13. 小夜闇

 目を覚ますと、真っ暗な部屋の中、わたしは胸の前で何かを守るように両手を握りしめたままベッドに横たわっていた。

 硬く強張った指を解くと、中にはチーコとおそろいで買ったチャーム。夢とは違って、電気を消した部屋ではその輪郭は薄ぼんやりとしか捉えられない。

 起き上がってスマホを見ると、既に真夜中だった。静寂に身を浸していると、部屋の外、冷たく蟠っていた空気が揺らめく気配がする。

 ママが、帰ってきた。


「……おかえり、ママ」


 部屋を出て、お行儀悪く玄関に座り込んで靴を脱いでいるママの背中に、わたしはそっと呼びかける。


「あら、小夜闇、まだ起きてたの? 子どもなんだから、早く寝なさいよぅ」


 振り返ったママの目は少しとろん、としていて、少し緩んだ語尾からは甘く腐ったようなアルコールの匂いがする。


「ママ、こんな時間まで飲んでたの?」

「なぁに、一丁前にお小言? いつもは何も言わないくせに、変な子っ」


 ママはまるで女学生みたいにクスクスと忍び笑いを漏らす。ばっちりとメイクをした大人の女、の顔には似合わない、子どもじみた所作。


「……ママだって、なんかテンション高いよ。酔ってるの?」

「酔ってなんか、ないわよぅ」


 よいしょっ、と腰の辺りに力が入っていない不安定な動きで立ち上がるママに、わたしは反射的に手を差し伸べた。


「あら……」


 差し出したわたしの手と、それを掴もうか迷うように宙をふらふらと彷徨うママの手は、結局重なることはなく、若干ふらつくママの肩に手を添え支えて歩きながら、わたしたちはリビングへと向かう。


「……酔ってなんか、ないわよ。こんなんで酔えるくらいなら、もっと楽に生きてるわよ」


 わたししか聞いている人はいないのに、わたしじゃない誰かに向かって言うみたいに、ママは低い声で呟く。アルコールを含んだ呼気のように、湿った情念、のようなものが、そこには漂っている。

 酔ったママをリビングのテーブルに座らせ、グラスに水を注いで持っていってあげる。


「なぁに、こんな介抱みたいなことしてくれちゃって」


 別にそんなに酔ってるわけじゃないのに、とママはどこか拗ねたように唇を尖らせて水をごくごくと飲み干す。


「……それで、どうしたのよ、小夜闇。何か用事?」

「え?」

「だって、何かなきゃ、あんたがわざわざ出迎えてくれるなんてことないじゃない。『おかえり』だなんて、久々に聞いたわ」

「……そう、だっけ」

「そうよぅ」


 言われて改めて、わたしは自分が言わなくなっていたのは『ただいま』だけではなかったのだな、と気づく。そして、わたしたちが普段どれだけ言葉を交わしていないか、ということにも。

 母娘、だなんて、笑ってしまうくらいに、わたしたちは遠い。同じ家に住んでいるのに、血の繋がった母と娘なのに。何か用事? だなんて。

 けれど、仕方ないのかもしれない。ママとわたしがこんなに遠ざかってしまったのは、わたしがいつも、出ていくママの背を見送るだけだったから。歩み寄ろうとすることを、諦めてしまっていたから。

 こんな遠くからじゃ、愛してほしいなんて泣いても、聞こえないよね。大きく大きく、あなたに向かって叫ぶくらいじゃないと、届きようもなかった。

 ねえ、ママ。

 この声が聞こえたら、あなたは振り返ってくれますか。


「……ママは、わたしのことを愛してる?」

「えぇ、なぁに、愛、なんて。酔ってるのぅ、小夜闇?」


 おかしそうに喉を鳴らすママだったけれど、わたしの硬い視線に気づくと、きゅ、とその唇を引き結ぶ。

 やがて、艶やかな赤が塗られた唇をぱかり、と開けて、ママは言う。


「愛しているわよ、もちろん」


 その言葉に、わたしは泣きそうになる。嬉しいんじゃなくて、悲しくて。

 だって「愛している」と言うママの目には、これっぽっちだってわたしの姿が映っていないから。おざなりな、口先だけの愛。それはまるで、ママを愛する男たちの口にする愛のよう。

 違うのだ、わたしがあなたに言ってほしい言葉は、そんなものじゃないのだ。


「……わたしを見てよ、ママ。わたしはいつまでも小さい子どもじゃない。『あなたの小夜闇』じゃない。わたしを見て、一人の人間として、向き合ってよっ」


 わななく唇で、わたしは懸命に言葉を吐き出した。


「な、なによ、急に。……小夜闇ったら、今さら反抗期なの?」


 ママはびっくりしたように目を見開き、それから怠そうにため息を吐く。疲れて帰ってきているんだから、手を掛けさせないで、とでもいうように。

 それが悔しくて、怒りたいのに、わたしの声は今にも泣きだしそうにぷるぷると震える。


「ち、違う……。そんな、反抗期、なんて簡単な言葉で片付けないでよ……。子ども扱い、しないでよっ……」

「そうやって、すぐ泣いちゃうようなうちは、子どもよ。そんな女、面倒がられてすぐ捨てられるわよ」


 ママは、大人、という地表からわたしを見下ろして微笑む。上にいる者の、余裕の笑み。相手に対する自分の正しさを確信している、その眼差し。


「……いいよ、それでも。わたしはもう、ママみたいなこと、やめるから。手あたり次第に求めて、捨てたり捨てられたり、なんて。もう、やめる」


 その瞬間、アルコールで濁っていたママの瞳がぎろり、とわたしを睨みつける。

 目の中には巨大な真っ黒を飼いながら、ママはいやに優しい声をわたしに向ける。


「そう。それが小夜闇の本音なのね。私に『愛してる?』なんて聞きながら、あんたの方こそ、本当は私のことなんて、愛してなんかいないくせに。そうやって、心の中では私のことを見下していたんでしょう? いくつになっても男を追いかけ回している私のことを」


 ママの声は穏やかなのに、わたしは全身をざらざらとしたやすりで撫でられているような気持ちになる。


「ねえ、小夜闇。私、知っていたのよ。あんたが私に対する当てつけで、私の真似をしてるってこと。私、知っていたの。嫌なところばっかり似てくる、って思ってたけど、違うんだ、って。私が嫌がるように、わざと似せているんだ、って。ねえ、小夜闇――」


 ママがしゃべる度に、甘く腐った匂いがリビングに充満して、それと共に真っ黒も部屋中に広がっていく。どろどろぐるぐるとわたしを取り巻いていく。


「――あなたこそ、私に愛されたくなんて、なかったのでしょう?」


 優しくて鋭利なママの声が、わたしの胸のまん真ん中を刺し貫いた。その痛みに、わたしは声も出せずに立ち尽くす。

 そんなはずがないのに。わたしはずっと、あなたに愛されたくて。


「ずっと、あんたのことがわからなかった。愛していると言っても、誕生日にプレゼントをあげても、いつも不満そうな顔で、そのくせ何も言ってはこなくて。いつだって聞き分け良く留守番して。小夜闇はいつも、私に逆らわないことで、私に逆らっているんだ、って思ってたわ。あんたいつも、家を出ていく私の背中を見ていたでしょう。あの、目。何も言わずに、けれど私のことを責めているようなあの目が、私は嫌だったのよ」


 堰を切ったようにしゃべり続けるママに、わたしは何も言えない。

 ママは、わたしがずっとママの背中を見ていたことに、気づいていたのだ。

 それなのに、その奥にあるわたしの気持ちは、一欠片だって伝わってはいなかったのだ。

 愛を求めた、愛を伝えたかったこの目が与えていたのは、無言の非難で。


「……わたしは、そんなつもり、なくて」


 自分でも驚くほど弱々しい声が唇から力なく落ちた。つもりがなくても、ママがそう感じていたことは動かしがたい事実で、それはママにとっては真実となんら変わりない。


「その上、いつからかあんたは私の生き方を真似するようになって、気づいたらあんたを見る度に、歪んだ鏡に映った自分を見ているような気持ちになるのよ。お前はこんな人間なんだ、って見せつけて、責められているみたいで、怖く、なるのよ。その目が、私をどんなふうに見ているのか、怖かったのよ」


 どんどんとママの声はか細くなって、やがてママは両手で顔を覆って俯いてしまう。その肩は震えて縮こまって、まるで年若い少女が悲嘆に暮れているよう。

 あるいはこれが、大人、の顔の下の、本当のママの顔なのかもしれない。美しく整えられたメイクが剥がれる時、ママはいつもこんなふうに泣いていたのかもしれない。ママの知らないところで、わたしが真っ黒を育て続けていたように、同じ瞬間に、ママもまた彼女だけの暗黒、を育てていたのかもしれない。


「私だって、わかってるのよ。こんなの、いい母親じゃない、って。でも、知らないんだもの。どうやったらいい母親になれるかなんて、知らないんだもの。だって私は、こういう生き方しか、刹那的な愛をもらって生きることしか、してこなかったから。いい母親なんて知らない。恋人の、愛人の、情愛以外の愛を知らない。知らないものを、どうやって与えればいいのよ? 子ども扱いするな、って言うなら、一人の人間として見ろ、って言うなら、私のことだって、当たり前に『母親』として見るのはやめてよ」


 ママはさめざめと泣き続け、わたしも初めて見る彼女の涙に混乱して、その悲しみが伝播したみたいにぽろぽろと涙を零した。

 今この瞬間、ママはママではなく、大人、の女でもなく、ママをなくしたわたしもまた誰の娘でもなく、ただただ一人ずつの少女として、そこにあるような気がした。




 真っ暗な、真夜中の底で、少女二人が泣いている。どれだけ泣いても夜は明けず、しまいに泣きつかれた少女二人は、


「……ぁぁ、こんなに泣いたの久し振り」

「……泣いたら喉、渇いたね」

「……なんか、あったかいのが飲みたいわ」

「……ココア作るけど、飲む?」

「……飲む」


 なんて、呑気な、けれどどこか新鮮でぎこちない会話を真っ赤な目で交わす。

 二人分の牛乳を注いだ小鍋を、火にかける。鍋の縁がくつくつとしてきたところで、マグカップにココアの粉をたっぷりと入れる。

 ママは、おっかなびっくりと、慣れない手つきで鍋を持ってマグカップに熱々の牛乳を注ぐ。


「あ、ママ。最初は牛乳をちょっと入れて、粉を溶かしてから残りを入れた方がおいしくなるよ」

「ちょっと、知らないわよ、そんなの」

「うん、だから今言った」

「一個はもう入れちゃったから遅いわよ」

「じゃあ、そっちはママのね」

「えー、ママもおいしい方がいいんだけど」

「やだ」

「小夜闇ってば、ケチね」


 ぶちぶちと文句を言いながら、ママは牛乳をなみなみ入れたマグカップを不器用にかき混ぜる。それを横目で見ながら、わたしは牛乳をちょっと入れて粉を溶かしてから、カップの七分目までココアを作る。粉がダマになって浮いているママのココアとは違って、わたしのカップの液面は滑らかだ。

 同じ材料で、一緒に作ったのに、二杯のココアは量も、見た目も、全然違う。

 まるで、わたしたちのよう。同じ血を分けて、同じ家で暮らしていたのに、本当は、全然違う、二人の少女。

 二人でキッチンに立つことなんて、今までにあったかな、とわたしはカップから立ち上る湯気みたいにおぼろげな記憶を辿る。きっと、ない気がする。


「こんなこと教えてないのに、私が知らないことも、小夜闇は知ってるのね」


 カップに口を付けて、「あちっ」なんてやりながら、ママはぼそりと呟いた。


「……知ってることもあるし、知らないこともあるよ。でも、それって普通のことじゃない? 知らないことは、これから知っていけばいいんだよ」


 わたしがそう言うと、ママはしばらく考え込むようにココアの液面を見つめた後、「……それもそうね」と小さく笑った。

 リビングのテーブルに移動して、二人横並びに座ってココアを飲む。夜の底で、友だちみたいな距離にいるこの時間が終わってしまうのが惜しくて、わたしはわざとゆっくり、ちびちびとココアを飲んだ。ママは「……これ、粉っぽいわ」なんて文句を言っては顔をしかめた。

 どれだけゆっくり飲んでも、マグカップはいつか空になり、この不思議な時間も、もうすぐ終わる。


「ねえ、小夜闇?」


 ママは肩をこつん、とぶつけてきながら、秘密事を言うみたいにそっと囁く。


「小夜闇を愛している、って言ったのは――愛したいって思っているのは、本当よ。でも私は、知らないから。普通の母親がそれをどうやるのか、よくわからないから、多分下手くそなんだと思う。……ねえ、小夜闇? それでもいい、ってあなたは言ってくれる?」

「……うん。いいよ、普通とかそんなの、どうでもいい。ママがくれるそれがあれば、わたしはいいから」


 知らなかったママの気持ち、そして知られなかったわたしの気持ちも、――お互い真っ黒の中に隠してきたもの全部、この真っ黒の中みたいな真夜中でなら、見せ合える気がした。


「わたしも、わたしがママの真似をしてたのは、ママを傷つけたかったわけじゃなくて……ううん、ちょっとはそういう気持ちもあったかもしれないけど、でも一番は、ママに振り向いてほしかった、っていう気持ちなの。傷つけることで振り向いてくれるかも、って思ったりもしたけど、本当はわたしはママに愛されたくて、愛されるために、ママを真似たの。それだけは、知ってほしい」

「何、その愛憎入り混じった複雑な感情……。重いわよ……」

「わたしが重い女だってことも、知ってほしい」

「それは知りたくなかったわ……」


 ふざけて冗談みたいなことを言って、わたしとママは顔を見合わせて吹き出した。


「……はぁ、私たち、全然お互いのこと、知らないのねぇ」

「ね、母娘、なのにね」

「母娘、だからかもねぇ」


 そう吐息交じりに呟くママからは、気づけば腐ったような甘い匂いはしていなくて、ココアの穏やかな甘さが取って代わっていた。




 飲み終わったカップを流しで洗っていると、つい、とママが横に立つ。その指先で軽くわたしの頬に触れる。


「ごめんね、小夜闇。あの時、打ってしまって」

「……ううん。わたしこそ、ひどいこと言って、ごめんね」


 頬を打たれた痛みも、心無い一言で付けてしまった傷も、なかったことにはならないけれど。

 それでも、それら全部を水に流して、進んでいこう。流しても落ちないものはきっとあるけど、そうして傷つき摩耗しながら、少しずつ空っぽを埋め合って生きていくのだ。

 それがきっと、わたしとママの、愛の形だから。

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