第19話
橘一季は首をひねった。
(この匂いは・・・誰?)
と彼女は思った。
車の中にはタクシーの運転手と弟のたかししかいなかった。一季はバックミラーを見た。
「・・・」
一季には今の心の状態をはっきりと言葉に出来なかった。タクシー運転手の眼とあった。ただ、優しい運転手さんだという印象があった。でも、何かが気になったが、それが何なのか判らなかった。あの匂いはまだ微かに漂っていたが、彼女に何かの記憶を呼び戻し、もやもやとした気持ちを目覚めさせるものではなかった。
県の北総合医療センターのロータリーに着くと、母英子が出迎えに来ていた。雨は出迎えの車やバスを待つ庇にある長椅子の所まで湿気込んでいた。
「早くおいで。中に入ろう」
英子は傘をの体を覆うようにかざしていた。庇の中まで風はそんなに強く吹き込んではいなかった。
「たかし!」
一季はたかしの手を握り、病院のロビーまで走った。降りる時、運転手が気になって振り返ったが、その時にはもう車はいなくなっていた。瞬間真っ暗な雲の中に無数の色の塊りが光り、美しく光ったのが見えた。
「あれ・・・」
と一季はいったが、後は黙ってしまった。空を飛んでいた七色に輝いた宇宙船のようなものにも似ていた。この時、強烈なあの匂いが、彼女の鼻に突き上げて来た。が、すぐに消えてしまった。
「一季。何をやっているんだい。早く、中に入ろう」
英子の声が掛かった。
「うん」
一季はたかしの手をまた強く握った。
病院のロビーの中に飛び込むと、しっとりとした感じがした。
「大丈夫かい。ずいぶん濡れたね」
英子は持っていたハンカチでたかしの頭を拭いた。少し拭くと、たかしは頭を振り、いやがった。
一季は病院独特の落ち着きのない雰囲気が嫌だったので、病院のロビーの中を見回した。病室にいても不安なのか、七八人の入院患者がロビーの椅子に座り外の様子を眺めていた。
ロビーの周りのガラスに雨が吹き付けていた。一季は家を出る時に気になっていたことを思い出した。
「ミャー・・・ミャーだ。ミャーのことを忘れていたんだ」
一季は叫び声を上げた。彼女にとってというより、ミャーは橘の家の家族も同然だった。そのミャーの存在を忘れるなんて・・・彼女は、
「今から家に行って、ミャーを連れて来る」
といって、走り出したが、
「馬鹿なことを言うんじゃない」
英子は娘の体を抱き止めた。
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