第5話 恨魔との戦い
無理は禁物だよという言葉を言い残し、一ノ瀬市子はバー夜汽車をでていった。
「そろそろ、あの恨魔をやり過ごせたようだな」
軍帽をかぶりなおし、
まったくもって絵になる横顔を見つめながら、仁はうなずいた。
「そうですか、もう行かれるのですね」
ハスキーな声でバーの主である麗しのマダムは言った。
そっと仁の手を握る。
冷たく、しわのある指だったがマダムに手を握られるとどこか心が休まるような気がした。
「ご武運を……」
そう言い、次に愛の手も握る。
「また来てくださいね」
愛にはそう言った。
マダムは二人の無事を祈る。
仁と愛はそろってはいと答えた。
「それじゃあ、
愛は言った。
仁はうなずき、答える。
そっと目をつむった。
次にまぶたをあけるともとの道路に出ていた。
腕時計を見ると三十分は過ぎていた。
あの幻想世界でそれだけの時間をすごしたということだろう。
仁は軽い頭痛を覚えた。
愛の話ではそれは幻想世界を構築したあとの後遺症のようなものだということだ。幻想世界は死神、厳密には候補生の愛が集めたエネルギーを仁が想像力で別世界に設計したものだ。その設計にさいして仁の体にもなんらかの負荷がかかるというのだ。
その世界が精密であればあるほど脳への負荷は大きくなるという。
あのバーの精密な設計はそれだけ仁の体に少なからず、ダメージをあたえたようだ。しかもその世界に想像上の人物までつくりだした。
それは実はかなり高度な技術だと愛は語る。
しかもその人物が独自の性格や思考を持つなど、そのようなことは通常ではありえないことだとも愛は言った。
それを初めてでやってのけたのだから、あの一ノ瀬管理官も掛け値なしに誉めていたようだ。
仁は偏頭痛の残る体をやや引きずりながら、自宅マンションに帰った。
買ってきた惣菜とパックのご飯をレンジで温めて、それを夕飯にした。
愛はスーパーで割引になったマグロの刺身を晩御飯として食べた。
久々の人間界の飯はうまいと愛は言った。
人間界にもどると彼は猫の姿に戻っていたのだ。
もとの人間の姿は今のところ幻想世界限定だと愛は言った。
「今日のところはもう休もう。
と愛は言った。
仁は愛の言葉に従い、熱いシャワーを浴びてベッドにもぐりこんだ。
白猫の仁もあくびをし、ごそごそと布団の中にはいる。
二人はすぐに寝息をたて、寝てしまった。
翌日になり、あの偏頭痛はすっかり収まっていた。
仁は朝食にトーストと目玉焼き、それにインスタントコーヒーを淹れ、テーブルに用意した。愛にはバターをぬったパンが食べたいというのでそれと小さな皿にミルクをいれた。
白猫の愛はうまそうにトーストをかじる。
「猫の体でトーストなんか食べて大丈夫なの」
と仁は訊いた。
「ああ、大丈夫だよ。この体は死神用の特別製だからね」
そう言い、愛はぺろりと自分の唇についたバターをなめた。
昨日の恨魔は今日の夕刻に倒しにいこうと愛は言った。
仁もその言葉に従うことにした。
愛の説明では恨魔は夜に出現することがおおいのだという。
古来より闇にたいする人間の恐怖心が恨魔を発生させる原因であり、その力を発揮しやすくなるのも闇が訪れる夜であるとのことだった。
「わかったよ。じゃあ、仕事が終わったら一度家にかえって、あの恨魔を倒しにいこう。そうすれば愛は一人前の死神になって現実世界にとどまれるのだろう」
仁は言った。
「ああ、そうだよ。僕は君の部屋でアニメでも見てまってるよ。そうそう、トイレの扉は開けといてね。この体じゃあ、ドアは開けにくいんだ」
愛は仁に言った。
「わかったよ」
そう言い、仁は仕事に向かった。
夕刻になり、仁は帰宅した。
「やあ、お帰り仁」
うーんと背伸びし、愛は言った。
「うん、ただいま」
仁は答えた。
すっかり猫と話すことに馴れてしまった仁であった。
仁はデニムにトレーナー、その上に厚めの生地のパーカーを羽織った。白猫の愛は仁の右肩に飛び乗る。
「さあ、行こうか」
愛は言う。
「ああ」
仁は短く答える。
あの薄暗い道路に仁と愛は再びやってきた。
あの黒いもやの
彼らが道路にやってきてすぐ、街灯がちかちかとついたり消えたりしだした。
「やっこさん、たった一日で現実世界に作用するまでになったか」
そう言い、愛の白い毛が逆立ってきた。
「どうやら近づいてきているよ」
愛は仁の耳元でそうささやいた。
「寒いよ…… 寒いよ…… パパ…… ママ…… どこ……」
それはあの恨魔の幼児の声であった。
その声はだんだんとこちらに近づいてくる。
仁はごくりと生唾を飲んだ。
やはり恨魔恐ろしい存在であるのを再認識させられた。
この恨魔の言葉からさっするにどうやら両親を探しているようだ。
なぜ、幼児の声で両親を探しているのか。
仁には見当がつかなかった。
おそらく子供、それもかなり幼い子供の霊がその恨魔のもととなったのであろうと仁は推測した。
「寒いよ…… 寒いよ……」
その声がついにはっきりと聞こえ、姿が明確に確認できるようになった。
あの黒いもやは昨日よりも確実に大きくなっている。
むきだしの充血した瞳でこちらを見ている。
歯並びの悪い口からはよだれをだらだらと流している。
体の中央にあった種がわれかけ、何かの植物が発芽しようとしている。
手だけは幼児の姿のままで、あかぎれだらけ、それはもはや凍傷のレベルのものがこちらにむけられている。
小さな手で仁たちを掴もうとしているようだ。
「仁、いいね。
愛は仁に言う。
「わかったよ。僕は昨日みたいに想像すればいいんだね」
仁は答える。
「ああ、そうだよ。じゃあ、いくよ。
愛は叫んだ。
仁はその声と同時に目をつむり、想像し、創造する。
次に目を開けたとき、仁たちはある神社の境内にいた。
赤い鳥居が見える。
その奥に古い神社がたっていた。
その神社の名は辰巳神社という。
黒崎仁が創作した「鬼が啼く刻」で最終決戦が行われた場所がこの神社だ。
仁の物語ではこの辰巳神社で北一輝ひきいる人形たちと主人公の渡辺司は国の命運をかけて死闘をくりひろげるのである。
ずきんとひとつ痛みが仁の頭をはしる。
彼の前にはあの黒いもやの恨魔がいた。
たがいちがいの目で周囲を見ている。
どうやら困惑しているようだ。
「さあ、戦いの始まりだ」
そう言い、仁の前にあらわれたのは黒い軍服を着た白神愛であった。
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