ブレッチェル

増田朋美

ブレッチェル

その日は冬とは言っても少し穏やかに晴れて、のんびりした日であった。もしかしたらもう寒い日も終わりを告げて、春になっていく可能性を示しているのかもしれない。まだ寒い日もあると思うけど、季節は確実に動いているのだ。

その日、杉ちゃんと蘭はショッピングモールにでかけた。帰りに、阿部くんのやっているパン屋さんへ行ってみることにした。ショッピングモールの近くへ移転している阿部慎一くんの店は、売っているパンの種類も増えて、所々にアロマキャンドルもおかれている、可愛い店になっていた。商品は、プンパニッケルみたいな典型的なドイツパンもあるけれど、いちごジャムを挟んだパンや、卵の入ったパンも販売されている。

「やあどうもいらっしゃいませ。今日はなにかご入用かな?」

前掛けをしめた阿部くんが、そう声をかけた。

「はい、じゃあ、プンパニッケルを一斤ください。」

「はいわかりました。」

杉ちゃんがそう言うと、阿部くんはプンパニッケルを切ってくれた。

「じゃあ僕は、このブレッチェルをもらおう。どうもライ麦のパンは、苦手なので。」

蘭は、売りだなからブレッチェルを2つ取った。二人はそれぞれ現金と、スイカで支払って、パンを買った。

「それにしても阿部くん、扱っているパンの種類が、随分増えたね。」

蘭は、お釣りを受け取りながら、そんな事を言った。

「まあちょっと増えたかな。でも、ドイツパンというと、1000種類以上あるそうだから、まだ、この数ではひよっこさ。」

阿部くんはにこやかに言った。

「今度は、田舎パンと呼ばれてる、カンパーニュも発売する予定なので、期待していてね。」

「へええ、本当にパンについて勉強しているんだねえ。ドイツパンばかりであるけど、それを極めているようでは、支持率も高くて、売れ行きは上々か。」

蘭は、店の中を見渡していった。

「それにサワーの匂いも、アロマキャンドルで消すように工夫されているじゃないか。」

確かに前回来たときは、アロマキャンドルは置かれていなかったから、これは大きな進歩でもある。

「店は順調みたいだね。」

蘭はにこやかに笑った。

「ま、まあそうだね。でも、君だって、よくわかっているはずではないの?商売ってのは、必ずなにか障壁があるんだよ。でもそれだけに囚われちゃいけないんだ。それが人生ってもんじゃないか。」

阿部くんは、そういって蘭を見た。確かにそのとおりなのである。だけど、人間こういう事を言われると、素直に応じられないのはなぜなのだろうか。なんか知らないけど、同じようにそうだねといえばいいものを、僕のうちではそのような事は無いと言いたくなってしまう。蘭もそのとおりだった。

「まあそうだねえ。誰でも、何でも順風満帆に言っているやつなんかいないよな。みんなイヤダイヤダと言いながら、それでも生きているってのが、人間ってもんだろう。それを、否定しちゃいけないよね。お互い、頑張ってやって来な。」

杉ちゃんが代わりにそういう事を言った。

「そうだねえ。僕の店もそうなんだよね。誰でも同じだと思うからさ、言わないだけでね。それを言えたらすごいだろうっていう思いは何回もしたよ。杉ちゃんみたいに何でも口に出して言えたら、すごいなって思ったことはなんぼでもあるよ。」

阿部くんは、杉ちゃんに言った。

「杉ちゃんみたいに、プンパニッケルを大量に買ってくれる客は、なかなかいないなあ。」

そうなのか。やっぱり僕の思ったとおりだと蘭は思った。だってあのガリガリして、ボソボソして、サワーの味を存分に効かせた食パンなど、誰が欲しがるのだろうか。ドイツにいた蘭でさえ、あの食パンは苦手なのだ。ポストファミリーが気を使ってブレッチェルを勧めてくれなかったら、ライ麦のパンなんて食べられないくらいだ。

「そうなのか。でも、プンパニッケルの販売は絶対続けてくれよ。そうじゃないと、水穂さんが、パンを食べられないから。普通の小麦パンでは食べられない、水穂さんには、貴重なパンだ。」

杉ちゃんは急いでそう言うと、阿部くんは嬉しそうに、

「わかってるよ。他にも、そういう事言ってくれるお客さんは多いからね。プンパニッケルも、ロッゲンミッシュも、これからもたくさん作っていくから。安心してね。」

と言った。

「そうそう。水穂さんみたいな、そういう弱いやつのために、なんとかしてやるってのが本当の商売だ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。でも、蘭は、阿部くんと杉ちゃんの話を聞いて、プンパニッケルが流行らない理由がちょっとわかった気がした。

と、そのとき、いきなり店の入り口がガチャリと開いた。誰だろうと思ったら、一人の中年女性が入ってきた。何をしている女性だと思うが、多分、まともな職業についてないという雰囲気があった。もしかしたら、暴力団とか、そっちに関わる女なのかなと思った。

「責任取ってもらいたいわね。」

と、彼女は、阿部くんに詰め寄った。

「責任ってなんですか?」

と、阿部くんが聞くと、

「昨日私は、お宅のパンを買ったんですが。」

と、彼女はきつく言った。

「それで?」

阿部くんが聞き返すと、

「はい。お宅のパンを食べた五歳の長男が、パンのあまりの固さに歯が折れて、飲み込んだパンで窒息しそうになりました。それもこれも、みんな、ここで売っている、変なパンのせいですわ。責任取ってもらいたいです。」

と、彼女はいきなりそういう事を言いだした。杉ちゃんがはあと彼女に返事を返したが、蘭は、この女性が言っていることは、本当なのかもしれないと思った。それほどドイツパンといえば固いし、サワータイクを使用するから、中にはもちもちしたものも多いので、子どもさんが喉につまらせてしまうこともあると思う。

「はあじゃありませんよ。こうしてパン屋さんを開いているのなら、そういうリスクもあるんだって事をちゃんと注意書きするとか、するべきなんじゃありませんか。それにお宅で売ってるパンなんて、日本ではほとんど馴染みのないパンでしょう。そういうことなら、余計にそれをしたほうがいいと思うんですけどね。こうして事故が起きてしまったわけですし、ちゃんと責任取ってください。」

と、女性はいきり立ってそういう事を言った。

「はあ、詰まったパンはどうしたの?掃除機でも使って取ったの?」

と、杉ちゃんが言うと、

「ええ、幸い、小さな子供ですから、背中を叩いて吐かせましたが、全くどうなるか困ったものでした。だから責任取ってください。そういうパンを、勝手に広められては困ります。」

と、女性は、またいった。

「そうかも知れないけど、ドイツパンを必要とするやつもいる。ここで、販売をやめられちゃ、困るっていうやつもいる。だから、店を閉められちゃ困る。お前さんもさ、そういう事は、事故だったと思って、もう来なければそれでいいんだ。いちいち、細かいことで責任だなんだって、そういう事を、言われても困ることだってあるんだよ。だから、阿部くんばかり責めても仕方ないと思うけど?」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「何を言っているんですか。全く自己顕示欲の強い店ですね。ドイツパンを専門に売っているそうだけど、そういう日本では全く馴染みのないものを売る場合、ちゃんとこういう事故が起こるってこともあるって、注意書きをするべきじゃないのかしら?パンと言っても、日本ではまだまだ歴史が浅いのよ。ましてや今は、情報が必要な社会じゃないの。そういう基礎的な情報を開示しておくことは、必要なんじゃないかしら?」

と、女性は答えた。

「でも、ドイツでは情報も何もなく、食べられてるよ。それを言うなら餅だっておんなじじゃないかよ。日本で全く似たようなものがないかっていうことはないぞ。もし、お前さんの言うことが正しいんだったら、全部の餅屋が、謝罪をしなければならなくなるよ。それとは違うだろ?変な言いがかりはつけないでくれ。」

杉ちゃんがそれに対抗すると、

「家族にも言われましたけど、私は納得できません。餅は、日本独自の食べ物ですけど、ドイツパンはちがいます。一緒にするのは、間違いなんじゃないかしら。」

と、彼女は言った。

「違うってどこがだよ。」

「だから言ったでしょ。餅は日本に古くからありますが、ドイツパンは、ドイツから最近になって、物好きが持ち込んできただけのこと。歴史が違うじゃありませんか。」

そういう女性に、杉ちゃんは、

「日本人ってどうしてこう、新しいものに弱いんだろうね。なんで、新しいものを見つけると、悪いところを突きだして排除しようとするのかな。それは、よくわからないな。」

と大きなため息を付いた。蘭もそこは違和感があると思った。日本人は、新しいものに弱い。それは、どこの時代でも同じ。古い例で言ったら、仏教が伝来したときもそうだった。新しいもののせいで、大戦争が起きてしまったんだから。

「だいたいね。日本人の体に合うかどうかもわからないじゃないですか。日本のパンと違う生地で作るんでしょう。それが、果たして、日本人の体に適合するのかしらね。固いし、食べにくいし、味はまずいし。いいところなんてちっとも無いじゃないの。そんなものが果たして、栄養になるのかしら。そんなもの食べたら、日本の食べ物がお怒りになるのでは?」

そういう彼女に、

「物部尾輿みたいなこと言うな。いずれにしてもドイツで長らく食べられているんだから、体に悪いということはないぜ。」

と、杉ちゃんがでかい声で言い返すが、彼女は、更に続けるのだった。

「でも、日本人がドイツのものを無理やり食べるなんて、そんな事したら、日本のパンが嫌がるんじゃないかしらね。さっきも言ったけど、日本人からしてみたら、固いし、味はまずいし、どうやって食べたらいいかわからなくなっちゃうわよ。そういうことも注意書きしないで、ただパンを売るという行為は、果たして商売と言えるのかしら。」

彼女の言い方は、いわゆるゆすりではなかった。ただ、自分の息子が可愛くて、自分の息子が、ドイツパンを食べて、窒息しそうになったのも紛れもない事実なので、それに対する怒りを抑えられなくて、ここに来ているだけなのだった。

「ほんと、この店は何を売っているのかしらね。ドイツパンなんて、日本で誰もしらないようなパンを、食べ方の説明や、喉に詰まる可能性がある、注意書きもしないで、売ってるんだから。最悪、この問いかけも、答えが出ないんじゃないかしら。聞いてみましょうか。命になれる?」

そういう女性に杉ちゃんは思わず、

「なれます!」

とでかい声でいった。

「そんな馬鹿な問いかけしないでくれ。食べ物は何でも命になれるから長らく続いているんだよ。日本では、ほとんど知られていなかったかもしれないけど、ドイツでは長らく続いてきてるんだ。それを、阿部くんは日本にも伝えたくてやってるんじゃないか。その何が悪いと言うんだよ!」

「もういいですよ。杉ちゃん、こういう人は、いくら言ってもわかるはずがないんだ。じゃあ、弁償しますから、金額を言ってくださいますか。」

と、阿部くんが言った。

「じゃあ、2万でいいわ。子どもを医者に見せたのと、病院までの交通費と。」

と興奮が晴れない女性がそういうと、

「わかりました。これをお収めください。」

阿部琴は、レジからお金を取り出して、彼女に渡した。

「はい確かに。」

彼女は礼も言わず、それを受け取った。

「せめて領収書くらい書いてくれないかな。」

と、杉ちゃんが言うが、

「いや、もういいですよ。杉ちゃん。かばってくれて嬉しいんですけど、こういうふうに新しいものをやれば、まとわりついてくる人だっていますから。そういう人に、かまっていたら、商売などできやしません。だから、もっと強くならないとね。」

と、阿部くんはにこやかに言った。

「でもさ、お前さんに、どこか余裕があったら、世界には、小麦を食べられないやつもいて、そういうやつは、ライ麦のドイツパンを食べることによって、喜びを得られるっていうやつもいるって、頭の片隅に入れてくれないかな。でないと、そういうやつが可哀想だからさ。そういうやつに取っては、食べ物は、命をつなぐことでもあるからな。」

杉ちゃんは、そういう事を言うが、女性は、とてもそんな余裕はないという顔をしていた。

「あなた、なにか訳があるんですか?誰か、重い障害を持っている方がいらっしゃるとか?」

と蘭は優しく彼女に聞いてみた。彼女の目がちょっと変わる。

「あなたが、単なるゆすりとかではなく、本当に理由があって、ここに文句言いたいんだと言うことはわかりますから。」

「ええ。ちょっと訳がありまして。」

と女性は、そういった。

「はあ、あんだけ、阿部くんにひどいこと言って、自分の事を話さないのはなんだかずるいぞ。それはなしで、ちゃんと話して貰えないかな。なにか訳があるんだったら!」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「そうですね。でも、こんな事を言って、信じてもらえるかどうか。」

と、女性は言った。

「信じるか信じないかは、話してみないとわからないじゃないか。ちゃんと言ってみな。なんで、お前さんがこの店に文句言いに来たのか。」

杉ちゃんが急いでそういう事を言うと、

「娘がいるんですが、娘は、心臓が悪くて、私が、色々してあげないと、何もできないので。私、シングルマザーだし。娘を守ってやるのは、もう私しかできないから、娘のことなら何でもしようと思っていて。周りの人からは、娘さんをなんで働かさせないのとか、そういう白い目でにらまれて、娘も傷ついているだろうし、私も、傷つくから、一生懸命生きているだけなのに。」

と、彼女はつまりながらそういう事を言った。

「そうかそうか。そういうことがあったのか。まあ、何にしろ、事実は事実だからね。それに、僕達は善も悪も上も下もつけないよ。お前さんが、その事実に振り回されて、おかしくなってることも事実だけどね。それしかないからさ。人間にできることなんて、事実に対して、何をできるかを考える事だけだから。アドバイスも何も無いけれど、まあ、人間がすることはそれだけで、後は自然がやってくれるって思ってさ。ゆっくりのんびり生きて行けや。」

こういう事を言えるのは、杉ちゃんだけであった。もし、そういう事を話したくなっても、口に出して言えるとは限らない。

「できることなら、もう少し、感情に振り回されないで、落ち着いて動けるようになれるといいですね。もう少しゆっくりペースで生きてもいいじゃありませんか。感情で何でも行ってしまうのではなく、少し間を開けて動いて見るようにしてもいいと思います。」

蘭は、できるだけわかりやすく彼女に言った。彼女は、申し訳ないという顔をした。そして彼女の目に涙が光った。なにか悪いことをしてしまったような、そんな目になった。

「誰かに相談とか、そういうことができればいいんですけど、そういうことができる人は、ほんの一握りですからね。みんな、一人でつらい思いを背負って生きているんですよ。僕は、そういう人をたくさん知っています。どうか、一人ぼっちだと思わないでください。」

蘭はにこやかに笑っていった。

「ごめんなさい。あたし、なんてひどいことしたんだろう。ごめんなさい。一生懸命パンを売っている方に、こんなひどいことをしようなんて、私何をしたんでしょう。ごめんなさい、お金をお返しします。」

と、彼女は阿部くんにお金を渡そうとしたが、

「いやあ、事故があったのもまた事実だし、注意書きをしなかった事は、こちらのミスでもありますので、お支払いしますよ。」

と、阿部くんは受け取らなかった。

「いえ私、こんなひどいことして、お金をもらうなんて、そんな悪事、できません。娘に知られたら、娘が自分のせいでこんな悪事をするようになったのかと思うでしょうから。」

と、彼女はそう言うので蘭は思わず、

「少しお休みになったらいかがですか。娘さんのことは手伝い人を雇うとか、そういう事して。あなたが、本当に疲れていることが、よくわかりますよ。」

と言った。

「そういうことなら、ここでパンを買っていったらどうだ。ライ麦のパンと言うのは、栄養満点で、ものすごく美味しいらしいぜ。」

杉ちゃんに言われて、女性は、でもここはと言った。

「じゃあ、蘭が買っていった、ブレッチェルをかったらどうだろう?」

女性はブレッチェルを見た。確かに、桃尻のような形をした、丸いブレッチェルは、ライ麦の比率が少ないドイツパンの一つである。割とライ麦パン初心者でも食べやすいパンと言える。

「わかりました。買っていきます。」

女性は、ブレッチェルを2つ取った。

「はい、一個120円です。」

阿部くんが言うと、彼女は静かに240円を渡した。阿部くんは、彼女に領収書を渡して、

「はい、どうもありがとうございます。よろしかったら、またパンを買いに来てください。」

とにこやかに笑った。

「本当に、申し訳ありませんでした。こんなふうに親切にしていただいたのは、本当に久しぶりです。ありがとうございました。」

と申し訳無さそうに一礼して、店を出ていった。阿部くんからくすみとったお金は、売り台の上に置かれたままだった。それと同時に、ブレッチェルが二個なくなっている。阿部くんは、ブレッチェルを厨房から2つ追加しておいた。

「まあ、そういうことがあったんだよ。全く、余裕のない女がいるもんだ。まるで、子どもが子育てしているように見えるくらい感情的だった。全くな、困ったもんだぜ。」

と、杉ちゃんは、プンパニッケルを食べながら、そういうことを言った。それと同時に布団で寝ていた水穂さんが、

「確かに、余裕があって生きる人は、なかなかいないかもしれませんね。」

と、杉ちゃんに言った。

「僕は、このパンでないと、パンというものは食べられないので、あの店が潰れないでいてほしいんですけど。」

「そうだろう。だからそのためにも、阿部くんの店は無きゃ困るだよ。それで、お前さんも、食べてもらわなきゃ困るんだ。ほら、食べろ。」

杉ちゃんは、水穂さんに、プンパニッケルのパンがゆの入ったお皿を渡した。







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ブレッチェル 増田朋美 @masubuchi4996

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