1-4
あれから三人で食事をとり、さてどうしようかと思った時、俺はポケットの膨らみに気づいた。それと便箋の差出人の顔も。一応相手が相手なので顔を出しておかないと重大な問題にもなりかねない。
ということで、正直メチャクチャ面倒ではあるが職員室へと向かうことにした。
新年度開始ということもあり、お目当ての人間は以前の一年生担当の島から場所を変え、二年生担当の島に居た。
目印は黒に近い茶髪のロング、認めたくはないがかなり整った顔立ち。始業式があったからか、珍しく私服ではなく黒の女性用スーツを着用していた。
俺が背後に回ったのにも気づかず、目の前の女は背中を見せ、机に向かって何やら熱心に作業をしている。何をしてるんだと覗き込むと、特に仕事をしている訳でもなくスマートフォンにメールを打ち込んでいたのだ。文面からして私用。
「おい、榊原。来てやったぞ」
俺がそう尋ねると、
「……えっ、うわ! ちょっ、バカ! 背後を取るな!」
武士かよ、とツッコミそうになったが、
「年頃の女のメールを覗き見するなんてサイテーな男のすることだ。まったく、失礼なヤツ……。生徒指導をもっと強化せねば……」
クルリと椅子を回転させ俺へと振り向き、その女教師はスマホを抱えるように胸に当て、唸りながらジト目で俺を睨んでくる。生徒指導とは言うが、これじゃあ教師というよりも近所のお姉さんだ。
手紙の主もあり数学教師、榊原海音。手紙に記載されてあった文字は丸っこく女子高生を連想させるような字体であったが、この女はれっきとした成人女性。歳は二十代半ば。昨年までの数学担当の女教師であり、俺の所属する部活の顧問に当たる人間だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「彼氏にメールでもしてたのか?」
「……どこまで見た?」
適当に答えたつもりが図星だったようだ。
この榊原海音、二十代半ばという歳とそのルックスを考えれば当然かもしれないが、彼氏はいる。まぁ、それは普通のことだろう。だがしかし、女子生徒の共感を得たいが為に女子の前では彼氏いないアピールをしているのだ。
「ま、誰にも言いふらさなかったら許してやってもいいけど? 言ったらどうなるか分かってるんだろうな?」
と言いつつ、グリグリと俺の足を踏んづけてくる。
気が済んだのか、榊原は机の上に置かれた一枚の紙を摘まみ、
「さて、本題に入ろうじゃないか、神宮寺くん」
「愛の告白でもするのか?」
「するワケないだろ。
あんな手紙を寄こしてこの言い分。普段板書するような整った文字を使わず、いかにも『恋する女子高生』らしい字体を使って手紙を書いた風景がスッと浮かばれるのに。
「ま、手紙の通り、キミの数学の成績を色々と考えてみたんだけど……」
榊原は幾らかの間を置き、
「最悪、というほどではないけど……、悪いのは確かだ。他の科目が比較的優秀な分、少し勿体ないとは思う。数学さえ良くなれば選択肢が広がるのに、とは考えた」
そう言って榊原教諭は俺にプリントを渡す。ざっと目を通すと、俺の一年時のあらゆる試験の結果がプリントに纏められていた。数学の部分が赤のマーカーで強調されている。
「…………数学が苦手だから文系を選んだつもりなんスけど?」
「今の調子ならそれなりの大学には行けるだろうね。ただ、文系だからこそ数学の出来で差が付くんだ。せめて『悪い』から『まあまあ』になってくれるとマシになるのに……ってこと」
「もう受験を考えるのか? 三年生になってからでよくないか?」
ふんっ、と榊原は鼻で笑って、
「甘いねっ。高校数学ってのは一年生の内容が基礎になってその後に繋がる。だから一年生で習った範囲が不安なままだと、雪だるま式で分からない部分が増える! そ・こ・でだ!」
通信教育の勧誘でもしているんじゃないかという語り口で榊原は力説し、
「本日から一週間、キミには特別補習をしてもらうことになった」
「…………特別補習? 何だそりゃ?」
「露骨に面倒そうな顔をするな、男の子はもっとハキハキしないと」
余計なひと言を添えつつ榊原が「プリントの裏を見ろ」と言ったので要求通り裏を見ると、
「3階のマップがあるだろ? 赤のバッテンが補習の教室だ。開始時刻はホームルームが終わった10分後、授業と同じ50分の補習になる」
「……内容は? 楽なのか? ハードなのか?」
「そう悲観しないでおくれ。内容は一年生で習った範囲の総復習、難易度もそれほどだ」
それほど、という判断はあくまで数学教師の榊原海音基準であり、俺が基準になればそりゃあね。
「あー面倒くせぇ…………って、オイ! 今日から開始かよ!」
「月曜はヒマしてなかったか? 忙しいなら一日ずらしても構わないけど?」
「……いや、この後は特別用はないし。……それにまぁ、面倒事ならさっさと終わらせるに限る」
「おっ、素直になった。とにかく単なる作業で済ませないように。……ま、そうはさせてくれないと思うけどね」
あん? そうはさせてくれない?
「補習は榊原が担当するんじゃないのか?」
榊原は小さく笑って、
「それはお楽しみということで。なぁに、私オススメの先生だ。身構える必要なんてなしっ。肩の力でも抜いて補習を受ければいいさ」
「へいへい、分かったよ。たしかに、このままじゃマズイと薄々思ってたところだ」
榊原に別れの挨拶を済ませ、そうして俺はプリントに案内された教室へ行くことにした。
それにしても唐突な話だった。まさか今から数学の補習を受けるハメになるとは……。面倒だとは思うし先延ばしにしろと俺の中の悪魔も囁いてはくるが、榊原教諭の言う通り、これは良い機会だと捉えることにしよう。成績が良くなることは悪いことではない。
近くの階段から3階まで昇ってゆき(途中、自分の教室に向かい筆記用具を確保)、プリントに目を通しながら通り過ぎてゆく教室に目を追っていく。と、そこで、
「……ここか。って、部室の近くじゃねぇか」
数分歩いて辿り着いた目的の教室、なんとそこは俺の所属する部室のすぐ近くであった。マップという普段見慣れない形に気を取られていたからか、直前まで気が付かなかった。
前方の教室の名は『多目的教室3』、校舎内マップの赤印と一致している。教室の引き戸や窓は全て締め切られているので、中に誰も居ないんじゃないか? という疑問を持ったが、教室内部から活動を示す音は聞こえた。とりあえず俺は引き戸に手を掛け、身構えなくとも大丈夫という榊原教諭の言葉を胸に言い聞かせつつ、それでも少しの緊張を心に纏わせ戸を引いた。
そしたら一人の黒髪の女がそこにはいた。
――これが俺と黒川紅涼の初めての出会いだった。あの星ヶ丘花蓮とは違う、静かなる最初の出会い。
彼女は俺の存在に気づくことなく、手に持った白のチョークで黒板に文字を連ねていく。スラスラと流れるように、美しく。
やがて彼女は黒板に向けた身体を前に向け、
「……――このグラフは下に凸。だから判別式の条件は――……」
教卓に置かれた教科書らしき本を見ながらではなく、全てを知っているかのようにその女は黒板の内容を流暢に説明していく。
いかにも知的な雰囲気を纏わせ、クールという名の格好よさを存分に魅せる彼女。
「……――だから解の共通範囲は――……」
彼女は俺に目を向けることなく説明を重ねていく。それも、彼女と俺以外の姿が見当たらない教室で。この教室でただ一人『授業』をしているのだ。
「…………」
と、思わずそのクールな姿に見惚れていると、
「もうっ、来たなら声くらい掛けてよ」
ようやく俺の存在に気が付いてくれたようだ。
肩から肩甲骨辺りまで掛かるクセのない黒のセミロング、ツインテール状の髪を首付近で赤のリボンでそれぞれ留め、結んだ2本の髪を前に垂らす。俗にカントリースタイルと呼ばれる髪型だ。
女は俺の元までやって来て、
「榊原先生から話は伺っているわ。キミが神宮寺善慈くんね?」
背の高さは女子高生の平均程度、体型は中肉中背、特別変わった点は見られない。
「……あっ、ああ。俺が神宮寺善慈だ」
いや、身長よりもまず目で追いかけたのはそのルックス。小顔で大変可愛らしく、女子的な表現を用いるならば、その顔立ちはまるで『お人形さん』のよう。細い眉に大きくて黒い目、薄桃色の唇が艶を放つ、この上なく整った顔立ち。たとえ人の海に紛れていようが、一目でその顔を見分けることができそうなほど。誇張した表現ではなく、純粋にそう思えた。
……それに、どこかで見たことがあるような。
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