第18話
男の人がいった、明日また会いましょうという言葉が気になった。
橘一季が家に着いた時には、彼女の服はびしょ濡れだった。
一季は玄関で一度立ち止まり、大きく深呼吸をした。そして、よし、と自分に気合入れた後、彼女は戸を叩き、たかし、と大声で叫んだ。ガラスに黒い影が映っている。たかしか?ちょっと不安が彼女の脳裏をよぎるが、この家には、たかししかいない。
すぐに戸は開いた。一季が帰るのを玄関に座り、ずっと待っていたようだった。
「お姉ちゃん」
たかしの声は涙声だった。それでも泣かなかったのは、泣いても、どうしようもないことを、自分なりによく分かっていたのかもしれない。彼女はたかしを抱き締めようとおもったが、気恥ずかしくなったから、止めた。
「たかし。行こう、病院へ」
一季はすぐにタクシーを呼んだ。こんな時だから、すぐには来ないかもしれないと覚悟したが、幸いに近くに空車がいるらしい。良かったと一季はほっとした。彼女はタクシーが来るまでの間に、服を着替えた。
「たかし。何も持っていかなくていいから。車が来たら、すぐに行くよ。いいね」
家全部が強い風でガタガタと震えていて、今にも崩れてしまいそうな怖さがあった。これは、どうしようもない自然の力だった。一季はそれくらいのことは知っていた。電車の乗っている時はあの男の人にばかり気を取られていたから、それほど心に留めなかったけれど、今冷静になると、鈴鹿川の水位がとてつもなく上がっていて、堤防から水が溢れそうに見えたのを思い出した。
車のクラクションが鳴った。タクシーだ。一季は、来たよ、と一言いった。
「たかし。行こう」
一季はたかしの手を握り、外に出た。いきなり風が吹き付けて来て、飛ばされそうになった。たかしも倒れそうになる。彼女は弟の手をギュッと握り締めた。
「大丈夫」
一季はたかしの手を強く引っ張った。タクシーが家の前に止まっている。目を細め、よく見ると、車の中から運転手が手招きしているのが見えた。
「たかし。走るよ」
その時、彼女は急に立ち止った。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
たかしが聞いて来た。
「うん・・・」
一季は何かを忘れているような気がした。しかし、迫って来る台風に気を取られているのか、その何かが思い出せなかった。何だろう?
一季は傘を持って家を出たが、強すぎる風のために傘をさせる状態ではなかった。しかも向かい風のため、息が出来ない。雨が痛い。着替えた服がまた濡れている。仕方がない。たかしを見ると、懸命に走っているが苦しそうに見えた。
「たかし。顔を下げな。そうすると、少しは楽だよ」
たかしの返事はない。でも、一季の言う通りたかしは顔を下げて、走った。彼女は言葉に出来ない嬉しさを感じた。
「これで、拭いて」
といって、タクシーの運転手がタオルを二枚渡してくれた。
「有難う」
一季は、タクシーの運転手が都合よく二枚のタオルを持っているのが分からなかった。彼女は運転手の顔を見た。すぐに目を逸らしたが、ふっと思い出したようにバックミラーを見た。何処かで一度会ったことがあるような人だったが、よく思い出せなかった。
病院に着く頃には、台風の影響で雨と風は自由気ままに暴れまくっていた。彼女が気になっていたのは、雨の降り方がすごかったことである。鈴鹿川の水位がかなり上がっていたのを目にしたこともあったからかも知れない。病院に着くまでに道路に水があふれている場所が所々あった。それも、半端な水の溢れ方ではなかった。
「大丈夫ですよ」
タクシーの運転手が声を掛けて来た。
「こんなすごい台風になるとは思っていなかった。明日、体育祭なのに。どうして私、はしゃいでいたのかな?」
怯えているのか、しがみついて来るたかしを、一季は抱き、ちょっと長い独り言をいった。この時、彼女の鼻をツンと心地よい匂いが突いて来た。
(何?誰?)
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