6. 小夜闇

 昔からうっすら感じていたことだけれど、わたしはどうやら『可愛い』らしい。

 そして『可愛い』は人から愛されやすいのだ、とも。

 幼い頃は半ば無自覚に享受していたそれを、わたしはいつからか意識的に利用するようになった。

 多分、わたしを好きだと言った男の子と――好きなのに、一番にはしてくれなかった男の子と、別れてからのことだと思う。


『自分も一番に愛される努力をしなくっちゃあ』


 そう、努力。わたしにはそれが足りていなかった。誰よりも愛されるため、わたしは誰よりも可愛くあらねばならない。今よりももっと、うんと可愛く。

 キュートでポップな、愛さずにはいられないわたしに、ならなければ。

 ママが、彼女を愛する男たちのために綺麗な服を着て、その美しさをより鋭利に磨き上げるようにメイクをするみたいに。

 そうしてある時から急におしゃれや自分磨きを始めたわたしを、たまに家に帰ってくるママは最初は面白がるように、けれど次第に疎ましいものを見るように観察していた。


「……小夜闇ったら、変わったわね」


 ある夜、珍しくどこにも行かずにリビングのテーブルに頬杖をついてお酒を飲んでいたママは、手に持ったグラスの中にうっそりとため息を吐く。キャミソール姿で、お行儀悪く足を組んで座るママは、完全にオフモード。無造作に下ろした髪をかき上げる仕草も、洗練された女、というよりも、なんだか野生の獣が体を休めているみたい。

 わたしは、最近追いかけているモデルさんのヘアアレンジと新しい洋服を合わせているところで、ママには背を向けたまま、わたしの肩越しに姿見に映り込んだ彼女と見つめ合う。


「……変わった、かな」

「ええ。なんだか、小さい私を見ているよう。あんた、前はおしゃれとか、全然興味なかったじゃない」


 つまらなそうに鼻を鳴らすと、ママはぐいっと一気にグラスを傾けた。


「どんどん、似てくるのね」


 ママはふらっとわたしの背後にやってくると、肩口まで伸びたわたしの髪を掬うように撫でる。露わになった首筋に生温かい息がかかり、むわり、とアルコールの匂いがわたしの肌にまとわりつく。

 その匂いは、いつもの、ママを愛する男たちのための甘ったるい匂いとは違い、どこか腐敗の気配がした。振り向いて見上げると、メイクをしていない、剝き出しのママの顔がすぐ近くでわたしを見ている。

 そこにあるのは、美しい、けれど、確実に時間を経た、女、の顔だった。

 その、考えてみれば当然のことに、わたしはひどく動揺する。立っている床がぼろぼろと崩れていくように、確固たるものだったわたしの世界が、不安定に、解けていく。


「……なぁに、小夜闇」


 甘くて腐ったような息を吐きながら、ママはわたしを値踏みするように見据える。お酒で薄くどんよりと濁ったその瞳には、わたしの顔が――どんどんと、ママに似ていくわたしが、映っている。

 どうして、そんな目でわたしを見るの。


「ママは」

「なに?」

「ママは、わたしがママに似るのが嫌? だから、わたしのことを愛せないの?」


 とろん、と酔いで緩んでいたママの顔の筋肉が、一瞬にして強張るのがわかった。わたしは、あぁ、言ってしまった、とどこか他人事めいた気持ちでそれを眺めている。


「私が、小夜闇のことを愛してないって、……あんた、そんなふうに思ってたの? そんなわけ」


 ぱくり、と口を開け、腐敗の吐息を漏らしながら、けれどママがその先の言葉を言うことはなかった。

 わたしはいつだって、ママの正しさを疑うことはなかった。それは、ママが誰よりも綺麗で、美しかったから。一番、愛されるべき、人間だったから。

 けれどもう、その美しさは摩耗して、上手にコーティングしなければひび割れて崩れてしまいそう。

 わたしの正しさの象徴が、ぺりぺりと剥がれて、朽ちて、なくなっていく。

 愛には、賞味期限があるから。それを求め続けるママにも――そしてきっと、わたしにも、等しく期限はある。

 愛を注いでもらえる時間は、無限ではない。有限であるならば、そこには格差が生まれる。すなわち、より美しいものが、綺麗なものが、優先される。

 どんどんと、ママに似ていくわたし。ママよりも若くて、瑞々しい、摩耗していないわたし。


「――ママは、わたしに嫉妬してるの?」


 気づいたらそう口に出していて、あっ、と思う間もなく、ぱん、と乾いた音がわたしの右頬を打った。

 わたしは、馬鹿みたいに口をぽかんと開けて、遅れてじんじんと痛み出す右頬を抑えながらママを見上げる。

 いつも綺麗に整えられているその顔が、今はひどく不格好に歪んで、その奥から抑えきれない何かがじわりと漏れ出してくるような、そんな気がした。


「ああ、小夜闇」


 甘く優しく、かつては『可愛い子』と言ってくれた声で、ママはわたしを呼ぶ。

 ひどく歪で、老いた女のように、けれどもどこか幼い子どもみたいな表情を浮かべながら。


「何も知らない、可哀想な子。若くて綺麗で、――そして、傲慢で、嫌な女」


 ぞっとするほど穏やかで、けれど瞳には真っ黒なものが蠢いている。

 見えない。ママのことが、見えない。


「本当に、私にそっくり」


 違う。違うの、ママ。

 そんな目でわたしを見ないで。わたしは、あなたに嫌われたかったわけじゃない、憎まれたかったわけじゃない、わたしはただ――


「……可愛い、って、愛してる、って、言われたいだけなの」


 喘ぐように吐き出したその言葉は、空虚な、薄っぺらい音を立てて床に落ちた。


「そうね、そう言ってくれる男は、いくらでもいるでしょうね。とっても可愛くて、とっても可哀想な小夜闇」


 吐き捨てるように言うと、ママは空になったグラスをテーブルに放り捨てるように置いてリビングを出ていった。

 ママはもう、言ってくれない。『私の』小夜闇とは。

 顔はどんどん似ていくのに。あなたの、娘なのに。

 わたしは、誰の小夜闇?

 うっすらと腐敗の匂いが残る部屋に立ち尽くし、わたしは呟く。



「また、空っぽになっちゃった」

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