第2話 これって、夢の中ですか?
大学2年になると、大学生活にも慣れてバイトする時間を確保できるようになってきた。
空いた時間を使い、自宅アパートから程近いオシャレな喫茶店でバイトをしている。友人からは家庭教師のバイトが稼げると聞いたけど、喫茶店で働いて女の子とイチャイチャしたかったのです!
閑静な住宅地の中にポツンと佇む喫茶店に入れば、異世界に紛れ込んでしまったかのようなアンティーク調の癒しの空間が広がっている。
この喫茶店を経営するのがマスターである。マスターは愛称であるが、誰も本当の名前を知らない。みんなマスターと呼んでいるからマスターなのである。マスターは定年してから念願の喫茶店を開いたらしく、かなりの高齢だ。
だがしかし、マスターが淹れる珈琲はそんじょそこらの珈琲とは次元が違う。すごく香りが良くて、コクと酸味が調和した後味すっきり、あまり珈琲を飲まない自分でさえマスターの珈琲だったら何杯でも飲めそうな感じである。
雇い主であるマスターは優しいし、女性スタッフも綺麗な子が多い素敵な職場なのでした。
夕方になるとお客も少なくなってくるが、店内は半分近くの席が埋まっている。やはりマスターの珈琲中毒者は減らないな……。きっと危ないマスター成分が含まれているんだと思う!
「ぼーっとしてないで先輩は3番テーブル片付けて来てください。私は9番テーブル行ってきますので」
「りょ!」
馬鹿な事を考えていたら可愛い後輩に叱られてしまった。
身長150cmくらいで腰まで届きそうな艶やかな黒髪は美しく、シミ一つない白い肌、そして大きな胸部が魅力的である。幼さと美しさと色気を兼ね備えた完璧なお嬢様ですねっ!!
そんな事を考えながらテーブルの食器を片付け、フキンで綺麗にする。テーブルの隅々まで綺麗にしますよ。この居心地の良い空間を作り上げるのも大事なお仕事なのです。
テーブルを拭いていると、一瞬視界がぼやけた。今日は何故か視界が霞む事が良くある。これで5回目だ。
片付けが終わり定位置のカウンター横に戻ると、既に葉月ちゃんは戻ってきていた。仕事が早い。小柄なのにテキパキと仕事をする姿は可愛らしく、みんなの癒しになっている。間違いない!
「どうしたんですか先輩。ちょっと顔が赤いですよ?」
「葉月ちゃんが可愛くて見惚れてた」
「……ぶっ殺しますよ」
葉月ちゃんはジト目で毒を吐く事が出来るクール女子であった。でもちっちゃい葉月ちゃんに毒を吐かれてもご褒美にしかならない気がする。僕はMなのだろうか?
「なんか今日は視界が霞むことがあるんだよね。疲れてるのかな」
「風邪でも引いたんじゃないですか? どうせエアコン付けっぱなしで寝たんでしょう?」
「エアコンは途中で消したけどマッパで寝てた」
「……さいてーです」
女子高生に冷たい眼差しを向けられ罵って貰うなんてご褒美です。僕はドMなのだろうか?
葉月ちゃんと話していると言語能力が低下してしまう。けど、今日は普段言わないようなことまで言ってしまった。こんなセクハラまがいの事は言ったことないのに。
葉月ちゃんとおしゃべりしているとドキドキするけど、今日は一段とドキドキしている。そして体が熱いのである。風邪引いたかな?
「大丈夫ですか先輩。さっきより辛そうですよ?」
「ほんとにやばいかもしれん。寒気がしてきた」
なんだろう。どんどん体温が上がっている気がする。体がだるい。葉月ちゃんをからかう余裕も無くなってきた。
早退させて貰おうかと考えていたら、僕達の会話を聞いていたマスターが声を掛けてくれた。
「中野さん、体調悪そうだから無理せず上がってください。今日はいつもよりお客さんの引けが早そうなので大丈夫ですよ」
「ありがとうございますマスター。ちょっと熱が出てきた感じなのでお先に失礼します」
これは無理してはいけないやつだ。マスターの言葉に甘えよう。
「葉月ちゃんごめんね。やばそうだから帰るね。今度埋め合わせするから」
「そんなこと気にしないで下さい。ゆっくり休んで下さいね」
葉月ちゃんが微笑んでいた。いつもあまり表情を変えないけれど、今の笑顔はドキッとした。やっぱり葉月ちゃんは天使だ。
僕の好みが、年上の甘えさせてくれる大人の女性じゃなかったらイチコロだったね。ふぅ、あぶないあぶない。セーフです。
……本格的に熱が出てきた。
飲み物と消化に良い食べ物を買って帰ろう。
家に帰る途中、スーパーに寄ってスポーツドリンクとレンジで温めるおかゆを買った。
風邪薬を飲んで寝ていればすぐに良くなると思っているが、時間が経つにつれてどんどんと症状が悪化している。眩暈がする、そして体が熱くてたまらない。気を抜いたら倒れてしまいそうだ。
気力を振り絞って自宅アパートに帰ってこれた。
……ほっと息を吐く。
だが、そこで気を抜いたのが悪かったのだろう。体の制御が利かなくなって、玄関で倒れてしまった。起き上がる体力も残ってない。
「あぁ……玄関の鍵……閉めてないや……」
このまま死んでしまうのだろうか。
そんな事を思い、恐怖に包まれながら、意識は深い闇へと沈んでいった。
◇
「おいしっかりしろ! すごい熱だ! 救急車呼んだ方がいいんじゃねえか!?」
どこからか、イケメンの声がする。イケメンは爆死しろ。
「救急車を呼びますわ! まずは奥に運びましょう!」
どこからか、美女の声もする。年上の甘やかしてくれる優しいお姉さんでお願いします。
「先輩大丈夫ですか!? しっかりして下さい!!」
どこからか、天使の声がする。
僕は力尽き、天使が迎えに来てくれたのだろうか……。
短い人生だったけれど、最後に天使の声が聞こえたから、幸せだ。
「葉月ちゃんはもっと笑うといいよ。笑顔が可愛いんだから……」
「……っ!」
近くで息をのむ音がする。
また意識が朦朧としてきた。
今度こそ死んでしまうのだろうか。
マスターの喫茶店で最後に見た天使の笑顔を思い出す。
……自然と笑みがこぼれた。
そして今度は、幸福感に包まれながら、白い闇に落ちて行った。
◇◇
目が覚めると、世界は白く塗り潰されていた。
右を向いても真っ白、左を向いても真っ白、手を見ても真っ白。
まるで処女雪に覆われているかのように。
どこを向いても白い。
体がフワフワして宙に浮いている感じがする。
これは夢なのだろうか?
◇◇◇
しばらく経つと、白い世界に黒い線が描かれて来た。
右を向けば壁に輪郭が付き、左を向けば窓にカーテンが掛けられていた。
左手を見れば、何やら細いチューブが刺さっていた。
今この瞬間、世界に物質が創造された。
次は色が付くのだろうか?
赤、青、緑の3原色が混ざり合い、世界を祝福する。
その瞬間を楽しみに待つ。
◇◇◇◇
だが、現実は非情であった。
いつまで経っても世界は祝福されず、白と黒のモノクロで構成された世界が広がっているだけ。
俺は呪われてしまったのだろうか……。
ふと、左手に刺さったチューブを見た。
その瞬間、白と黒で停滞した世界に文明が生まれた。
【点滴】
脱水症状っぽいから、一本いっとく?
とりあえずこれ打っとけば大丈夫っぽいよ?
あと30分くらいしたら終了です。
おつかれさまでした!
「おつかれさまでした……?」
自然と声が漏れた。
チューブから【吹き出し】が表示され、何やら説明文が書かれている。
一度目を閉じて、もう一度チューブを見たが、【吹き出し】が消えることはなかった。
頭を右に寄せ、壁を凝視してみる。
【壁】
まっ白な病院の壁ですよ!
それ以外に何かありますか?
「……」
また【吹き出し】が表示された。
確かに壁は壁だよね。
今度は頭を左に寄せ、窓を見て見る。
【窓】
桜山大付属病院502号室の窓。
ここから見下ろす景色はすごくキレイです。
春には桜がいっぱい咲いてます。
「……?」
混乱してきた。
壁は素っ気なかったのに、なんで窓はやたらと詳細なのだろうか。
この【吹き出し】の内容を信じるならば、この部屋は桜山大付属病院の502号室という事になる。
あの日、マスターの喫茶店で熱を出し、自宅で倒れ……病院に運び込まれたのだろうか?
そういえば夢の中で、イケメンと美女と天使の声が聞こえた気がした。
更に室内を見渡してみる。
すると、どんどんと【吹き出し】が増えて行った。
表示された【吹き出し】は消える事が無く、世界は文字で溢れてしまった。
……焦る。
消し方も分からない。
このままでは文字で溢れ、圧し潰されてしまう。
意識を集中させ、世界に願った。
「消えてくれ!!!」
その瞬間、世界から【吹き出し】が消え、モノクロに戻った。
【吹き出し】が消えても世界はモノクロのまま、祝福されることは無かった。
――動悸が激しい。
心臓が悲鳴を上げる。
――汗が止まらない。
全身から涙が流れる。
――頭が割れそうだ。
強引に何かを埋め込まれているように。
――目の奥が熱い。
これは見てはいけないものを視た影響?
――不安と恐怖が押し寄せる。
もう終わってほしい……。
――世界に祈りを捧げ、目を閉じた。
次に生まれ変わる時は、どうか世界が祝福されていますように……。
◇◇◇◇◇
「それにしても大したことなくて良かったな。玄関で倒れてたの見た瞬間やべーって思ったぜ」
「そうね。発見するのが遅れていたらと思うとゾッとするわ」
近くでイケメンと美女の声がする。でも残念ながら、天使はいないようだ。
でも怖い夢を見ていたからか、二人が傍に居てくれるだけで幸せな気分になってくる。
自然と笑みがこぼれた。
軽く辺りを見回してみると、右側に壁があり、左側に窓があり、窓からは空しか見えないが雲が流れていく様子が見えた。今日は風が強いのだろう。
部屋の奥にはテレビやソファーもあった。夢で見た光景と似ている気がするが、同じなのだろうか?
体の方を確認してみると、夢で見たような点滴のチューブは見当たらなかったが、点滴をしたと思われる左手にはガーゼが固定されていた。
もう少し二人の会話を楽しみたかったけど、そろそろ話しかけようかな。
「おはよう。今日も二人はラブラブだね」
「薫! 大丈夫か? もう昼だからおはようじゃないけどな!」
「心配したのよ、薫さん」
二人の笑顔が嬉しい。
「まだちょっと熱っぽいけど、だいぶ楽になったと思う」
モノクロの世界は終わり、世界は祝福されていた。
あれは本当に夢だったのだろうか?
「ここって病室だよね? 二人が運んでくれたの?」
「そうだぜ。覚えてないのか?」
「玄関で倒れた記憶はあるけど、気が付いたら今だった」
「はぁ。途中で何度か起きたらしいけどな。ちっこい後輩もいたんだぜ?」
「葉月ちゃん来てくれたのか……」
記憶に無いが、何度か目を覚ましていたらしい。トイレとか一人で行けたのかな?
「あの子可愛いわね。ギュッとしたくなっちゃう」
「まじ可愛いよな。ギュッとしたくなる気持ちわかるぜ」
「……なんですって?」
「ひぃ!」
修二の馬鹿がまた失言してる。玲子さんのいるところで他の女性の話題はNGです!
「ごめん、ちょっと状況を教えてくれないかな?」
立ったまま痴話喧嘩をしていた二人が来客用の椅子に座り、微笑んだ。
なんだかんだでラブラブなイケメンと美女である。
「そうだな。最初から説明してやるよ」
そう言って、修二が説明してくれた。
「今から2日前、アパートの玄関で倒れているところを発見したんだ。ここまでは覚えているだろ?」
「玄関で倒れたのは覚えてる。でも2日も経ったのか……」
「正確には3日前だな。薫がアパートで倒れてから、しばらく経って俺たちが発見したんだ」
玄関で1日近く寝てたのか?冬だったら死んでたな。
「そうよ。朝から学校にも来ないし、連絡しても反応してくれないし、焦ったわ」
「午後の講義が終わってから、玲子と二人で薫のバイト先に行ったんだ。お前の家より近かったし、学校サボってバイトしてるのかなって思ってな」
「マスターさんと葉月ちゃんから聞いたの。薫さんが熱で早退したって」
「そんで後輩ちゃんが慌ててな、マスターが見て来いってことで3人で薫のアパートに行ったんだ」
「ふふ、薫さんも愛されてますね」
「……」
玲子さんが慈愛の笑みを浮かべている。
葉月ちゃんは天使だ。こんな僕のために駆けつけてくれるなんて思ってもみなかった。凄く嬉しいな……。
「アパートの鍵が掛かって無かったから、勝手に上がらせて頂きましたわ」
「ドア開けたら薫が突っ伏してたんだ。まじ焦ったぜ」
「葉月ちゃんも心配してたんですよ?」
「そっか……ありがとう」
玄関で倒れたときは鍵を閉めなきゃと思ったけど、鍵が閉まってたらもっと大事になっていたかもしれない。
そういえば夢の中でイケメンと美女と天使が出てきたような気がする。
すごく寂しくて、孤独だったからだろうか。友人たちだと分かった瞬間、心が温かくなったのを覚えている。
今まで経験したことのない死にそうな状況の中、気になるあの子を見た瞬間、ホッとして何か恥ずかしい事を言ったような気がする。
あの時は本当に死にそうだったから、気持ちが溢れたのかもしれない。ちょっと恥ずかしいや。
「それから救急車を呼んで、病院に連れて来た」
「状況が状況だったので、安全のためにですね。ここってお父様のお知り合いの病院なので、特別に個室を使わせて頂きましたの」
「……まじかー」
玲子さんの笑顔が眩しい。やっぱり玲子さんは良いところのお嬢様なのだろうか? 高貴なオーラを感じる。
それにしても、個室って高そうなんだけど大丈夫なのだろうか。しかも見た感じ普通の個室より、お高い気がする。だって個室にしては広すぎるもん。
最近はバイトも頑張っているけど、あまり貯金も無い。善意で個室にしてくれたのだろうから、きっと費用も調整してくれるはずだ。玲子さんに抜かりはない! ……はず。保険とかあったっけな。
「……そんで入院して今日に至るってわけだ。何度か起きたらしいぜ?」
「先生の話では点滴も取れたし、軽く診断して問題なさそうならすぐに退院して良いそうですわ」
「大事にならなくて良かったな。後で後輩ちゃんに御礼言っておけよ?」
すごく辛かったけど、点滴だけで済んだのか。
「ありがとう二人とも、助かったよ。二人が見つけてくれなかったら今頃は天国だった」
「気にするな! もし俺が倒れたら頼んだぜ?」
「ふふ、水臭いですわ」
みんなで笑い合う。僕は良い友達を持った。生まれてこれまで、これ程までに友達に感謝したことは無い。
これから先、もし二人に何かあったなら死んでも助けよう。もちろん葉月ちゃんも。
でも、最後にどうしても確認しないといけない事がある。
「ねえ、ちょっと質問なんだけどさ……」
二人は得意げに顔を向けてくる。
「ここって桜山大付属病院の502号室であってる?」
驚いた表情の二人を見た瞬間、あれは夢じゃなかったことを実感したのだった。
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