救国のカナメ

市瀬瑛理

プロローグ

 ランプの明かりだけが灯った薄暗い室内では、静かに本をめくる音だけが響いている。

 しばらくして本を読んでいた手を止めると、若い王は何気なく窓を見やった。


「今夜は満月だったか」


 呟いて、また本に視線を落とすとそのままゆっくり閉じる。


「そろそろ寝ないといけないな。でないと朝、またたたき起こされてしまう」


 小さく笑いながら手元のランプを消し、立ち上がった時だった。

 冷たい風が頬を撫でる感覚。


「誰だ!」


 何者かの気配に気付き、振り向きざま先程見た窓に向かって怒鳴りつけた。


「こんばんは、国王陛下」


 閉まっていたはずの窓がいつの間にか開いていて、そこからの侵入者が窓枠で片膝を抱えて座っている。月を背にしているせいで顔はよく見えない。


 侵入者は王の声に怯むことなく、愉快そうに続けた。


「それとも、初めましての方がよかったかな?」

「誰だ、と聞いている」


 今度は静かに問い、机の横に立てかけてあった剣を取ろうとする。顔はわからないが、声で自分と同じ、いやもっと若い青年だと推測した。


「僕が誰かなんて、今はどうでもいいんだよ。それより、取引をしないかい?」

「取引?」


 王は怪訝そうに眉根を寄せた。右手の指先は剣の柄に触れたままだ。


「そう。僕は君がとても可愛がっている、ある人間の秘密を知ってるんだ」


(秘密だと……?)


 王にはひとつだけ心当たりがあった。だが、それを知る者は自分と本人を除けばあと一人だけのはずだ。そして、その一人はこの青年ではない。


「一体何を知っている」

「――――ある村での事件について」


 これまでのおどけたような青年の口調が一変する。低い声で呟かれた言葉に王は息を呑んだ。次の瞬間、様々な考えが頭の中をよぎっていく。

 その人間の秘密が外に漏れれば、きっと国内は大きく混乱するだろう。そして、それを収めるためにはその人間を国外追放、いや、最悪自分が王として処刑することになるのかもしれないのだと。


 だから、これまで決して誰にも話しはしなかった。それが本人との約束だったせいもあるが、もちろんこれからも話すつもりは毛頭ない。それが国のため、そしてその人間のためだと信じている。


「何が望みだ」


 できるだけ平静を装いながら口を開いた。


「おとなしく僕と一緒に来て欲しいんだ。ただ、それだけでいい」


 青年の笑う気配がした。一体何が目的なのか、いまだに青年の真意は見えてこないが、そう簡単に頷く訳にはいかない。


「……断る、と言ったら?」

「その時は秘密を大陸の皆に広めるよ。まだ君は疑ってるみたいだから、まずはこの国で試してみようか? ああ、でもそうするとあっという間に他の国にも広まっちゃうかもね。人間は噂話とか、そういう類の話が大好きだから」


 そう言うと、青年はまたおどけたように大袈裟な仕草で両腕を広げて見せた。


「お前は何者だ!」


 王は声を荒げながら剣を取ると、鞘から一気に抜き放つ。刀身は月の光を反射し、青年の口元をわずかに照らした。

 不遜な笑みを浮かべたその顔に向けて、頭上から思い切り斬りつける。


「何っ!?」


 確かに斬りつけたはずだった。だが手応えはなく、剣はただ空しく宙を斬っただけ。青年は一瞬でその場から掻き消えたのだ。そして、気付いた時にはもう遅かった。

 いつの間にか王の背後に回っていた青年が、喉元にナイフを突き付けている。


「交渉決裂ってやつかな?」


 ふふ、とさも可笑しそうに笑う青年。王がちらりと視線だけを動かすと、ほんの一瞬だけ目が合う。真っ赤に燃える炎のような瞳だった。


 こいつは只者ではない、そう自分の直感が告げていた。それは、これまでの歴戦の中で培ってきたものだ。今は平和になっているとは言え、そう簡単に衰えるものではない。

 まさかこうも簡単に背後を取られるとは思いもしなかった。もちろん、油断なんてものもなかったはずだ。


(こんな奴の言うことを聞けというのか……?)


 王は逡巡した。


 しかし剣では斬るどころか、傷を付けることすらできなかった。そしてこの絶対的不利な状況を打開する術は、今の自分には見つからない。


「さあ、どうする?」


 青年が低い声で楽しそうに問う。


「――――っ」


 右手に握られていた剣がするりと抜け落ちて、乾いた音を立てる。


 天を仰ぎ、目を閉じた王は悔しそうに唇を噛んだ。一陣の風が部屋に吹き込み、頬をひやりと撫でる。


 ――――そして、一人の王は姿を消した。




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