男:白黒②

日数が経ってくると後悔と焦りが出てきた。その場の勢いだけであんなことをしたのは明らかに間違いだった。生まれた時から知ってる相手なのに。

 演奏依頼のあった店に向かう途中で並んで歩くカップルとすれ違った。明らかに夫婦で、女性のお腹は不自然な大きさに膨らんでいた。

万が一妊娠なんてしたらどうするんだ。気を付けてはいたけど、可能性がないとも言えない。いやいや、確率はかなり低いはずだ。

 自分を落ち着かせながら足早に店へ向かった。今日の店は初めて依頼を受けた店だ。良い演奏をして次も呼んで貰えるように印象を残さなくちゃいけない。余計なことを考えてる場合じゃない。

 指定された店は地面から少し下がった半地下にあった。重そうな二枚扉の造りがいつもの店との格の違いを見せつけてくる。『準備中』の札が掛けられた扉を開けた。 

 カウンターの中で作業をする女性と目が合った。

「……柚木さん、ですか?」

「はい」

「ああ、すみません。オーナーの松原です」

「オーナーですか」俺とほとんど変わらない年齢の女性に見えた。

「ええ」

「そうなんですね……メールではてっきり男性かと」

 女性はカウンターの中から出てきて少し口角を上げた。

「私もです。メールの感じがとても落ち着いていたので年上の方かと……」

 バーらしく黒一色の制服に身を包んだスタイルは女性ながら誰もが憧れそうなバーテンダーそのものだ。所々シワのあるシャツを着ている自分を誤魔化したくなって店内を見渡した。「……いい店ですね」

 テーブル席がメインの店内は四隅から暖色系の光で薄く照らされている。一番奥のスペースには十分な演奏スペースが確保されている。いつもの店はピアノ一台でほとんど埋まってしまうけど、ここなら他の楽器が入ってもまだスペースがありそうだ。

「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」彼女はカウンターにそっと手を置いた。

「こんなお洒落な場所だと緊張しますね」

「硬くならずに、楽しんでやっていただいて大丈夫ですよ」

「今日はどんな曲を?」

 ジャズピアノと言っても店によって雰囲気や希望は違う。

「うちは常連のお客様がほとんどです。アットホームな雰囲気で寛いで貰えるような曲をお願いできますか」

「じゃあメジャーどころも少し入れてみます」

「お願いします。開店は少し先なので、それまでピアノは自由に弾いてください」

「ありがとうございます」

 更衣室でまともなシャツとジャケットに着替えてピアノの前に座った。右を向けば客席がよく見える。思ったよりも客席までの巨利が短くてミスをしたら「あーあ」という顔まで見えてしまいそうだ。

 思い付いた曲を数曲演奏した。鍵盤は少し重いけどしなやかに指の動きについて来てくれる。色んな人に弾きこまれているのが良く分かった。低音の響きが優しいのも心地いい。俺が弾いている間松原さんは細々と動き回り開店の準備を進めた。

 二、三曲引いたところで彼女が手を止めて振り返った。

「あの。演奏、変えられたんですか」

 俺も鍵盤を鳴らす手も止めた。「何か?」

「他の方からお聞きしていた柚木さんは、もっと落ち着いた演奏をされる方だと……」彼女の視線が俺の手元に集中した。

「今のは違いましたか」

「少しだけ。何か悩み事でも?」

 冗談まじりに微笑んだ彼女に合わせて苦笑いをした。

 もう一度弾き直そうと鍵盤に置いた指が震えていた。その日の仕事は店の開店から閉店までの依頼だ。時折休憩を挟みながら、ひたすらピアノに向き合った。演奏中も松原さんの一言が気になってなかなか集中できていなかった。途中でお客さんから名前を聞かれたりはしたけれど、それ以外は何もなくなんとか無事に演奏を終えた。

 閉店より少し前に松原さんがやって来て、後は閉店だけだからもう上がっていいと言ってくれた。

 更衣室でまたヨレたシャツに着て閉店になるまで椅子に座って待っていた。

最後の客が帰った音がしてからホールに戻ると、お客さんを見送ってきた松原さんがちょうド戻ってきた。

「お帰りになってなかったんですね」松原さんが目を開いた。

「すみません。聞きたいことがあって……」

「はい、なんですか?」

「俺の演奏どこかおかしかったですか」

「え? ……ああすみません。あれはただの軽口なので。演奏はとても素敵でした。ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げようとする彼女を制止した。

「違うんです。俺が他に気を取られていたから」

「やっぱり何かおありなんですね」分かります、と言いたげな模範的な笑顔を浮かべた。

「まあ……」

「静かそうな方かと思いましたが、とても素直な演奏をされるんですね」

 奇をてらわずに物を言う。それが不快じゃないのは、バーテンダー特有のスキルの一つなんだろうか。本当のことを話すべきか迷っていると松原さんが話を続けた。

「お店も終わりましたし、少し打ち上げに行きませんか」

「今からですか」

「柚木さんも何か話したそうですし。ご予定が?」

「いえ、ないですけど……」

「すぐ終わらせますから、少し待っててください」

 手際よく作業を済ませて彼女は控え室に入って行った。

 十分ほどで戻ってきた彼女はTシャツにジーパンを着て、指には大振りのシルバーの指輪を嵌めていた。

「お待たせ」

 乱れなく纏められていた髪は解き放たれて肩甲骨の辺りで広がっている。

「……なんか、雰囲気変わりましたね」

「仕事外はラフなタイプなの」

「どこ行くんですか」

「私の家」

「え?」足が止まった。

 松原さんが振り向いた。「この時間じゃお店も閉まってるでしょ? 安い居酒屋のお酒とか嫌だし」

「大丈夫ですか……?」危機感とか、という言葉は飲み込んだ。

「失礼じゃない? そんな散らかってないわよ」

「そういうわけでは……」

 店を出てニ十分もしないうちに彼女のアパートに着いた。一階にテナントが入っていて、二階からが住居スペースになっている。鍵を開けるとドアを開いて俺に先を促した。

「どうぞ。狭いけど」

「お邪魔します」

 玄関部分の足を踏み入れてすぐ、男物の靴が並んで置いてあるのが目に入った。

「ビールでいい?」彼女は冷蔵庫から缶を出して乾杯した。思いきり良く缶を傾けると数回喉を鳴らして飲み下した。

「それで。今日の演奏はなんだったの」口についた泡を指先で拭っている。

「そんなにひどかったですか」

「お客様は楽しんでくれていたからそれでいいけど」

「すみません……」

「ほんと、ある意味素直というかなんと言うか」ピーナツの袋を開ける大きな音が鳴った。

 そう言えば、昔大学の教授にも人間臭いと言われた。

「同じようなことを大学の教授からも言われたことがあります」

「それを持ち味に変えられれば文句はないけどさ」

 ピーナッツを噛み砕く音につられて俺も一口ビールを飲んだ。苦いと美味いが微妙に混ぜ合わされた味がする。「そうなれるよう練習します」

「そもそも考え事って何」

 アルコールで少し潤んだ目をして顔を近づけてきた。店の時と違って好奇心を隠そうともしていない。

「ちょっと……親戚のことで」

 かなり事実をぼかして伝えた。年の離れた姪を傷つけてしまったこと、これからどう接していけばいいのか分からないこと。そんな風に話をした。

それを聞いた松原さんはこう言った。

「柚木君、その子に手出しちゃったんでしょ」

片方の口の端を持ち上げて横に長い笑い顔になった。

「してませんよ。そんなこと」取り繕ってみたけどあまり意味はない気がした。

「嘘。顔に出てる」

「嘘じゃないです」

「ならあのピアノは何?」

「それは……」

「演奏に出ちゃうほどのことなんでしょ?」

 手にした缶に視線を落とした。「……やっぱり非常識ですねよ。姪なんて。自分でも思います」

「まあそれはそうだけど。大丈夫なの? やっぱ、血縁者だと色々さ……」

「俺、姉とは血が繋がってないんです。お互い連れ子で」

「なるほど。それで」

「その日演奏が上手くいって俺自身、かなり興奮してて。姪が急に家に泊ってくって言いだしたんです。……言い訳にもなりませんけど」

「へえ。柚木君って案外流されやすいんだ」気が付けばピーナッツはほぼ無くなっている。音を立てて缶を置くと、松原さんは思いきり体を寄せてきた。

「なんなら今日も流されちゃう?」

「ちょっと、洒落にならないですよ」離れようとした腕をしっかりと掴まれた。

「ほら、そういうとこ。ちゃんと嫌だって言わない」

「だって嫌とかいう問題じゃ……」

「なに」

「今日初めて会ったのに」

「何それ。そんなこと気にするの」

「普通そうですよ」

「『普通』なんてこと気にしてるからあんなピアノなんだよ。いくじなし」

 そこからの流れはお決まりのものだった。

 麦の味と強い炭酸に酔いながら松原さんがキスをしてきた。顎を下ろされて松原さんの下が口の中に入ってきた。同時に服の中に手が伸びてくる。無理矢理拒もうと思えば拒める。少しの間迷ったけど、結局流されるふりをして彼女をベッドへ誘導することにした。むしろここまでしてくれている彼女に対して断るほうが無礼な気さえしてきた。だから俺は駄目なのかも知れない。


 ゆっくり松原さんの体を調査している間に、玄関の鍵が開けられる音がした。急に目が覚める感覚と一緒に「ただいま」という男性の声が聞えた。

 固まったまま松原さんに助けを求める俺に彼女は「大丈夫だから」と薄く笑った。

「でも……」玄関に男物の靴があったことも確認してる。こういう事態をもっと警戒しておくべきだった。

「大丈夫。弟だから」

「え?」

 松原さんの言う通り、音の主は何事なく違う部屋の扉を開けて入って行った。

「ね?」焦る俺を見て彼女は愉快そうだった。

「そういうのは、早めに言ってくださいよ」

 さすがに隣から姉の聞いたことない声がしたら弟としては気まずいどころの騒ぎじゃないだろう。

 頭では分かっていても一度始めてしまったものは中途半端なまま納め直すこともできず、その後は隣の部屋の気配に神経を研ぎ澄ませながら慎重に続けた。

 音をたてたくないと必死な俺に「ピアニストって皆本当に生真面目よね」と彼女は言った。

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