第六章 とりかご②

こほ、こほと不快な咳で雅は目覚めた。


瞼が重く、視界に靄が掛かってはっきり見えないけれど、何故か暗闇にいるみたいだった。床で寝落ちしてしまった時と同じように腰が痛い。


昨日は確か将生君と同じベッドで――

隣に人影を感じて目を凝らすと、修一が目を瞑ったまま床に倒れていた。


「え、お兄さま……? お兄さま、お兄さまっ!」


「ニハッ。やっと起きたかな?」


 不気味で、粘着質な男の声が雅の鼓膜を震わせた。

急激な速度で体が拒絶反応を起こし、視界の靄が一斉に消える。


雅の見上げた先、パイプの錆びた学校机の上に見知らぬ男が胡坐をかいて座っていた。


「君のお兄さまは暫く起きないよ。強い睡眠薬を投与したからね」

「だ、だれあなた……っ!」


首元に注射器の様なものをぶら下げた男は、雅を見てにやにやと嗤っていた。脳が正常な働きを取り戻し、雅は金が城学園高校の学生服を男が着ていることに気づく。


『純金』が着用するブレザーではなく、寺島と同じ真っ黒な学ランだ。


男は黒髪で平凡そうな顔つきをしているが、その裏側から覗く濁った底闇が普通の人間ではないことを雅の本能に警告した。


「ここはど…………」


 言いかけた時、その後ろに佇むブレザー姿の人物に気づき、雅は絶句した。心臓がはち切れそうなほど一瞬で高鳴り、脳が視界に映る光景を拒否しようとする。


「こちらのお方は、ディジィー様です。組織『欠』のナンバー3で御座います。そしてここは金が城学園高校2号館四階の進路指導室です」


 フラットで抑揚のない口調。男の影から出てきた人物を雅はよく知っている。


「の、野々宮……?」


「はい。正真正銘の野々宮遥香です」


「野々宮……? これはどういうこと……?」


「どういうこともございません。これがあるがままの現実です」


 野々宮は眼鏡のフレームをすっと直し、綺麗なボブカットに潜む瞳を雅に向けた。


「意地悪だねぇ野々宮はさぁ。ちゃんと教えないとこの子が可哀そうでしょう?」


「いえ、今説明を行えば、二度手間になってしまいますので」


「ニハハッ、それもそうか」


 男が首に掛けられた注射器のキャップを外し、恍惚とした顔でトカゲのように長く湿った舌で針を舐めると、計り知れない嫌悪感と心理的な抵抗感が雅に襲い掛った。


 足を必死に動かして、後退りを試みてもそこには窓際の壁しかない。身体を動かそうとしても、両手が背中で拘束されていて立ち上がることも出来なかった。


「な、なんで動かないのよ……っ!」


 懸命に身体を捩るが、手首に嵌められた手錠が擦れあう金属音を滑稽に奏でるだけで、無駄な努力にしかならなかった。ここでようやく寝ていた間に攫われたのだと雅は理解した。


「焦る必要はないよ雅ちゃん。君はまだ殺さないからさ。寺島クンが来るまで待っててね?」


「あなた何が目的なの!」

 雅は勇気を振り絞って、男を睨みつけた。


「おー、元気がいいねぇ。まだ目的は話せないけど……、それ以上うるさくするようなら……。ああなっちゃうよ?」


 男は気だるそうに自分の後方を指差す。


厭な予感が脳裏をよぎり、ゆっくり男の後方に視線を伸ばすと扉の近くで白髪をした男性――瀬崎家専属ドライバーの加藤が倒れていた。


「あーあ、あのおじさんね。あんたは解放してあげるって言ったのに、雅さまがどうたらこうたらって飛び込んできてびっくりしたよホント。ハハッ笑っちゃうよね」


加藤の足元には赤いインクのようなもので太い線が引かれている。その赤い線は扉の前全体を囲み、正方形を作っていた。加藤はその線から足をはみ出して、床に突っ伏している。


「な、なによあれ! 加藤に何をしたのっ!」


「加藤は今、《催眠術》により心臓麻痺で倒れています」


 暗闇の中、野々宮が淡々と告げた。


「し、心臓麻痺って……」


「大丈夫。心配しないでお嬢ちゃん。心臓麻痺って言っても数時間は死なないからさ。彼はまあ、死ぬ前の仮死状態みたいなもんだよ」


「……っ」


 喉に声がつっかえる。体の芯が怯えて、虚勢すら張ることができない。


「勘違いしないでね、あれは僕ちゃんのじゃなくて野々宮の《催眠術》だよ?」

 男の言葉に、雅がヘーゼル色の瞳を見開いた。


「野々宮が《催眠術師》……?」


「そう、《催眠術師》は暗示を掛けることで、能力を発揮する。彼女は『危険』という潜在意識で対象者の脳を埋め尽くすことで、心臓麻痺の暗示を掛けることができるのさ」


「そんな、野々宮が《催眠術師》だなんて」

雅の顔から血の気が引いてゆく。


「父を殺したのも、野々宮ってこと……」



 七年前の《戦慄の水曜日》で孤児院が破壊され、街中を当てもなく徘徊していた野々宮を父が連れて帰ってきた。


それ以降、雅と野々宮は一緒に暮らしてきた。大事な家族として。また『主』と相談係として。なのに、自分の命を狙っていた《催眠術師》が彼女だという事を雅は信じられなかった。


「どうして……! 嘘って言って野々宮っ!」


「嘘ではありません。雅さま」

躊躇いもなく野々宮が否定する。

「私が瀬崎家に拾われたのも全て今日のため。何度もお申し出て頂いた瀬崎への姓変更も、面倒な情を移されては困るのでお断りしていたのです」


「嘘よ……そんなの嘘……ねえ……野々宮……」


 普段通りの無表情な野々宮の口調が、氷の様な冷徹さを帯びて、雅の心に刺さった。


「酷いねぇ、野々宮も。わざわざ言わなくて良いって言ったじゃんそれぇ」


「いえ。私は与えられた仕事をこなすだけです」


 教室にはカーテンの隙間から日の光が一筋差していた。けれど、その光が無意味なほど教室は冷たく、暗い空間だった。今が日中であるのは間違いないが、時計すらない2号館の進路指導室では正確な時間も把握できない。


「ディジィー様。本当に寺島将生はこの教室に来るのでしょうか?」


「うん? 彼は来るよ。必ず瀬崎雅を助けにね」


「……そうだ、将生君」

 辺りを見渡しても寺島将生はいない。雅はぎゅっと瞳を瞑った。


「だめ、将生君……。ここに来てはだめ……。あなたも死んでしまう……」


『雅は俺が守るよ』。そう言った寺島の言葉が鮮明に蘇っては、儚く消えた。


 状況は絶望的だった。彼が来てしまったら死人が増えてしまうのは明白だった。どうせ死ぬなら、彼にだけは生きていてほしい。一人でも多く、生きてほしい。


「野々宮! 私の提案を聞いてほしいの! 私のことは煮るなり焼くなりなんでもしていい。だから将生君だけは、お願い将生君だけはっ――」


 ドンッ。と雅の声を遮るように学校机の上から男が飛び降り、冷たくて細い滑った手で雅の顎を掴むと、男が張り付いた笑顔を拡張させた。


「だーめ。だって楽しい本番はここからなんだから。……ほら聞こえるだろ? 足音がさぁ」


 耳を澄ます。階段を駆け上がり、廊下を颯爽と駆け抜ける足音が確実にこちらへ近づいてきている。


「将生君、来てはだめっ!」


 雅の叫び声も虚しいかな、バタンッ! と教室の扉が勢いよく開かれた。カーテンの隙間から差す一筋の日の光が膝に手をつき息を切らす彼の半身を照らす。


「ようやく来たね寺島クン。会いたかったよ」


 教室に入ってきた寺島の目に飛び込んだのは、無表情のまま佇むブレザー姿の眼鏡少女と、金が城学園高校の学ランを着た男の後ろ姿。


「野々宮さん! それとお前は……」寺島は振り返ったその男の顔にはっきりとした見覚えがあった。「同じクラスの……どうしてここに……」


「あれ? 寺島クンが僕のこと覚えてくれているなんて嬉しいよ」


 寺島を見て笑うのは、教室でよく話しかけてくる名前も知らないモブキャラの男。雅と食堂で出会った日も、四限終わりに一緒に昼食を食べないかと話しかけてきたあの男だった。


「でも、その声は――」


「ニハッ。よくお分かりで」

 耳障りな甲高い声の男は、バイオリンを持っていない。


 しかし、男の首に掛けられた注射器は忘れもしない、雅が最初に攫われたあの日と同じ。


「じゃ、せっかくだし、僕ちゃんの正体お披露目と行きますかぁ? ニハハァッ!」


 高笑いした男は手を逆さにして己の顎の辺りを掴むと、上に向かってゆっくりと顔の皮膚――否、特殊メイクを施した仮面を剥いだ。


 身の毛も竦むような千切れる音に、寺島も無自覚に顔を顰めた。


「どーも、ディジィーだよ寺島クンっ」


 現れたのは音楽を奏で、その音楽を美しいと思わせた時、対象者に眩暈をさせる緑髪の《催眠術師》。


男は濁った緑色の前髪をかき上げて、落ち窪んだ眼を薄く細めた。


「お前……、いつ入れ替わったんだ……?」


「ん? ニハハッ、いつって? その質問自体が間違いだよ寺島クン。一年前の入学式から僕は正式な金が城学園高校の生徒だよ?」


 寺島の惑う表情が楽しいのか、男は張り付けたような笑みを顔一面に広げた。


「最初は苦労したよ……。金持ちの息子に媚び売ってさ、相談係にしてもらったんだ。ずっと誰にも怪しまれないように従順に過ごしてたんだけど、途中から面倒臭くなって『主』には失踪してもらうことにしたんだぁ」


 一年前から寺島のすぐ近くに《催眠術師》が潜んでいた。まさか、この日のためにディジィーと名乗る男は金が城学園高校に潜入していたのか――?


「将生君! こっちに来ちゃだめ! 今すぐここから逃げて!」


 ディジィーの後方、雅が悲痛な表情で叫んだ。扉近くにいる寺島からはよく見えないが、雅は背中で手を拘束されているようだった。


その隣には修一がぐったりと床に伏している。


 そして、目の前には瀬崎家専属ドライバーである加藤が倒れていた。


「無理だよ寺島クン。君は既に『とりかご』に包囲されているからね。ははっ! 愉快愉快!」


「――っ!」


 寺島が視線を下げて周囲を見渡すと、床に引かれた赤い枠線の中へと知らず知らずのうちに立ち入っていた。教室へ足を踏み入れてしまえば、自動的にその赤枠に捕らわれる構造は、まるで餌に釣られた野鳥を捕らえる――『とりかご』


 寺島はその赤線に近かった右足を数ミリだけ後ろを引いた。それはその赤線を踏み越えてしまうことを無意識に 危険 だと感じて起こしてしまった行動だ。


「赤といえば、血、炎、情熱――そして『危険』だよ」


 寺島の小さな仕草を注視して見逃さなかったディジィーは、予定通りと舌なめずりをし、顎を使って野々宮に指示を出した。


「寺島将生、あなたは私の催眠に掛ります――」


 動きを制止するように右手を前に突き出した野々宮は、寺島に向かって鉄のような固い無表情で宣言した。鮮明で聞き取りやすい声だった。


「《制約》対象者が赤い枠線を危険だと感じた時――《催眠》その枠から足を踏み出せば、心臓麻痺を発症する」


 ――催眠術……! 


 赤線を危険だと感じ、足を引いてしまった事実に寺島は目を見開く。罠に嵌まった。寺島は雅を助けに来てしまった時点で、緑髪の男の掌で転がされていたのだ。


「対象者は私の《催眠術》に掛っていることを実感として得られません。催眠の効力を確かめるには自らが足を踏み出し、死をもって体験する以外にありません」


 赤い線が先ほどより禍々しい存在感を放った。


 足元に引かれているのは、超えれば心臓麻痺を起こす赤線。寺島の目には、遮断機が下りたままの踏切が映像として浮かび上がった。


目の前に倒れる加藤は《催眠術》を掛けられた実感のないあまりに、止めどなく電車が往来する線路に飛び込んでしまったに違いない。


「野々宮さん、あんたどうしてこんなことしたんだよ……」


「これは『欠』のトップであるヒュプノス様の命令だからです。私はそれに従うだけです」


 ――『欠』とは《催眠術師》の組織。まるで自分には意志が無いと言いたげな野々宮が、台詞を述べるようにすらすらと言った。


「じゃ、僕ちゃんはそろそろお暇するよ。『とりかご』から出ちゃったおじいさんも早く病院に連れて行かないと本当に三途の橋を渡っちゃうからね」


 緑髪の男はよいしょ、と床に倒れた加藤を肩に背負い、寺島の前に立つ。底闇を象ったような男の眼を見て、寺島も固唾を呑んだ。


 ディジィは舌で乾いた唇を這った後、ニヒルに微笑んで――


「じゃ、寺島クン。また後で」

 

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