第42話:今まで、本当にありがと……
ロリポップ中隊がベンガヴァル西方250kmの地点まで戻ってきた時、突如として激しい振動がキャンディーマルーンの機体を襲った。機体が激しく右にヨーイングしつつロールしそうになるのを、フレミングは慌てて左エンジンのスロットルを絞りラダーを踏んで態勢を立て直す。反作用で今度は機体が失速しそうになるところ、
「
と叫んで今度はスロットルをミリタリーまで開き、
「フレミー、大丈夫ですの?」
右前方を飛行する
「うん、とりあえず……今のところは……今、機体チェックを……」
あいまいな返答をしつつフレミングは、自機の
「
「フレミー、一体……?」
異常は右主翼前縁フラップで発生していた。通常この主翼前縁フラップは、パイロットの操作では動作しない。しかしAMF-75Aには
「キルヒー、何か、右翼の前縁フラップに異常があるみたいなの……」
「それって、先ほどの
親友の当然の疑問と同じことをフレミングも想像しているが、今は原因を追求してもしかたないであろう。
「うん……分からないけど……」
あいまいな返答を繰り返すフレミングに、
「それでフレミーちゃん、帰れそうなの?」
言外に緊急脱出の可能性も滲ませるお姉ちゃんの質問に、みんなに心配をさせまいと考えたフレミングが気丈に応える。
「はい、今、
「えぇ~、フレミングちゃん、
カナード付前進翼を持つAMF-75Aの特性はピーキーである、と評判であった。ややもすれば容易にロールしてしまうような機体が安定して着陸できるのは、姿勢制御装置と連動した
「うん、多分……」
着陸だって水平飛行と一緒でしょ、などと簡単に考えている訳ではもちろんない。しかし、降着直前に
「こやっさんにロックを外してもらえれば……」
過去の事故事例を踏まえたバーラタ航空宇宙軍では、一定高度以下においてはパイロットが任意に
「そっかぁ。でもフレミングちゃんなら案外、簡単にできそうだよね」
そう言うケプラーとて、それがいかに危険なことであるか理解していない訳ではない。ただ、前縁フラップの異常であればその選択もやむを得ず、そうであればことさら不安を言い立てるより、パイロットの気を少しでも楽にしてあげる方がよい、と判断しているだけなのだ。
「ありがと、ケプラー……」
フレミングが言い終わらない前にまた、機体がふらつく。
「フレミー、
どうにか機体の安定を取り戻したフレミングが親友の問いに答える。今頃ゆるふわ
「うん、外してるけど……」
異常は電気系統で起こっているのか、それとも機械系統であろうか。被弾箇所から考えてコンピュータでは無いと思われるが、制御回路の配線が機体のどこかでショートしたか、あるいは気流の乱れによって機械的にフラップが勝手に動いてしまうのか。これが例えばモーターのリミッタ異常などであれば一定の間隔で規則的に作動するはずであるから対処もし易いが、不幸なことに事象はランダムなタイミングで発生しているようである。「私は中隊長なんだから……」と自問したフレミングは、意を決して発令する。これは楽しい遠足からの帰り道ではない。心身を限界まで追い込む
「パパン少尉、中隊の指揮権限を貴官に移譲します。以降、小官に替わり中隊を率いて先にベンガヴァルに帰投してください」
「おぃ、中隊長、アタシは……」
少し離れた位置から後続するパパン小隊からはフレミング機の細かい様子は分からないが、小隊の編隊が
「パパン少尉、これは命令です」
「ちっ、仕方ねぇ……中隊はアタシが預かるから、中隊長、無事で帰ってこいよ」
そう言ってバンクを振ったあと、パパン小隊は増速してフレミング小隊の前に出る。その右後方にガリレイ小隊がつくのを見たフレミングは、次にトリチェリ先輩に対して発令する。
「トリチェリ少尉、小隊の指揮権限を貴官に移譲します」
「分かったわ。フレミーちゃん、必ず帰ってきてね」
「フレミングちゃん、待ってるからね」
「ありがと、2人とも。トリチェリ先輩、よろしくお願いします」
「ワタクシは残りますわ」
キルヒーが側にいてくれるのは心強い。そう思ったフレミングは、親友にだけは甘えることにした。
「少し高度をあげるけど、キルヒーは
高度を上げておけば、万一機体が制御不能に陥ったとしても、回復までの余裕が長くなる。キルヒーの機体には燃料面で無理をさせることになるので
ベンガヴァルまで150kmの地点に到達するが、最初に不安定な動作を見せてから100kmほど飛行する間に、キャンディーマルーンの機体は既に10数回のフラップ異常作動を繰り返していた。その度に
「お嬢。お嬢はもう充分頑張りました。もう機体を放棄してください」
D-12
「お嬢、お願いですから、もう……」
こやっさんの悲痛な願いを、しかしそのヒメは受け容れない。
「こやっさん、私なら大丈夫。必ずこの子を帰してあげるから」
そう言いながら、また不安定な機動に対応するフレミングである。どうやらフラップの異常作動は、その発生頻度が少しづつ高まっているらしい。異常作動が更にその異常を助長させているのであろうか。
「ほら、また。お嬢、どんどん発生間隔が短くなっているじゃないですか。そんなんじゃベンガヴァルまで保ちませんよ」
こやっさんは真面目なのよね……とフレミングは思う。こういう時は、パイロットを元気づけるのが機付長の仕事でしょ。「ベンガヴァルまで保たない」なんて、そんな
「大丈夫よ、こやっさん。私、だんだん慣れてきたんだから、コレに。今ならきっと、コブラだって出来るわよ!」
無論冗句のつもりであるが、言われた本人は相当肝を冷やしたらしい。
「お嬢、そんな無茶な……絶対やめてくださいよ」
「分かってるわよ、こやっさん。冗談よ、冗談。それより、そっちで何か原因は分かった?」
機体の状態は全てモニタできているはずである。それなら機上の
「お嬢、申し訳ありません。こちらでも、異常発生としか……」
無論、こやっさんの所為ではない。
「そう……何か分かったら教えてちょうだい」
「はい、お嬢。いぇ、そうではなくて、お嬢。残念ですが、その機体はもう……だから、お嬢だけでも無事に帰ってきてください」
「いやよ!」
機付長補の、恐らくは正しい判断に基づく正論を、
「ですが、お嬢」
尚も食い下がるこやっさんに、こんな時おやっさんなら何て言うんだろう、と想像したフレミングが言い返す。
「この子は私の子だけど、私だけの子じゃないわ! この子はみんなの子だし……おやっさんの許可なく私が勝手に捨てるなんて、私にはできない」
「おやっさんになら、自分から謝りますから、お嬢。お嬢だけでも無事に帰ってきてください」
この会話の間にも機体は720度ロールをしていた。フレミングは必至の回復操作をしながら、必死に訴える。
「この子はおやっさんの子なの。私が勝手に……」
「フレミー……」
もう既に精神的に一杯一杯なのであろう。ゆるふわ
「ネル隊長、チャンドール准尉……フレミーを……」
「お嬢、ったく何やってやがんだ、さっきっから……」
「おやっさん?」
潤ませた瞳を大きく見開いたフレミングが問う。
「おやっさん、どこにいるの? もう大丈夫なの?」
「あぁ、オレぁ今さっきベンガヴァルに戻った。お嬢、心配かけたようで悪かったな」
おやっさんが、心持ちいつもよりやさしい声音で語り掛ける。
「で、お嬢。まだ飛べるか?」
「うん、もちろん」
力強く頷く分隊長に、機付長が告げる。
「よし。なら、ベンガヴァル南100kmに向かえ」
この世でフレミングが最も信頼する
「ベンガヴァルの南?」
問い返す
「あぁ……そこならちょっとした砂漠地帯だから、機体を落とすのに好都合だろ。お嬢はよく頑張ったが、残念ながら
「えっ、おやっさん。ちょっと待って……無理って、
早口で聞き返すフレミングに、チャンドール准尉は敢えてゆっくり言って聞かせる。
「そのままの意味だ、お嬢。ソイツはもう無理だ。ベンガヴァル上空までは飛べても、着陸なんざぁできねぇ。お嬢だって分かってんだろ、本当は?」
「でも……」
もやもやした気持ちのままで不安定な機体を操縦するのは望ましくないであろう。そのことの分かるチャンドールは、彼の
「お嬢、ひとつ質問だ。例えば人間が事故で腕や足を失って、義手や義足をつけたとするだろ?」
「うん」
突然の問いに、何が言いたいのか分からず素直に頷く赤髪に、おやっさんが問いを続ける。
「で、生まれながらの体を失った人間は、もはやその元の人間ではない、とお嬢は思うか?」
「うぅん、そんなことない。その人はその人よ」
「あぁ、そうだな。で例えば、電池で動く心臓や機械の肺を埋め込んだら、機械の
「うぅん、そんなことはないわ。例え機械の部品が埋め込まれても、その人はその人よ」
「それでな、戦闘機ってのはまぁ一応、設計飛行時間が12,000時間くらいに設定されている。要は寿命って奴だな」
「うん」
先の問いの意を説明するでもなく、次の話題に移るおやっさんに、フレミングは大人しくついていく。
「でもな、ソイツらは寿命までの間、生まれた時のままなんてことはあり得ねぇ。いやむしろ、12,000時間後には、ほぼ全ての部品が新品と入れ替わってるってのが普通だ。エンジンも、主翼も、コンピュータでさえも、な」
だんだん様子が分かってきたフレミングではあるが、しかし今は黙っている。
「で聞くが、お嬢の機体は既にあちこち
「うぅん、例え
この問いには明瞭に返事をすることができたフレミングは、しかしおやっさんの次の問いには答えあぐねることになる。
「そうか……じゃぁ聞くが、ソイツがソイツでいられるための要素、お嬢が『この子』って呼ぶ機体の個体を象徴しているものは何だ?」
エンジンでも翼でもコンピュータでもない。スティックでもスロットルでもラダーペダルでもないだろう。あるいはデータやメモリか。人間であればその答は『魂』とでも言えばよいのであろうか。それなら、
「チャンドール、この緊急事態に哲学問答なんて、どうかしてますよ」
横からネル隊長が口を挟む。ふと我に返ったフレミングに、おやっさんが続けた。
「いいか、お嬢。ソイツの魂は、お嬢の中にある。だから、今ココで、お嬢がソイツを落としても、お嬢のソイツへの想いが消えるわけじゃねぇ」
「でも……」
そうは言ってもチャンドールは嬉しいのだ。自分が整備する機体にここまで愛着を持ってくれるパイロットと仕事ができることが。しかし、今はその愛着が、パイロット自身を危地に陥れようとしている。
「お嬢。それでも足りなきゃ、後で教えろ。お嬢の考える、ソイツがソイツであるための証を。そしたらオレが拾ってきてやるよ。エンジンでも翼でもコンピュータでも、オレが直して載せ替えてやる。ソイツを生き返らせてやる。だから今は砂漠に落とせ。そしたら後は、オレが何とかしてやるから」
最後の方は懇願するようなおやっさんの口調である。フレミングにはようやく、おやっさんが何故砂漠を指定したのか理解が至った。しかし、それでも納得できないフレミングを最後に説得したのは、おやっさんの次の一言であった。
「お嬢はオレに言ったろ。絶対に死なない、って。頼むから、無事に帰ってこい。オレはもう……」
「キルヒー、進路160に変更」
指定された砂漠地点に向かうことを決意したフレミングが進路を東南に変更する。残った2発の短距離空対空ミサイルを自爆モードで射出し、同時に燃料タンクから燃料の放出を始める。放棄した機体が地上に激突する際、ミサイルや燃料が残っていなければ誘爆等も起きにくいであろう。あとでおやさんに部品の回収を依頼しようと思っている訳ではない-何しろ今は戦時中なのだ-が、せめて安らかに眠らせてあげたい、とは思うフレミングである。高度を徐々に下げつつ、フレミングは緊急脱出の手順を再度確認する。シミュレータでは何度か訓練を行ってはいるが、無論、実際に行うのは初めてのことである。AMF-75Aには2通りの緊急脱出手順が用意されていた。ひとつは足元にある緊急脱出レバーを引くことであり、もうひとつは
「短い間だったけど、楽しかったわ」
思えばこの子と初めて会ったのは、去年の10月のことであった。その翌日、キャンディーマルーンに塗装されたAMF-75Aが、同期生の他の誰の乗機よりも美しく輝いていたその光景を、フレミングは今でも鮮明に思い出せる。1年も経たないうちにお別れすることになってしまったが、この子と飛べて楽しかった……
「一緒に飛んでくれて、私を乗せてくれてありがと。私、絶対忘れないから」
そう言って、機体を撫でてあげる替わりに最後のスローロールをさせた後、愛機に静かに語り掛ける。
「
AMF-75Aの緊急脱出装置は、他の戦闘機のように射出シートを
これら過酷な自然環境からパイロットを保護し、戦場で取得したデータを無事持ち帰るために考案されたのが、コクピットブロックの分離方式であった。砂漠地帯の50℃を超える高温や山岳地帯の氷点下を下回る低温、あるいは大型肉食海洋生物や湿地帯に生息する有毒生物等から、コックピットブロックはパイロットを保護する
最後の命令を受領したキャンディーマルーンのAMF-75Aは背面飛行に移った後、その主を愛おしむように、フレミングを乗せたコクピットブロックを機体から優しくパージした。無事分離したコクピットブロックは機首方面を上に-パイロットの背中を下に-して、パラシュートを展開して降下を開始した。と同時に左右両脇から空力フィンが展開する。この空力フィンは、パイロットのスティック操作に連動してコクピットブロックがロールするよう回転させるためのものである。フレミングはスティックを操作して、放棄した愛機を
「今まで、本当にありがと……」
最後まで、フレミングは愛機に「ごめんね」とは言わなかった。随分と無茶な
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