第五章 心の声


黒と白をかき混ぜた、くすみきった灰色のような空だった。


《戦慄の水曜日》の翌日、世界は混沌としていた。混乱と紛糾に覆われた街が一変して、台風の目のような薄気味悪い静寂が漂っていた。


「こりゃぁ酷い有様だなぁ。なあ雀?」

「うん」


人の気配がしない住居は空き巣が押し寄せたみたいに窓ガラスが割られ、玄関扉は空きっぱなしになっている。


背の低い屋根には折れた電柱が突き刺さり、足元は看板や瓦礫が散乱し、足を滑らせてしまえば必ず怪我をする。


道路は乗り捨てられた車で永遠と渋滞が続き、歩道に乗り上げて横転した車は、夏の蝉のように煩わしい不協和音を奏でていた。 


崩れた建物の下には誰かが埋まっているのだろうか。


そうであれば、すでに死んでいるだろう。遠い向こう側で狼煙が昇っている。いや、あれはただの火事だな。無事なのは助けを求めた者ではなく、助けを拒んだ者だ。


剛毛の髪を後ろで一括りに縛った精悍な顔つきの男は、少女の手を引きながらそんな事を考えていた。少女は小学校の低学年と見間違えられるほど小柄な体躯で、実際より二、三歳幼く見える。


歩道、車内、店のシャッター前、路地裏の片隅――街のそこら中で人が倒れている。彼らは瞼を閉じて眠っているように見えるが、それでも実際の生死を見た目では判別はできない。


 普通の人間ではトラウマを植え付けられる光景である。男と少女の二人以外、見渡す限りは外を出歩く一般人は見られなかった。


「お父さん、ちょっと待って」


 ある商店街に差し掛かった時、少女がくいっと男の手を引き留めた。


「どうした? 雀」


 男が尋ねると、少女はしーっと人差し指を唇に置いて、瞳を閉じた。


「あのね、聞こえるの。声が」


「は? ……声? 俺には全く聞こえんがな」


 男は周囲の音に耳を傾けることもなく、毅然とした口調で言い放った。それもそのはずだ。二人が足を止めたのは古い商店街では、両側にある建物は全て崩壊していた。この中に人間が埋まっているとすれば、必ずそいつは死んでいる。


「雀、それは聞き間違いだ。今この場所にいる人間は、全員生きていない」


 自分の娘に向かって言う言葉ではないだろう。『正しさ』という概念が世界にあるとすれば、それは自分の娘をこの状況下で外に連れ出し、現実を突きつけることとは違うはずだ。


「ううん、一人だけ死んでない」


「一人だけ?」


 男はようやく耳を澄まして辺りを見渡したが、人の気配はおろか、声は聞こえるはずもない。


「違うよお父さん。聞こえるのは普通の声じゃない」


男の様子を見て、隣の少女は首を横に振った。


「心の声だよ……ずっと叫んでる」

「心の声か……それは面白い」


 男は生まれてこの方、オカルトの類を全く信じたことがない。


きっぱりと論破してやろうとも考えたが、男は自分の年齢の半分にも満たない娘に、異能を超えた天才的な投資スキルを見せつけられて以降は彼女のことを一度も否定したことがない。


「よし、雀よ。この俺が探してやる。その心の声ってのはどっから聞こえるんだ?」


 男は娘の手を離し、胸ポケットから出した煙草に火をつけると、ゆらめく煙を口の隙間から吐き出しながら、シャツの袖をまくった。


「その、三つ目の建物の下だよ」


「ああ? こりゃ流石にねーと思うけどよぉ」


 男は煙草を吹かしながら、建物の前に移動し、手前の瓦礫を取り払う。


「この下にいたら、絶対死んでる。間違いない」


「ううん。生きてる」

 少女も譲らなかった。


 男は鍛えられた腕を懸命に動かして、出来る範囲で瓦礫の山を掻き分けた。


「よっこらしょっとぉ!」

男がアルミの看板を退かす。

「――って……、おいおい、マジかよ」


 人の腕が見えた。触ったら折れてしまいそうなか細い腕だ。男は唖然とした後、ちっと舌打ちをして、煙草を放り投げると近くの瓦礫やガラス片を素手で退けた。


見えたのは、少年の顔だった。


扉と柵が直角三角形のような形を作って、少年はその間に挟まれている。自力で出られる状況ではないが、奇跡的に瓦礫の下で死骸になっていなかった。


 少年は黒い瞳を開いて、男の顔をはっきりと見据えていた。肺は潰されていない。少年は口も開ける。声も出せる。男と少女の会話も聞こえていた。



 ――なのに、一切、助けを呼ばなかった。



「まさか、本当に生きてる人間がいるなんてな……はは」


 男は少年の黒光りする双眸と衝突したとき、無意識に後退りした。


地面に寝転がっていたカーブミラーが自分の顔を映し出して、男はようやく自分の口元が歪んでいることに気づく。


「ねえ、君、どうして助けを呼ばなかったの?」


 入れ替わりに駆け寄った少女が、うつ伏せで顔を上げる少年の前にしゃがんで語り掛けた。


「『誰も助けてくれないから?』……ふうん。でも雀たちは君を助けられたかもしれないよ? ええ、『君じゃ無理だと思った』って失礼だなぁ……」


「お、おい雀……お前、誰と話してんだよ……」


 少年は声を発していない。娘が頭の中で勝手に、少年の人格を作り出して会話をしてるのだろうか。


しかし、男は認めたくなかったが、なにより自分の直感が二人の心の繋がりを現実だと指摘してくる。少女は少年との会話だけを続けた。


「君さ、名前は何て言うの? ……ふうん。そう寺島将生っていい名前だね。私は飛鳥馬雀。飛ぶ鳥に馬と書いて『あすま』。どう? 珍しい名前でしょ?」


 少年は頷いた。


「『良い名前だ』って? ありがとう」


 少女は微笑むと、手を差し出して、少年の手を掴んだ。


「君のこと気に入った」


 少年の手は瓦礫の砂と血で少しざらついていたが、少女はその手を優しく包んだ。


「雀が君をここから助けてあげる。だから君はこれからずっと私を助ける。私と君の契約ね?」


 少年はもう一度頷いた。


「ねえ、君はさ、死んでも私を守ってね」


 ――私も君を死んでも守るから。少女は少年に心で伝えた。


少年は『うん』と返した。

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