4. 小夜闇

 わたしが中学に上がった頃から、ママはそれまで以上に家を空けることが多くなった。

 誰もいない家の玄関は、春も、夏も、秋も、冬も、いつだってひんやりと翳っていて、その陰に自分の声が吸い込まれて消えていくのが妙に寂しく思えて、わたしはいつからか「ただいま」を言わなくなった。別に、言ったところで応えてくれる人が――ママがいることはほぼないし。

 だから、その日玄関を開けたわたしは、ママのおろしたての靴が置いてあるのを見つけて「珍しく家にいるんだー」と思った。思っているうちに、奥のリビングの扉が開いて、ひょこり、とママが顔を覗かせる。


「あら、おかえり、小夜闇」


 おかえり、なんて迎えるその顔にはばっちりメイクがされていて、これからお出かけするんだな、という気配が――ママが、彼女を愛する男に会う時特有の、妙に甘ったるいような匂いが、ほんのりと玄関まで漂ってくる。


「……うん。ママは、これから出かけるの?」

「ええ。ご飯はいつも通り、テーブルにお金を置いておくから、それで好きなもの買って食べてね」


 歌うように言って、ママはリビングに頭を引っ込めかけて、それからびっくりしたようにもう一度ひょこり、と首を曲げてこちらを見つめた。


「ちょっと、小夜闇、その子は?」


 その子、とママはネイルで縁取った爪の先をわたしの背後に向けた。その先には、玄関に所在なげに突っ立っている男の子。あ、忘れてた。


「えっと、同じクラスの子。一緒に勉強しよう、って」


 同じクラス、というのは嘘じゃなかったけれど、本当は付き合っていた。ちょっと前に、わたしのことが好きだ、って言ってくれたから。


「ふぅん」


 お邪魔します、と頭を下げるその子を目を細めて見つめながら、ママは何やら意味ありげな吐息を漏らす。綺麗なママに見つめられて、男の子の耳は真っ赤になっている。


「……ま、いいわ。私は出かけるから、ゆっくりしてらっしゃいな」


 ひららー、と綺麗な蝶の掌を振って、ママはリビングへと戻っていく。

 わたしは男の子を自分の部屋に連れて行ってから、飲み物を取りにリビングへ。

 ママは最後の確認、とばかりに、部屋の隅に置かれた全身がばっちり映る大きな姿見の前でくるくるしていたけれど、わたしが冷蔵庫を開ける音でこちらを見る。


「小夜闇ったら、隅に置けないわね」


 どこか面白がるような、拗ねるみたいな口振りで言いながら、近寄って来たママはわたしの頭を優しく、でもどこか儀礼的な手つきで撫でる。


「やっぱり、私の娘ねぇ」

「……娘、だよ?」


 当たり前のことをしみじみと口にするママがなんだかおかしくて、わたしは冷蔵庫から取り出したお茶のペットボトルを抱えてきょとんと彼女を見つめた。

 ひんやり冷たいお茶のボトルが、わたしの熱をどんどんと奪っていく。


「……そうよね、娘よね」


 もう一度、ママは呟くように言うと、細い体に鎧みたいにストールを巻き付けて家を出ていった。

 残されたわたしは、冷たいお茶のボトルを抱えて、リビングに落ちたママの呟きを見つめていた。娘。やっぱり。隅に置けない。そうよね。娘よね。

 よくわからなくて、でもなんだか嫌な気持ちになって、わたしはそれらを爪先で蹴っ飛ばして部屋へと戻った。

 部屋に戻ると、わたしのことを好きだと言う男の子は、どこかそわそわと落ち着かない様子で床に座っていた。


「あ、小夜闇。えっと、お母さんは」

「出かけたよ。帰ってくるのは夜遅くか、明日かなぁ」

「そ、そうなんだ……小夜闇はそれ、知ってて呼んだの?」


 わたしを好きな男の子はいよいよ様子が変で、顔が赤くて、息もなんか荒くて、少しだけわたしは気持ち悪いな、って思う。


「知ってたっていうか、ママは大体いつも家にいないから」

「そっか……」


 謎の沈黙が落ちて、男の子のそわそわが移ったみたいに、わたしも自分の部屋にいるのに何故か落ち着かない気分になる。というか、いつの間にか彼の中ではわたしが呼んだことになっているけれど、家に来たい、って言ったのは彼の方からだった気がする。なんか、変。

 お茶をテーブルに置いて、男の子から少し距離を取りたくてベッドに腰掛けると、何を思ったのか彼もベッドのわたしの隣に座ってくる。汗ばんだ匂いと、湿度のある熱が、制服の上からわたしに絡みつく。

 彼の掌が、わたしの肩を掴んで、ぐっ、と強く押した。痛い、と思う間もなく、わたしは背中からベッドに倒れ込む。

 見上げると、男の子の顔は陰になって真っ黒ののっぺらぼうみたい。

 見えない。それじゃ見えないよ、とわたしは思う。


「……なに」

「俺、小夜闇のこと、好きだから。大切にするから、」


 熱に浮かされたように口走る彼を遮るように、わたしは尋ねる。


「それって、一番?」

「え、」

「だから、わたしのこと好きって、大切にするっていうのは、他の誰よりも一番ってこと?」

「そんなの、」


 一番、という言葉がするり、とわたしの唇を内側から割って現れる。

 あの冬の日の誕生日、何よりもほしくて、けれど手に入らなかったそれを、わたしはずっと求めている。

 止まらない。むくむくと、胸の内側で膨れ上がる。ほしい。見えない。どこにあるの? ねえ?


「ねえ? 友だちよりも? お母さんよりも? お父さんよりも? おじいちゃんやおばあちゃんよりも? 兄弟よりも? ペットよりも? 好きな芸能人やスポーツ選手よりも? 他のどんな人間を捨ててでもわたしのこと、好きでいてくれるの?」


 ねえ、ねえ、とわたしはわたしに覆いかぶさる真っ黒に止めどなく問いかける。

 ぐんにゃりと、真っ黒が歪んで、のっぺらぼうだったものが、男の子の顔になる。見える。ない、そこには。わたしのほしいものは。


「…………なんだよ、急に。変だよ、小夜闇。そんなの、選べるわけないだろ」

「なんで」


 あると思ったのに。だって言ったじゃん。わたしのことが好きだって。それなのに他の誰かの方が大事なの? 一番じゃないの? どうすれば一番をくれるの?

 誰が、わたしに一番をくれるの。


「……もう、いい。一番じゃないなら、いらない」

「え」

「だから、もうおしまい。お別れ。さようなら」


 毒気を抜かれたような男の子は、わたしが下から手で押し退けると、弾かれるようにベッドから降りた。

 それから彼は無言で鞄を掴むと、ほとんど走るみたいに部屋から出ていく。


「……おかしいよ、お前」


 ばたん、と閉まる扉の向こうで、低く吐き捨てる声がした。

 おかしいの、わたしは。

 でも、だって、仕方ないじゃん。

 あの日からずっと、満たされない。わたしは空っぽの箱。

 ベッドから起き上がり、机の引き出しからチョコレートの箱を取り出す。

 わたしの素敵な宝箱。そうなるはずだったもの。

 箱を開けると、中には色々なものが詰まっている。

 幼稚園の時、わたしのことを一番可愛いって、お嫁さんにしてくれる、って言ってくれた男の子からもらった、プラスチックの指輪。

 わたしのことを一番の友だちだって言ってくれた女の子がくれた、おそろいのキーホルダー。

 可愛いボールペン、手作りのマスコット、チープな子供向けのアクセサリー。

 しっかりとしまってあるそれらは、今でもなおきらきらと光を放っているけれど、それでももう、その輝きにはなんの意味もない。

 だってもう、みんないなくなってしまったから。離れて、いってしまったから。

 わたしのことを好き、一番、愛してる、と言って差し出されたそれらは、愛の証だ。だから、その愛がなくなってしまったら、もう価値なんてない。

 全部ぜんぶ、死んでしまった。

 愛には、賞味期限があるから。


「これも、もういらない」


 わたしはポケットからヘアピンを取り出して、箱の一番上に落とす。この部屋を出ていった彼が、わたしにくれた証。期限が切れた、愛の死骸。



「さあ、次の一番を探さなくっちゃ」

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