11. 知依子
泣き疲れて眠ってしまった小夜闇を放っておくこともできず、私は段々と濃く暗くなっていく空を、窓越しにぼんやりと眺めていた。
ベッドの上、小夜闇は小さく体を丸め、彼女がすやすやと寝息を立てる度、顔にかかる艶やかな黒髪が獣の体毛のようにさざめく。
すい、とその髪を指先で梳いてやれば、その下からはあどけなく緩んだ顔が現れる。整っているけれど、口許はだらしなく、艶々の唇はちょっと開いていて馬鹿っぽい。
「……無防備な顔しちゃって」
こういう顔も初めて見るな、と私は今まで知ることのなかった小夜闇の一面に想いを馳せる。
私は小夜闇の友だちだけれど、友だちでしかないから、私の知らない部分なんて小夜闇にはきっと腐るほどあって、けれど、だからこそ私は友だちとして、彼女のことをもっと知りたいと思うのだ。愛とか恋とか、綺麗な、理想を押し付けがちな関係ではないからこそ、見えるものがあると信じたいのだ。
そういった、決して一番にはなれないけれど、無二の関係を小夜闇と築きたいのだ。
そんなことを、小夜闇が立てるすやすやという寝息の隙間に、考えてみたりした。
「…………んっ」
「あ、起きた、小夜闇?」
「……ぅうん、あれ、わたし、寝てた?」
「熟睡」
「あー……、ごめん、チーコ」
むくり、と獣じみた動きで起き上がると、小夜闇はぽやんと輪郭のぼやけた目許を擦る。
時計の針はすっかり夜を指していて、それでもまだ小夜闇のお母さんは帰ってこない。
「いつもこんなに遅いの、お母さん?」
「んんん……、その日のうちに帰ってくれば、いい方」
「マジか」
さっきまで温く微睡んでいた声が、お母さんの話題になると、きん、とした冷たさを帯びる。
小夜闇がお母さんに抱える想いはわかったけれど、もう一方はどうなのだろう。
小夜闇のお母さんは、本当に小夜闇を愛しておらず、彼女のことを嫌っているのだろうか。
……考えてみたところで、面識すらない私にわかるはずもなく、それを小夜闇に聞くのもなんだか違うな、と思う。
結局、それは小夜闇とお母さんの問題で、つまりは家庭の問題で、そこに他人である私が首を突っ込む余地などないからなのだろう。小夜闇は友だちだし、彼女の気持ちには寄り添いたいと思うけれど、友だちとして私ができるのはそこまでで、それ以上は私の領分ではない。
だから私にできる精一杯とは、小夜闇がお母さんとちゃんと向き合えるように背中を押してあげることなのだろうな、と思う。
「ねえ、小夜闇」
「なに?」
呼びかけると、小夜闇はベッドの上でくたり、と無防備な仕草で首を傾げて私を見る。
「あのさ、ちゃんと、話しなよ。お母さんに、自分の正直な気持ち」
「…………」
「あれ、また寝た?」
「……起きてるけどぉ」
ぐるる、と不機嫌そうに喉を鳴らす小夜闇。きらきらと恋をしている時には絶対に見せない表情や仕草に、私は笑ってしまう。
そんな私の態度がお気に召さなかったのか、ふん、と鼻を鳴らすと、小夜闇はぼそりと呟く。
「……夢を、見たの」
「夢?」
「うん。わたしがからからに乾いて、砂に呑み込まれていく夢」
「……ごめん、私夢占いとかできないんだけど」
「別に頼んでないから! そうじゃなくて、……わたしは、怖いんだと思う」
「怖い?」
だらり、と体の脇に垂らしていた小夜闇の腕が強張り、その指がシーツを硬く握りしめる。
「……わたしにとって、ママはいつでも正しくて、その正しさを頼りに生きてきたから。でもそれじゃあママには愛されなくって、ママは正しいのに、ママの言う通りに愛されようと頑張っていたわたしが愛されないのはどうしてなの、って。もう、わかんなくなっちゃった。……わたしはずっと、ママの小夜闇だったのに、今のわたしは、誰の小夜闇なの?」
「小夜闇……」
強張った腕も、まとまらない言葉を吐き出す唇も、全身を震わせて小夜闇は戸惑っている。迷っている。
私は、そんな彼女にそっと手を伸ばし――
「ばっ――――かじゃないの⁉︎」
ばちん、とその頬を両手で挟んだ。図らずも軽いビンタっぽくなってしまったけれど、暴力ではない。決して。
「…………ふぇ?」
私に頬を挟まれ、意味がわからない、というように、小夜闇の大きな目がきょときょとと泳ぐ。
本当にわからないのだ、この子は。それほどまでに幼く――いや、私たちが当たり前のように通ってきた道を、この子は通っていないだけなのだ。
だから私は、彼女が通ってこなかった道の先で――彼女が見えていなかった道の先で、彼女に呼びかける。
「あのね、小夜闇。小夜闇は、誰の小夜闇でもないんだよ。あなた自身が、あなたの正しさを、生き方を決めるの。ママが絶対に正しいとか、そんな五歳児みたいな思考停止はやめて、自分で自分の正しさを決めるんだよ」
小夜闇は、小さな頃からお母さんに愛されたくて、でも愛されなくて。そうして失い続けたお母さんとの時間は、彼女の中の母親という偶像をより強固に育ててしまったのだろう。
私たちと同じ年代の子どもにとって、母親って、そんなに手放しでは尊敬も称賛もできなくて、言ってることはわかるし正しいこともあるけど、同時に「それって違くない?」みたいなことを言うことも普通にあって、口うるさいのが疎ましかったり、幼い頃のように無邪気な愛を向けることの方が難しいもので。だからこそ、自分にとっての大事なことは、母親の言うことを聞くんじゃなくて、自分で考えて決断しなければならないのだ。
言ってしまえば、小夜闇はその、幼い頃の関わりを――永遠に失われてしまったその幻を、追いかけ続けていたのかもしれない。
「……自分、で」
ぼんやりと、焦点の定まらない瞳で、小夜闇は私の言葉を繰り返す。
「そうだよ。ママが絶対に正しいなんて、そんなわけないじゃん。だって、小夜闇のお母さんだって小夜闇と同じ、ただの人間だよ? 神様じゃないんだよ? それなのに絶対正しいとか言っちゃうの、それこそ絶対におかしいじゃん」
「で、でも……」
「でも、もクソもない、このマザコン!」
「まっ――」
びしり、と人差し指を突きつけると、小夜闇は絶句した。絶句、という状態は本当にあるんだなぁ、と感心してしまうほどに綺麗な絶句だった。
しん、と部屋の中に静寂が落ち、私は、自分の領分よりも外側に少し踏み入ってしまったのではないか、と今さらになって危惧した。こんなこと、小夜闇にとっては余計なお世話なのかも、と。あとマザコンは普通に言い過ぎた。勢いって怖い。
マザコンなんて言われて怒り出さないかと、俯いてしまった小夜闇をはらはらしながら観察していると、その細い肩がぷるぷると震え始める。あ、やばい怒ってる。
「……うっ、くっ、」
怒っているかと思ったら、小夜闇は喉を震わせるみたいな呻き声を上げた。あ、やばい、怒ってるんじゃなくて泣いてる?
どうしよう、と慌てて伸ばした手が彼女の肩に触れようとした瞬間、
「……くくくくくくくっ」
すごく気持ちの悪い笑い声が俯いた顔から漏れ出した。え、こわ。
「えっと、……小夜闇?」
感情壊れちゃった? と恐る恐る覗き込むと、小夜闇は今度は弾かれたように笑い出す。
「あ、あははははっ、マザコンって! ひぃぃ……!」
笑い過ぎて引きつけを起こしたみたいになっている。やば……。
どうしよう私のせいで小夜闇がおかしくなっちゃった、と反省しながら待つことしばらく、ようやく小夜闇の笑いの発作は収まった。
「大丈夫、小夜闇……?」
「はぁぁぁー、うん、っ、もう平気、……くっ」
「いやまだちょっと笑ってるじゃん」
「だ、だって、チーコがマザコンとか、言うからっ」
目尻に浮かんだ涙の粒を拭いながら、小夜闇は言う。
「そんなおかしなこと言ったかなぁ」
「ううん、おかしくないよ。ただ、そんなもんか、って思っただけ。わたしがぐるぐる考えて、わけわかんなくなっちゃってたことって、一言で言ったらそんなもんだよね、って、思えただけ」
「……嫌だった?」
ともすれば小夜闇の悩みを切って捨てるような言い草だったかもしれない、と尋ねると、小夜闇はふるふると首を横に振る。
「ううん。多分、そんなすぐには切り替えられないかもしれないけど、でも、もう大丈夫な気がする。だって、わたしはわたし、だもんね? ママとわたしは別人で、わたしはママの娘だけど、ママのものじゃない」
真っ黒の流れ落ちた、透明に澄んだ瞳で、小夜闇は私を真っ直ぐに見つめる。恋できらきらはしていないけれど、今まで見たなかで一番綺麗な色をしていると、私は思う。
「そう思えば、ママとちゃんと話せる気がする。ママの小夜闇じゃない、わたしのままで、話せる気がする」
そう言って、小夜闇はくしゃり、と笑った。その拍子に目尻に残った涙がぽろりと落ちて、透明な軌跡を描く。
「ありがと、チーコ。わたしはもう、ママの言うように愛されたいと思うのはやめるね。わたしはわたしなりに、わたしとして、愛される努力をしてみたい」
「……できるよ、小夜闇なら」
小夜闇の頬に残る涙の跡を指先で拭う。
「できるまで、私が傍にいるから。多分それが、私が小夜闇にあげられるもの」
「……うん。それがあれば、いいかな」
私の湿った指先に、小夜闇の指先が絡む。そのまま両手で私の手を取ると、小夜闇は自分の頬に私の掌を押し当てた。お守りをかき抱くように、そっと。
冷たくもなく、平温で平穏な肌触り。その感触は、どこか、安心、に似ている。小夜闇も、そう思ってくれているといい。
キュートでポップで、その内側にどろどろの闇を抱えた私の小夜闇は、もういない。
そこにいるのは、可愛くて、ちょっぴり愛に飢えている女の子――つまりは、どこにでもいるような、普通の、悩める女の子なのだった。
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