8. 知依子
初めて上がる小夜闇の家は、小綺麗だけれどなんとなく打ち捨てられたような風情がしていた。
「家にはママしかいないけど、今はいないから」
小夜闇の部屋に向かいながら、泣き腫らした目で小夜闇は囁く。
「今は、っていうか、いつも、だけど」
ぼそり、と不機嫌そうな小夜闇の声が廊下に反響して転がっていく。帰っている間も、小夜闇は家に近づいていくにつれ、どんどんと顔から表情が抜け落ちて、今はもう、能面みたいになっている。
「……小夜闇って、もしかしてお母さんのこと、嫌いなの?」
「違うよ」
と、小夜闇は少年みたいな低い声で答える。
「ママが、わたしのことを嫌いなの」
通された小夜闇の部屋は予想外に殺風景で、学校でのキュートでポップな化けの皮がべりべりと剥がれていく。
「お茶淹れてくるから、ちょっと待っててね」
ぱたぱたと小夜闇が部屋を出ていってしばらく、手持無沙汰にベッドに腰掛けていた私は、ふと、五センチほど隙間が空いている机の引き出しに目がいく。
なんとなぁく中を覗くと、そこにはデパートで売っているような高級そうなチョコレートの箱が入っていた。机の引き出しに仕舞っておくものにしては、少し変わっているな、と思う。
「――それはね、わたしの宝物なの」
ふいに背中に声が掛かり、私は反射的に引き出しを閉める。
部屋の入り口から、湯気の立つマグカップを二つ持った小夜闇が目を細めてこちらを見ていた。
「ごめん、勝手に見ちゃって」
「いいよ。チーコには見せようと思ってたから」
マグカップをテーブルに置いてから小夜闇は私の隣にやってくると、勢いよく引き出しを開けて中のチョコレートの箱を取り出した。無造作な動きでそれをテーブルの上に置き、蓋を開ける。
箱の中には、その高級そうな外側とは不釣り合いな、チープな玩具のようなものが詰め込まれていた。
キーホルダー、カラフルな文房具、プラスチックのアクセサリー、萎れた押し花の栞。
雑多に詰められていたものたちは、見ようによっては子どもらしい、無邪気な品のようにも思えたけれど、私の目にはなんだか精彩を欠いて映った。
その理由を、箱の中身をぼんやりと見つめる小夜闇の真っ黒な瞳の中に、私は見つける。
宝物のように仕舞われていたそれらに、小夜闇はもうなんの価値も見出そうとしていないのだ。そう感じさせるほど、その瞳には温度がなかった。ただただ真っ黒で、飢え、乾いている。底なしの穴みたいに。
「小夜闇、これはなに?」
「これはね、わたしの宝物――になるはずだったものたち」
私が尋ねると、小夜闇は淡白な口調で答える。
「……はずだった?」
「うん。これは全部、もらったものなの。わたしのことを好きだって言ってくれた人たちがくれた、プレゼント。もらった瞬間はきらきらしてたのに、宝物みたいな気がしたのに、今はもう、すっかり無価値になっちゃった」
歌うように、小夜闇は呟く。
「どうして」
「だって、みんな、いなくなったから。みんなわたしのことを好きだ、って言ってくれたのに、今はもう、そうじゃないの。だからもう、ここにあるものは全部、期限切れ」
愛には、賞味期限があるから。
小さく呟きながら小夜闇は箱の中に手を入れ、チープに輝くそれらを掬い上げる。一つ、また一つと指の間から零れ落ち、ひしゃげた栞が、投げ出されたネックレスのチェーンが、不格好な死骸のように堆積する。
あぁ、この死骸の数だけ、小夜闇は愛を求めて、そして失ってきたのだな、と私は思った。
多分、これをプレゼントしてきた人たちにとっては、好き、ってそんなに大層な言葉じゃなくて、時間が経てば次第に薄れて消えていってしまうようなもので、むしろそれが普通なのだろう。こんなにも病的に、好き、に固執する小夜闇の方がおかしいのだ。
好き、って、私たちみたいな子どもにとっては甘くてきらきらしていて、お菓子みたいに魅力的だけれど、だからこそ消費したらなくなってしまうような、インスタントな感情。愛とか恋とか、そんなの目に見えないから流動的で、気づけば形を変えているような、そんなもの。
小夜闇はきっと、目に見えないそれの証がほしかったのだ。相手から自分に注がれる、愛、とか、恋、とか、そういう感情の結晶が。目に見えないものよりも見えるものの方が、確かにそこにあるんだ、って思えるから。
それでも、それは決してイコールでは結びつかない。プラスチックの指輪はただのプラスチックだし、キーホルダーもキーホルダーでしかない。愛、でも、恋、でもない。だから、小夜闇が本当にほしいものにはなれない。宝物未満の、可哀想な残骸たち。
「……それでも、小夜闇は全部大事にとってあるんだね」
私がぽつん、と零した言葉に、小夜闇はぴくり、と肩を震わせた。
全部が無価値だと言いながら、小夜闇はどうしてそれを捨てないの? 大事に箱に詰めて、仕舞ってあるの?
本当に、それらは全部無価値な残骸でしかないの?
「……満たされる気がしたの。きらきら甘いものたちを箱いっぱいに詰めれば、わたしも空っぽじゃなくなる気がしたの。でも、ダメなの。わたしはいつまで経っても空っぽで、ずっとずっとずっと満たされない。ねえ、チーコ。だから――――ちょうだい」
あ、と思う間もなく、私の世界はぐるり、と反転して柔らかな感触に背中から落っこちる。不格好にベッドに倒れ込む私の上に、小夜闇が覆い被さってくる。
見上げると、真っ黒が二つ、私を見下ろしている。
「チーコがくれるなら、わたしだって全部あげるよ。他には何もいらないんだもん。だからねえ、」
わたしを、いちばんに愛して。
二つの真っ黒が落っこちてきて、私の耳朶に小夜闇の唇が触れる。熱い。吐息も、私の胸をぎゅっ、と押さえつける小夜闇の掌も。どくどくと、その下で私の心臓が、血が、騒いでいる。
さらさらのセミロングが私の肌をくすぐるように撫で、小夜闇の指先が胸元から鎖骨、首筋を通り、ゆっくりと頬に触れる。熱くて、触れ合ったところから今にも火が出そう。
その吐息が私の唇にかかる距離で、小夜闇は甘く囁く。
「ねえ、チーコ。わたしを、満たして?」
その熱に、甘さに、私の意識は酩酊しそうになる。このまま身を任せて、小夜闇と一緒にぐずぐずに溶けていってしまうのも悪くないかな、なんて。
けれど、ぼんやりと霞む意識で見上げた小夜闇の顔。
その瞳と目が合った瞬間に、私の意識は覚醒する。表面を覆っていた薄い飴が、ばりんと割れるみたいに。
――違う。
私が、小夜闇にあげたいものは、こんなんじゃない。
だって小夜闇は、私に恋なんて、していないんだもの。体は熱いのに、その瞳の奥は真っ黒に冷え切っているんだもの。
その飢えを満たしてあげられるのはきっと、私じゃない。
あなたは、その真っ黒に閉ざしてしまった瞳がまだ見えていた頃に、誰を見ていたの? 誰に愛されたいの?
ねえ、小夜闇。
「見えないよ、小夜闇。その真っ黒の奥には、何があるの?」
「――――っ」
弾けるように、小夜闇が体を起こす。押し倒されたのは私の方なのに、なぜだか小夜闇の方が押し倒された少女のように、怯えて傷ついた顔をしていた。
「――わかんないよ、チーコには」
そう呟いて、小夜闇はベッドの上で膝を抱え、足の間に頭を埋めてしまう。小動物がじっと息を殺して身を守ろうとするような、いたいけなその姿に、私の胸は締め付けられる。
「うん、わかんないよ、私には。小夜闇は、学校でもよくわかんない子だって思われてるし、私は他のみんなよりは小夜闇のことをわかってると思うけど、それでもやっぱり完全にはわかってあげることはできないから」
「それじゃあもう、黙ってよ! 何もわかってなんかないくせに、わかったようなこと、言わないでよ!」
「……でもね、それでも、わかりたいとは思うんだよ、小夜闇のこと」
「うるさいうるさい!」
膝の間から、小夜闇はくぐもった悲鳴みたいな声を上げる。
「チーコだって、今までの人たちとおんなじ! 結局わたしのほしいものはくれない! 好きだって言っても、それは結局一番じゃないじゃん!」
駄々っ子のように、小夜闇は自分のほしいものがもらえないことを嘆く。まるで、悲劇のヒロインみたいに、小さな体を丸めて、自分だけの悲しみに閉じこもっている。
そうやって俯いていたら、見えていたはずのものですら、見えなくなってしまうのに。
「小夜闇」
呼びかけても、小夜闇は顔を上げない。彼女の悲しみは強固で、私もまたこれまでの人たちと同じように、彼女にとっては許しがたい裏切り者なのだろう。
でもね、小夜闇。私、多分気づいちゃったよ。
あなたが本当にほしいのは、『誰か』の一番じゃないんでしょう? その証拠に、あなたは今まで付き合った誰のことも、別に好きじゃなかったでしょう? 恋、なんて、本当にはしていなかったでしょう?
そして今、私にだって。
あなたがほしかったのは、ただ自分を好きだと言ってくれる人だけ。自分に一番をくれるかもしれない人だけ。
そうすることであなたは、本当にほしかったものがもらえなくて空いてしまった穴を、埋めようとしていただけなのだ。
でもね、小夜闇。その穴にぴったりとはまるものは、多分一つしかないんだよ。
「ねえ、小夜闇。私、思うんだ。今まで小夜闇が付き合ってきた人たちだって、みんな、その人なりのやり方で小夜闇のことを一番に想っていた、って。小夜闇が裏切られたように感じていたのはきっと、その一番の形が小夜闇が求めていた形とは違っていたってだけなんだよ」
「……わかんない、わかんないよ。チーコの言ってること、意味わかんない。一番は一番だもん。わたしのためになんでも与えてくれて、それ以外のものは全部捨てられる。それが一番愛してる、ってことでしょ? それ以外はもう、一番じゃないでしょ?」
「どうして?」
「どうして、って、ママが……ママがそう言ったの! それが一番愛してる、ってことだ、って! 一番に愛してくれる人を見つけなさい、って! だから、わたしはっ、」
俯いていた顔を上げ、激したように叫んでいた小夜闇は、ぐっ、と息が詰まったように黙り込んだ。その目に透明な雫が浮かんで、澱んでいた真っ黒が溶けて、流れ落ちる。
ようやく見えた、と思った。どろどろと渦巻いていた真っ黒の向こう――彼女がずっとその身の内に隠していた、そして彼女自身でさえも見えなくなっていたものが。
彼女が、本当にほしいものが――彼女が誰からそれをもらいたがっているのかが。
「――小夜闇はずっと、お母さんの一番がほしかったんだね」
真っ黒で濁った涙を指で拭ってあげながら私がそう言うと、小夜闇はくしゃり、と整った顔を歪める。
「ち、ちがう」
「本当に違うの?」
「ちがう、ちがう。だって、ママはわたしのことを、好きじゃないから。愛してないから。だから絶対に、一番、なんて、くれっこないから、だから――」
「――小夜闇っ」
ちがうちがう、とたがが外れたように首を振る小夜闇を見ていられなくて、私はぎゅっ、と正面から小夜闇を抱きしめた。どくん、どくん、と二つの心臓の鼓動が重なり、一つに鳴っているような気持ちになる。
「大丈夫だよ、小夜闇。無理に否定しなくたって、いいんだよ。だって小夜闇が言ってることは全部、小夜闇のお母さんの気持ちだから。たとえお母さんがどう思っていようと、それは小夜闇自身の望みを否定する理由には、ならないんだよ」
抱きしめた肩はひどく頼りなくて、背中に縋り付くように回された手は微かに震えている。
チーコ、と頭の横、か細い声で小夜闇が私を呼ぶ。
「でも、わたしは、可愛くない、から。愛されない、から。ママはもう、わたしのことを『私の小夜闇』って、いわない、からぁ……」
吐き出される言葉は次第に濡れたように滲んで、小夜闇が顔を押し付けた私の肩も熱く濡れそぼっていく。
「辛かったね、寂しかったね。本当にほしい一番をほしいって言えなくて、頑張って他の一番を探そうとしたんだね。でもそれじゃあ、埋まらないよね。ずっとずっとわかってもらえなくて、辛かったよね」
「……チーコ、チーコぉぉ」
小さな子どものように、ぽろぽろと、小夜闇は透明な涙を零し続けた。
全部ぜんぶ、流してしまえばいい。
あなたの瞳に蓋をする真っ黒なんて、全部ぜんぶ。
そうしてまっさらな、無垢な瞳で、見つければいい。
あなたが本当にほしいものを――埋まらない穴を埋めてくれる、ただ一つの形の愛を。
「大丈夫だよ、小夜闇。だって、小夜闇は言ったじゃん」
細い肩に回した腕にぎゅ、と力を込めて抱きしめてから、私は安心させるように笑って言う。
「一番愛されるための努力なら得意だ、って」
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