第11話

橘一季は、その老人の名前を知らない。

 電車の中は押し合うほどの混みようではなかった。その老人は奥に行こうとはせず、閉まったドアに寄り掛かるように立っていた。老人は窓の外を見ていたが、幾分体を一季の方に向けていた。彼女はその老人から目を離さなかった。


 一季が高校に入学前、その年の三月下旬は暖かい日が続いていた。桜もすっかり春だと勘違いしたのか、開花している蕾もいくつか見られた。彼女は水谷雪美と四日市駅前に遊びに来ていた。高校入学の準備は出来ていて、入学式までほとんど何もやることがなかったのである。このまま家に一人でいるのは、退屈でつまらないから、雪美を誘い、あっちこっちとぶらついてばかりいた。

 朝の十一時に四日市駅の西口で待ち合わせた。何処へ行って、何をするという予定なんてなかった。

毎日が退屈だったから、何をやっても楽しかった。主要駅前にあるビルなのに、余り人気のないアピタの五階にある書店で本を手に取り、並んで椅子に座ったまま、本は読まない。あれこれと話すだけである。それだけで、一時間や二時間過ぎてしまう。

ほとんど駅近辺から遠く離れることはなかった。駅の西口を降りると、博物館があった。そして、もう少し足を延ばすと文化会館がある。しかし、その日は、そういう場所にはいかなかった。そんな時間はなかった。あっという間に、太陽は隠れてしまった感じの一日だった。

なかなか家に帰るのが億劫になり、駅と連なっている近鉄百貨店の二階のエレベーターの近くにある休憩場所の椅子に座り、すっかり暮れた外の様子を眺めていた。でも、雪美が、

「そろそろ帰らなくっちゃ。うちのお父さん、厳しいんだ。というより、たまにうるさくかんじるんだけど」

と言い出した。そのことは、夕子も承知していた。

一季は、うちのお父さんもと言おうとしたが、彼女の家ではそんなにうるさくはなかった。というより、父にはその気力・・・危険な年頃の娘を理屈なしで縛る気力がなかった。病気がかなり進行していたようだった。忠自身、そのことを良く知っていた。自分の病気の正確な名前は知らなかったが、今体がどのような状態なのか、いちいち医者に説明してもらわなくても、忠にはよく分っているようだった。

「私も、帰る」

と言って、立ち上がった時、一季はすっとんきょうな声を上げた。

「見て。あれ、何?きれい・・・」

一季は手で薄明るい空を指した。

「えっ、何?」

帰りかけた雪美は立ち止り、一季が指差した方を見た。

しかし、

「何?」

と、雪美いった。

「あれ!」

一季が見たものはすぐに消えてしまっていたのである。薄明るい空に、確かに三色に光って何かが飛んでいた。でも、確かに見えたのが嘘みたいに消えてしまった。

「流れ星・・・そんなことはないわね。三色に輝く・・・流れ星なんて聞いてことないね」

雪美は首を傾げている。彼女は一季が嘘を言い、友達をからかう子ではないのを良く知っている。だから、今までずっと友達でいるのである。

一季は笑いたい気分だった。

「どうかしてんのかな?」

目を見合わせると、一季は、ごめんと謝った。それ以上別れるまで言葉を交わさなかった。なんか変な気分だったのである。


三色に光るもの(黄色、赤色、白色)はすぐに消えてしまった。結局、何なのか分からなかった。見慣れないものを見たこともあって、一季は家へ帰りながらも、気になって仕方がなかった。

確かに私は、

「見た」

と何度もいった。でも、すぐに消えた。まるで、私にだけ見せるために現れ、消えてしまったように思えないでもなかった。

鈴鹿川の堤防を歩きながら、あれこれ考えていた。何度も空を眺めては、あっ、とか、あぁ、とか溜息を吐いた。

もうすっかり暗くなっていた。いつもはもっと早く家にかえっているのだが、こんなに遅くなるのは滅多になかった。中学の時は何のクラブにも入っていなかったから、遅くまで学校にいる必要はなかったのである。

家までもう少しという所で、一季は足をぴたりと止めた。鈴鹿川には細い水の流れがあるだけで、川幅のほとんどは新緑の雑草が生えていた。

「あっ・・・」

一季は歩みを止めた。その中から人のようなものが動きながら出て来たのである。犬や猫ではない。その後すぐに、ばたりと倒れたようだった。

一季が家まで帰るまでの間で、そこは、一番神秘的な雰囲気が漂っていた場所だった。今は、そこの雑草だけ、奇妙に大きく生えてしまっていて、その中に迷い込んだら、二度と出て来れない不気味な雰囲気が漂っていた。その日、余計にそう思ったのは、三色に光る変なものを見たからかも知れなかった。

「でも・・・まさか・・・」

一季は言葉を失っていた。確かに、何かがそこから出て来た。そして、すぐに動かなくなり、消えたように、彼女にはそう見えたのだった。

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