第10話

 急行列車に乗り、いつものように並んで座った。二駅目で降りることになる。一季が窓側である。

橘一季は黙っていた。いつもは五郎の方からしゃべって来ることが多かったのに、今日に限っては、しゃべろうとしない。一季には、こんな五郎を見るのは初めてだった。

(どうしたのかな!)

一季が見る限り五郎は哀しそうでもなく、寂しそうでもなかった。でも、何かで悩んでいるように見えないこともなかった。 

(どうしたんだろう?何か、変?)

夕一季は思った。五郎が転校するのはショックだけど、大体、

(私がこれほど考え込む必要はない。でも、よく考えたら・・・)

自分の方もいつもと違っているのに、一季は気付いた。変なのは五郎じゃなくて、自分じゃないの、という思いになってしまう。

 「そろそろ、君ともお別れの時が来ているんだよ。本当だよ」

 五郎はぽつりと言った。相当気落ちしているようだ。五郎は、

「お別れ」

といった。転校と別れは、聞いた夕子にすれば、受け取る印象は全然違った。

「本当・・・」

一季は聞き返した。彼は、

「うん」

頷き、急に寂しそうな顔をした。それは、これまでに彼女が見たことがない五郎だった。

電車は四日市駅に着いた。

一季は電車が止まっても降りようとはしなかった。急行だから、四日市駅から普通列車に乗り換えなければいけない。でも、彼女は降りなければならない。

 「降りないの?」

 五郎の返事はなかった。母と弟たかしが、一季の帰りを待っていなければ、このまま乗って行くだが、今はそうすることが出来ない。

 五郎の返事はない。彼女は仕方なく一人で降りた。この時、彼女はあの匂いに気付いた。

 「これは・・・」

 一季は匂いに誘われるように、振り返った。そこに、彼女の気持ちを楽しくさせてくれる何かがある気がした。しかし、何もなかった。そして、奇妙なことに五郎の姿が消えていた。

 「ごろう?」

 一季はもう一度電車の中に入り、五郎の姿を探したが何処にもいなかった。

「何処へ・・・」

一季は今まで夢を見ていたような変な気分に襲われた。その夢も、ずっと長い間見続けていたような気がした。その夢は怖い夢ではなく、不思議な快さが伴っていた。


 一季は一番ホームに止まっている普通列車に乗った。この時間になると、仕事帰りの人で多くなり、結構混み合っていた。彼女は進行方向から二両目の後ろのドアの近くに乗った。

 まだ夢心地な変な気分が続いていた。あの匂いのせいかもしれない。

 どうしたんだろう?というより、私・・・どうしていたんだろうという気持ちの方が大きかった。

 

橘一季は体の半分で言葉に出来ない不安に襲われ続けていた。

家に着くと弟のたかしがいた。

「お父さん、救急車で行ったよ」

と、ちょっと不安そうな顔をしていた。

「大丈夫だよ」

一季は不安そうなたかしを励ました。そこへ、電話が掛かって来た。母の英子からだった。


父の病気は持ち直したが、入院することになった。

これからしばらく鬱陶しい毎日が、父が退院するまで続くかも知れなかった。一季は明日の体育祭のことも気になっていた。しかし、それらは全部分かっていることだった。

一季を不安にしたのは、五郎が急にいなくなってしまったことだった。それも、突然消えてしまったという不可思議な現象だった。


不可思議といえば、二十分くらい前は、まだ四日市駅のホームにいた。

ホームから西の方を見ると、雲がこっちに列を組んで向かって来ていた。時間的にはもうとっくに太陽は沈んでいる時刻だった。四日市駅のホームは明かりが点いていたが、いつもより暗いためか、明かりが妙に不気味な輝きを放っているように見えた。台風がこっちにやって来るかもしれないのは、空がどす黒い雲の覆われていることからも予想出来た。

列車のドアが閉まりかけた時、一人の老人の人が飛び込んで来た。七十歳くらいの背の高い老人だった。ドアはすぐに開き、男の人が中に入ると、閉まった。


その老人は、彼女の傍に立った。

この時、一季はその老人と眼があった。何処かで会ったことがあるような気がした。何処かすぐには思い出せなかった。

確かに・・・それに、この匂い・・・!

一季は、今思い出した。和泉五郎の存在を知る前・・・この男の人・・・この老人に会ったことがある。

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