第1話 事故と謎の扉

 一条要いちじょうかなめはどこにでもいる、ごく普通の男子高校生だった。


 特別何かに秀でているわけでもなく、すべてにおいて中の上程度、可もなく不可もなく、家庭環境も本当に普通だった。強いてあげれば、運動神経だけは周りより少しだけ良かったということくらいか。


 それは初夏のこと、高校生活二度目の夏服への衣替えの季節。

 放課後、帰宅部の要は友人たちと別れると、まだ強い日差しの中を一人歩いていた。


「最近暑くなってきたなぁ……」


 瞼の上に手をかざし、空を仰ぐ。雲一つない快晴だ。今日はほとんど風がないせいで、いつもよりもさらに暑く感じる。

 第一ボタンを外した半袖の白いワイシャツ。その上から緩く締めていたネクタイをさらに緩める。

 少し遠くで不良たちがたむろしているのが視界に入るが、要は眉をひそめるとすぐに目を逸らした。


(……ああいう人種って苦手なんだよ。すぐに喧嘩しようとするし。どうしてもっと話し合いとかで平和的に解決しようとしないかな)


 要は小学生の時、一度だけ友人と殴り合いの大喧嘩をしたことがある。幸いなことにその友人とはすぐに仲直りすることができたし、身体についた傷は軽かったのですぐに治ったが、大事な友人を傷つけてしまったという心の傷はなかなか治らなかった。いや、おそらく今も治ってはいないだろう。いわゆるトラウマというやつだ。


 それ以来すっかり平和主義者になり、争いごととはほぼ無縁に生きてきた。もちろん反抗期なんてものもほとんどなく、今現在、家族との関係も良好だ。


 不良たちを避けるようにして足早に脇道に入ると、鞄の中に入っていたスマホが着信を知らせてきた。すぐに鞄から取り出して内容を確認する。


『帰りに牛乳買ってきて』


 母親からのメールだった。


(わ、か、った……と)


 歩きながら片手で返信していると、信号のある大通りに出た。ちらりと視線だけを上げて歩行者側の信号が青なのを確認する。

 そのまま信号を渡り始めた時だった。


「危ない!」


 少し離れたところから男の声がした。


 次の瞬間、要は何事だろうと振り返る間もなく、身体が大きな衝撃を受けてそのまま撥ね飛ばされた。頭の中が真っ白になる。

 痛いどころか、怖いと思う暇すらなかった。


 そしてどれだけの時が経っただろう。目を開けてみて初めて、自分がトラックに撥ねられたのだということを理解した。だが不思議とどこも痛くはない。


「おれは全然平気で――」


 自分は大丈夫だ、とトラックに向けて手を挙げようとした時だった。


「――っ!?」


 要は自分の目を疑った。


 挙げかけた手が透き通っている。慌てて周りを見やると、すぐ近くに倒れている自分の姿と、トラックから降りて駆け寄ってくる男性運転手の姿が目に入った。他にもスマホでどこかに電話をかけようとしている男性や、両手で口を覆ったまま立ちすくんでいる女性もいる。持っていたはずの鞄からは教科書やノートが派手に散らばり、スマホは見当たらなかった。


(これは絶対にヤバい!)


 直感だった。だが、自分の身体に戻ろうと手を伸ばしてもそのまますり抜けるだけ。このままでいると間違いなく最悪の事態になる、そう思った。


「どうにかしないと……!」


 何とかして身体に戻る方法はないかと、きょろきょろ辺りを見回していた時だった。



『――――見つけた』



 頭上から微かにだが声がした。凛として澄んだ少女の声。


 要が思わず声のした方へと顔を向けると、真っ白な両開きの扉が宙に浮いていた。いかにも不自然で怪しいそれは、某アニメに出てくるどこでもドアと同じように、本当に扉だけだった。


 今の透明な身体が自由に動くのをその場で確認すると、平泳ぎでもするかのように頭上にある扉の前まで移動してみる。

 豪華な飾りなどは一切ない、どこにでもあるようなシンプルなものだ。


 その扉を前に、要は思考を巡らせる。


「もしかして天国への扉とか? いや、そう見せかけて元の身体に戻るためのもの……? いやいや、地獄行きの可能性もあるよな。あぁ、でももっと違うものかも……」


 しかし、頭を抱えながらあれこれ悩んでみたところでどうにかなるものでもない。結局、今の自分には扉を開けることでしか活路を見出せないという結論に行きついた要は、思い切って扉を開けてみることにした。


 ごくりと喉を鳴らし、そっと右手を扉に近づける。


「一か八か……!」


 もう一度喉を鳴らし取っ手に触れた瞬間、プツリと一瞬だけ意識が途切れた。いや、途切れたというよりも、それはまるで電話の回線が繋がった時のような感覚だった。


 そして次に目の前に広がっていたのは真っ白な空間。そこで要は呆然と一人立ち尽くしていた。どこもかしこも真っ白で、足元に床があるのかどうかもわからない。目の前にあったはずの扉はいつの間にか消えていた。


「何だ、ここ……」


 どこを見渡しても白、白、白。撥ねられた時と同じように、また頭の中が白くなっただけなのかと思わず泣きそうになる。


 もしかしたら、扉を開けようとするのはやめた方がよかったのかもしれない。今更後悔しても始まらないが、後悔だってしたくなる。次に目覚めた時には死んでいるのかもしれないと考えた。いや、もう目覚めることすらないのかもしれないが。


「あれ……?」


 ふと気が遠くなり始めた。急に全身から力が抜けて、そのまま膝からゆっくりと崩れ落ちていく。


(ああ、やっぱりこのまま死ぬのかな……)


 静かに消えゆく意識の中、遠くから小さな女の子の泣き声が聞こえたような気がした。




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