12. 小夜闇

 それがなければ、とても生きていけないと思った。

 寒さに震える夜に篝火を探すように、飢えた子どもがお菓子をねだるように。

 愛を、あなたの、愛を。どうかください。それがないとわたしは、一人ぼっちのような気がするから。


 愛して、ください。

 それが言えたなら、どれだけ良かっただろう。

 あなたを愛する男なんか放っておいて、家を出ていくあなたの背中に手を伸ばしたいわたしに気づいて、と。


 どうして言えなかったのだろう。

 きっと、怖かった、わたしは。あなたに疎まれ、嫌われることが。それはわたしのほしい、愛、とは、対極にあるものだと思っていたから。


 素直な、聞き分けの良い子でいれば、愛されはせずとも、嫌われることもないと。

 今は愛されないのなら、せめて邪魔にはならぬようにと。重荷にはならぬようにと。恋多きあなたがその道程でいつか振り返った時、わたしの献身に気づいたのなら、その時はどうか愛してくださいと。

 そう、願った。

 願うばかりで、何もしなかった、わたし。


 だからわたしは、愛を知らない、愛の亡者となった。

 他人からの愛を貪り、それに飽いたら次の愛をと。もっともっとと、突き進む道の両脇にはわたしのこの掌の隙間から零れ落ちていった愛の死骸がうずたかく積み上がり、もっともっとと、わたしを追い立てる。わたしにはこの道しかないのだと、もっと、満たされるまで、愛を貪れと。

 キュートでポップな皮を被って、ばりぼりばりぼり愛を貪る。違う、これじゃない、わたしのほしいものは。もっと、もっと!


 可愛くあれ、愛されるために。けれどその内面はどろどろぐちゃぐちゃ、グロテスクな恋愛モンスター。周りには死んだ愛が蠢いている。その肉を喰らって進むわたしもまた、どんどんと腐り落ちていく。キュートな見た目のその裏側で、ぼとぼとと崩れ落ちていくわたしは、恋愛ゾンビ! 喰らって、喰らって、喰らうのだ!

 愛をもっと、もっと、もっと、もっと! 愛を持たないこの体が、朽ちてしまわぬように!


 がらがらと、山のように積み上がった愛の残骸たちが、わたしの上に降ってくる。ひからびて、落ちたそばから砕けて砂となり、やがてわたしは愛の死骸でできた砂漠に一人。


 一人ぼっちだ! 辺りには愛であったはずのものがこの小さな体を呑み込まんばかりに溢れているのに。

 ぽろぽろと涙が零れるのに、それすらも瞬く間に乾いて砕けて散っていく。

 もはや道もなく、道標もなく、わたしは迷子のように立ち竦む。愛に焦がれた熱情も砂漠に埋もれ、この体を駆り立てるものは身の内のどこにもない。


 空っぽだ。

 泣いても喚いても、この目は、心は乾くばかりで。

 乾いた瞳はついに何も映すことなく、暗黒。

 まん丸い闇が、眼前でぐるぐるどろどろと渦巻いている。

 亡者で、化け物で、ゾンビなわたしには、真っ暗闇がお似合いだ。真っ暗ならもう、何も見ないで済むもの。ほしかったものも、それが手に入らないことも、愛されない自分も、愛してくれないあなたの背中も。

 全部ぜんぶ、いなくなれ。

 真っ暗闇に落とすのだ。愛など、ないのなら。この手に、入らないのなら。

 それならもう全部、いらない。


 小さな暗闇の中で四肢を投げ出し、死んだみたいに横たわる。

 背中からゆっくりと、砂に埋もれていく。ずぶずぶと、わたしの存在が下降していく。耳元でたくさんの愛が軋む音がする。わたしが蔑ろにしてきたそれらの、怨嗟の声。

 それすらも、今のわたしにとっては子守唄のように心地良く聞こえた。横たわったまま乾いた砂を手に握ると、指の間をさらさらと流れる。滞りなく、止めどなく、滑り落ちていく。この手に、何も残すことなく。


 ――かちり。

 何も掴めなかった手を再び投げ出すと、真っ暗闇から小さな硬質の音がした。爪の先に硬いものがぶつかった感触を覚え、わたしは砂に埋もれた体を起こす。ざらざらと、体の表面から砂が零れ落ちる。

 見下ろすと、砂の中にぼんやりとした小さな明かり。そこだけが闇を払われてわたしの目に映る。

 愛の死んだこの砂漠に、いったい何が残っているのだろう。

 試しに両手で掬い上げると、さらさらと砂の零れた掌の上、小さな金属の欠片が光っている。爪で弾くと、ちゃらり、とそれは鳴る。


 あぁ、そうだ。これは、ちゃんとある。わたしの手の中に、残っている。あぁ。

 空っぽだったはずの胸がずきずきと痛んで、チーコ、と喘ぐように呟く。


 これは決して、愛ではない。恋のきらきらとも、違っている。

 それなのに、その光は色褪せない。真っ黒の中で煌々と、わたしを照らしている。

 亡者の、化け物の、ゾンビのわたしを。白く染め、ただの人間の、ただの小夜闇のわたしへと――わたしでしかないわたしへと、戻してくれる。

 これは決して、愛じゃないけれど。わたしがほしかったはずのものではないのだけれど。

 それでも別に、いいじゃないかと思う。だってわたしは愛を知らない。見たことがない。それならば、愛ではないはずのこれに、わたしだけの『愛』という名を付けても、構わないでしょう?


 そうすることで、ケリをつけよう。かつての満たされなかったわたしと、かつて、そして今も、一度でもわたしを満たそうとはしてくれなかったあなたと。

 ねえ、ママ。ケンカをしよう。口答えだって、一度もしたことないけれど、わたしはそういうことをしてみたい。

 だってもう、わたしはあなたに与えられるのを待つだけの、幼い娘じゃないもの。一個の人格を持った、あなたの娘だけれどそれだけでは収まらない、わたし、なんだもの。


 もう、何もほしくはない。この手の中に、大事なものを持っているから。もうずっと前から、本当は持っていたのだから。


「ありがとう、チーコ」


 これはもう絶対に、手放さないよ。

 さぁ、その輝きで、わたしを覆う暗闇を払って。

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