第17話
橘一季は電車のドアが閉まる直前に飛び込んで来た男の人から目を逸らさなかった。違う言い方をするなら、逸らせられなかったのである。台風が近づいて来ているから、誰もが早く家路についたようだった。そのせいもあってか、電車の中は結構混んでいた。一季とその男はドアの入り口に立っていた。
(この人・・・)
一季は弘美に似ているように見えた。この所、彼女は弘美には会っていなかった。それに、ずっと気になっていたあの老人にも似ているような気がした。そして、
(なぜ・・・?)
それは・・・彼女の鼻に心地よく入り込んできた匂いにはっきりと覚えがあった。これまで考えもしなかったことだが、弘美とすれ違うと時々感じていた匂いと、彼女の鼻の奥にこびりついていたあの老人の匂いが合致した・・・と彼女はそう確信してしまった。そして、この男の人?
でも・・・この男の人は、老人には見えない。彼女の記憶に残っている老人の年齢とはかなり違って見えた。それに、広根に似てはいたのだが、どことなくその姿に違和感があった。
電車はガタッと音を立て、動き出した。体が大きく揺れたが、電車はすぐにスムーズな動きを取り戻した。どんなに電車の性能が良くなっても、最後はやはり運転手の運転技術だと、電車が変な揺れをして動いたり、きちっと停止板で止まらなかったりする度、彼女は思うのだった。
(話してみたい・・・)
でも、夕子には話し掛ける勇気はなかった。何処の誰とも分からない男の人なのである。電車の窓に吹き付けて来る雨と風はだんだん激しくなって来ていた。台風ははっきりとこっちに向かっているのは間違いなかった。明日の体育祭は中止だろうと思った。小雨決行の範囲内を遥かに超えていた。
明後日になるわね!
一季は緊張しっ放しだったためか、そうかってに結論を出すと、ほっとした気分なった。大体、台風が来ていて、小雨だったら、やるなんて、真面な人間が考えることではないと思っていた。相手が先生だから、何にも言わなかったけど、クラスでそんな意見を出したら、すぐに反発が出て、大騒ぎになっただろう。
でも・・・と一季はまだ不安気な気持ちに包まれていた。今やって来ている台風はちょっとどころか結構大きなやつだった。天気予報でも、注意を呼び掛けていた。今家には、たかしが一人で彼女の帰って来るのを待っているはずだった。
「どうしたのですか?」
一季は話し掛けられた声に、急に我に返った。どうやら心は別の場所に行っていたようだった。
「えっ!はい、大丈夫です」
一季は目をギョロと開けたまま、次の言葉が出て来なかった。話し掛けたいのに話し掛けられないと思っていた男の人から急に話し掛けられたのに驚いてしまった。
「あなたの顔の色が少しだけ青白かったので、失礼かと思ったが声を掛けさせてもらいました」
男の人か軽く頭を下げた後、微笑んだ。男の人は窓の外に目をやり、
「大きい台風ですね」
といった。
「えっ!はい。明日の体育祭は中止になると思います」
一季はいった。
「体育祭?あぁ、残念ですけど、仕方がありませんね。でも」
「でも・・・」
男の人は一季を見つめ、
「あなたには、きっと大切な日となるでしょう」
といった。
一季は首を傾げたままである。
「ははっ。そんな顔をしないでください。あなたには思い出深い一日となります。少し過酷な出来事が起りますが、気丈に振舞ってください」
男の人はまた窓の外に目をやった。そして、夕子はまたあの匂いに気付いた。
間違いなく、この人に匂いだと感じた。
一季はこのまま男の人と一緒に行きたかったが、弟のたかしが心配だった。母の英子は病院で父の所に行っているはずだった。たかしは、まだ幼い。歳の離れている弟だから、余計にその気持ちが強かった。その分、可愛さも大きかった。きっと怖がっているに違いなかった。
「私、ここで降ります」
といって、北楠で降りた。傘は持っていたが、とても傘を広げられる状況ではなかった。
「明日、また会いましょう」
電車のドアが閉まる前に、男の人は一季にこういった。
「えっ、明日?」
電車のドアは閉まった。
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