第六章 とりかご③
すれ違いざまにディジィは寺島にだけ聞こえる声で吐息混じりに囁くと、寺島が開けたままにしていた扉から出て行った。進路指導室が暗がりの空間に戻る。
完全遮光の黒カーテンから差す一筋の陽射だけが寺島の顔辺りを照らした。
寺島は眩しさに顔を逸らすこともなく、静かに野々宮を見据える。
一時漂った沈黙は、野々宮が自ら破った。
「寺島さま。犯人である《催眠術師》はお分かりになりましたか?」
「ああ……そりゃ目の前にいるからな。んで、その手順も分かった」
「それでは、K24の相談係である寺島さまの見解をお知らせください」
野々宮は敬称を付けて、恭しく寺島に話を促した。『とりかご』に捕らえられた寺島などすでに脅威でも何でもない。彼はもうすでに可愛い小鳥だ。
「雅……。俺たちは勘違い――いや、思い込みをしてたんだ。ずっと」
「……将生君、どういうこと?」
「三時。雅が散歩に出かけたはずの時間だ。だけどこれは実際、正しい時間じゃない」
「え……?」
寺島は窓から差す光を瞳に反射させながら、野々宮をじっと直視した。
「雅が散歩に家を出た時間は三時ではなく、恐らく三時半。つまり、本当の正確な日本時間と屋敷の時間は変えられていたんだよ」
瀬崎邸では毎日午前九時と午後三時に振り子時計の鐘が鳴る。
それが思い込みの原因だ。
「あの日、雅はスマホが壊れていたんだよな?」
「ええ、そう……」
雅が不安げに頷く。
「その日、憲明さんが亡くなった四月二十日における雅にとっての正しい時間は、あの大きな振り子時計が示す時間だった。だから午後に鐘が鳴った時、雅は今が三時だと習慣的に思い込んで散歩をしに屋敷を出た」
瀬崎邸にある日本時間を知らせる振り子時計はねじ巻き式だ。毎朝野々宮が早起きをしてねじを巻いて、時計の管理をしている。瀬崎家に代々伝わるその時計は年季と修理を重ねており、年々時計としての精度は落ちているはずだ。
野々宮が人前で振り子時計の時間を調節していても違和感はない。
「野々宮さんは、事前に振り子時計の時間を三十分遅らせてた。そして、憲明さんの死亡した時刻を、散歩をしていた間の時刻だと雅に勘違いさせた」
雅は少し目を見開くと、ぎゅっと唇を結んで俯いた。
きっとある程度の話を理解できたに違いない。
「休日、雅は三時の鐘が鳴ると散歩へ出かける。野々宮さんはそれを利用した。修一さんは会社に出勤中、ドライバーの加藤さんも外で洗車を行っていた。雅とエリスさんが一緒に散歩に出掛けると分かれば、あとは三十分遅らせた振り子時計の鐘が鳴るタイミングで、野々宮さん自らも庭に出て仕事を行うだけだ」
瀬崎憲明が殺されたのは三時から三時半の間。
雅が本当に散歩に出たのは三時半から四時の間。野々宮は、振り子時計を三十分遅らせることで屋敷にいた全員の時間感覚を狂わせた。
そして全員を容疑者にするのではなく、全員にアリバイがある状態で殺害が起きたことにする。
理由は、外部からの侵入だと屋敷の人間に思い込ませるためだ。そのために部屋の窓は開けた。反対に屋敷の人間全員にアリバイがあれば、警察は深い調査を実施せず、急性死だと楽に判断できる。
警察としても《催眠術師》には関わりを持ちたくない。
「加藤さんが屋内に入ろうとしたとしても、近くで雑草取りを行っていた野々宮さんはいつだって彼を制すことができた。屋内に屋敷の人間を立ち入らせなければ、条件的な密室を完成させられる」
加藤は修一を会社に送った後、雅とエリスが散歩を終えるまで屋内には立ち入っていない。
屋敷を不在にしていた修一も然りだ。
「最後に、机に置いておいた殺害予告状と心臓麻痺で伏した憲明さんを散歩から帰宅した後で雅本人に同時に発見させる。殺人が起きたかもしれない場面で、警察も壁に掛けられた時計の話はしない。気づかれない内に野々宮さんが三十分遅らせた時計の針を元の正しい時間に巻き戻すことで、仕掛けは完成した」
「ドライブレコーダーの証拠はどうなるのですか?」
野々宮がフレームを右手で直して、尋ねた。
「ドライブレコーダーには音が残る。鐘が鳴った時間もドライブレコーダーには刻まれているはずだ。ただ、アリバイの調査は警察じゃなく、雅と野々宮さんが協力して行ったもの。事実の隠蔽は簡単。ドライブレコーダーの記録は野々宮さんが自ら時間のトリックを隠すため調べた振りをしたんでしょう?」
「はい。全くその通りです。さすが寺島さまです」
「……全然嬉しくないですけどね」
大根役者のような野々宮の棒読みに、寺島は嫌味を込めて返した。
「――ですが、寺島さま。その推理では五十点と言った所でしょうか」
「将生君……違う……違うの……」
期待外れとでも言いたいのか、小さく首を振った野々宮の後ろで、顔を上げた雅が何かを訴えかけていた。唇を強く噛み、瞳は潤ませている。
「何が……違うんだ?」
寺島の眉根に自然と力が込められる。
「散歩をする前の一時間くらい、私と野々宮はキッチンで父の好物だったクッキーを焼いていたの。確かに数分の間、野々宮はキッチンを離れたわ……」
雅は父が亡くなった日の、散歩に出る前の記憶を頭の中で振り返った。
「私も途中で広間に戻ろうとした。だけど結局私は止められて広間に戻らなかった。その時はただ、いつも通りの構ってほしいだけだと思ったわ。だけど、今ならわかる……私を広間に……お父様の部屋が見える場所に行かせないようにだって……」
「どういうこと、だ……?」
野々宮と瀬崎憲明の他、雅とエリスは三時の鐘が鳴るまでの間、屋内で時間を過ごしていたのだ。部屋に必ず二人が籠っているとは限らない。
最も簡単に、瀬崎憲明の部屋へと誰にも見られず出入りする方法を、寺島は自ら語った推理に含んでいなかった。
「寺島さまの推理には欠陥があります。それは私が憲明さまの部屋に出入りする際、屋敷の人間の誰かしらに見つかる可能性を考えていないからです」
単純に考えれば、当然辿り着くべき解答。犯行の間、誰かが雅の視界を塞げばいい。
「まさか――エリスさんが共犯者……?」
《戦慄の水曜日》で孤児になったエリスは野々宮と同じ日に瀬崎憲明に拾われた。瀬崎憲明を殺す為に二人が最初から、瀬崎憲明本人に近づいて七年間、時を待ったとすれば――。
「私とエリスはヒュプノスさまに仕える同じ『欠』の人間です」
「っ――」
今日がゴールデンウィーク最終日であること、そして日本時間を知らせる振り子時計がねじ巻き式であることを寺島に教えたエリスが、組織の仲間であり共犯者だというのが事実であれば、寺島は推理をしたのではなく推理させられたということになる。
「雅さまは寺島さまを誘き寄せるための囮。本当の目的は別にあります。寺島さまはエリスが今、どこにいるか分かりますか?」
雅に加え、修一もこの暗い進路指導室にいる。ならば、寺島に関わりのある人間は残り一人しかいない。そんな可能性は考えたくなかった。
寺島にとって、自らの命にすら代えがたいただ一人の人物。死んでも守ると約束した少女。
「俺の『主』の元にいるってわけか……」
「正解です。寺島さま」
野々宮は眼鏡に掛った前髪を払う。
「これからあなたに『生』と『死』の選択を与えます」
寺島の視界から野々宮の姿が薄れてゆく気がした。
「この場であなたが『死』を選べば、あなたは自ら『とりかご』を出て心臓麻痺による死を迎えなければなりません。その場合K24及び、瀬崎雅、瀬崎修一の命も保障しましょう」
「だめ、だめよ将生君……! そんなのダメだわっ!」
「もしあなたが反対に『生』を選べば、私はあなたに掛けた《催眠術》を解き、あなたは無事に『とりかこ』から羽ばたくことが出来ます。その場合はK24及び、瀬崎雅、瀬崎修一の命は保証できません」
雅が大声を上げながら寺島に向かって何かを叫んでいる。はっきりとは見えないけれど、瞳に浮かんだ雫が伝って、彼女の頬は濡れているような気がした。
『主』を見殺しにして生きるか、『主』のために死ぬか、単純明快な二者択一。
「――私とエリスが暮らしていた孤児院は、《戦慄の水曜日》で焼け野原になりました」
突然、声がして視線を戻すと、野々宮がこちらを見詰めているようだった。
「他の子どもたちがどうなったかは分かりませんが、ヒュプノスさまは私とエリスを地獄のような炎に包まれた孤児院から助けて下さいました」
一律な口調に加え、精神的な防壁として野々宮は敬語を用いるため、彼女からヒュプノスと呼ばれる人間への忠誠や信仰の度合いは感じ取ることはできない。
「今日が最後の使命を果たす日であり、今日が終われば私は無くした『悲しみ』を取り戻し、エリスは無くした『妹』を取り戻せる」
野々宮の語勢が強まって、初めて寺島は野々宮の心の内を少しだけ覗いた気がした。
「エリスさんも《催眠術》の力を持ってるのか?」寺島が切れ長の目をさらに細める。
「……いいえ。エリスは《催眠術》の才能がありませんでしたが、代わりに彼女は拳銃を使用できます。あなたの『主』を仕留め損ねることはありませんよ」
まだ自分の『主』を心配している寺島に、野々宮は内心少しだけ驚いた。自分の身を守るような護身術をK24が持ち合わせるはずもない。この状況でK24を救うという選択はないのだ。
「寺島さまどうしますか? 『生』か『死』か」
無慈悲にも野々宮は寺島に早い決断を迫る。
しかし、当の寺島は迷う素振りもなく赤線のぎりぎりに足のつま先を置いた。
「そんなの考えるまでもないだろ。相談係が『主』を守らなくてどうすんだ?」
寺島は八重歯を剥き出しにして、野々宮に皮肉に微笑んだ。
――選択は『死』。自分自身が死ぬことで雅、修一、そしてK24の三人を救う選択だ。
「さすが寺島さまです。では、好きなタイミングで『とりかご』から出てください」
「ええ、言われなくとも分かってるよ」
寺島は乱暴に首を横に振っている雅の方へゆっくりと視線を向けた。
「だめ。そんなの……だめよ将生君っ! そんな選択は間違っているわ!」
「なあ、雅」
泣き崩れる雅の声を遮るようにして、寺島が彼女の名前を呼んだ。寺島の瞳に覚悟を感じ取ってしまった雅はその場で何もできず、何も言えなかった。
「雅とは……その、なんだ、最近会ったばっかりだったけど、楽しかったぞ。最初は兄妹揃って嫌な奴だと思ったけど、案外そんなことも無かった」
「案外ってなによ……それに兄妹揃ってって……」
「それと、……来世でまた会ったら、今度は散歩は桜が綺麗に見える場所でも案内してくれ」
「来世って、やめてそんなの……桜なら今だって沢山見える場所知ってるわっ!」
悲痛な雅の声を無視するように、寺島は続ける。
「そうだ、誰にも教えてないんだがK24の正体は飛鳥馬雀だ。学園では超絶地味な女子生徒だけど、あれは偽の姿だ。本来の姿は下界に舞い降りた天使みたいで美しい女の子なんだぞ」
「…………」
「だから、俺が死んだらあいつのこと頼むよ。最初は人見知りで逃げられるかもしれないけど、できれば毎日でも話しかけてやってくれ。あ、恋愛ドラマがあいつは好きなんだよ。昔の名作でも貸してくれって言ったら喜ぶからさ」
「……だめよそんなの。将生君、行かないでっ! 行かないでよ!」
「じゃあな、雅。修一さんにもよろしく頼む」
死が直前にあるにもかかわらず、頭の中に雀の無邪気な笑顔を思い描いた寺島は、静かに微笑んでいた。どんな時であろうと、彼女の笑顔が寺島の心を癒す。
「何か『主』に言い残すことはありますか?」
相変わらずフラットな口調で野々宮が聞いた。
「いや? 無いね。俺達は心で繋がってるんだよ」
「左様ですか」
さようなら、心に呟くと寺島は大きく両足を一歩ずつ下げた。寺島にとって飛鳥馬雀は自分の命より大切な存在。天秤で量れば、圧倒的に自分の命の方が軽い。
「じゃあな雅。さよならだ、この世界も」
寺島はただ前を見据えながら悠然と足を踏み出す。躊躇はない。
彼は赤い枠線を超え――
ドンっと鈍い音を立てて、床に倒れた。
――寺島将生は、数十秒声にならない苦しみに足掻いた後、ピクリともしなくなった。
「小鳥は自由を求め、籠を出る。でもそこに本当の自由など無く、広がっているのは弱肉強食の世界。囚われの身――『とりかご』です。さようなら寺島さま」
金が城高校相談係 ~影踏みの催眠術~ しのぐ @sinogu
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