第四章 過去と提案①

四月三十日の土曜日。


 コーン、コーン、コーン、という心地良い柔らかな鐘の音で寺島は目を覚ました。


 霞んだ目を擦りながら上半身を持ち上げて、何度か腰を横に捻る。普段より体にだるさや重たさを感じない。どうしてだろう、と部屋を見渡すと高級ホテルの一室のような快適な空間で自分が寝ていたことを思い出した。


「そういや雅の家に泊ってたんだったな」


 瀬崎邸では午前9時と午後3時に古時計の鐘が鳴る。


 今はちょうど9時を過ぎた所らしい。


 寺島はベッドから起き上がって遮光カーテンを開けた。窓を開けると、自然の爽やかな匂いが鼻孔をくすぐって、深呼吸をした。加湿機能付き空気清浄機の電源を消して、適当な服装に着替えて寺島は部屋を出る。加湿機能付き空気清浄機は、花粉が飛んでいるからと野々宮が昨日の夕方に持ってきてくれた。


 ゴールデンウィークは明後日に平日を挟み、三日から八日まで連休が続く。

 予告通りであれば五月八日――雅は《催眠術師》に狙われる。


 八日には二四時間体制で雅を監視、護衛するという体制を取るのは必須だ。だが、相手の目的が判明すれば、対処はしやすい。何かこの邸宅から手掛かりが欲しい。


 瀬崎憲明が亡くなった時、裏庭を見渡せる窓は開いていた。前回、窓から下を覗くことはしたが裏庭から憲明氏の自室を覗いてはいない。


 洗面台で顔を洗って、歯を磨き、一応寝癖を直した寺島は玄関から外へ出た。


「おはようございます寺島さま。昨日はよく眠れましたでしょうか?」

「おはよう野々宮さん。家と全然違ってだいぶぐっすり」


 裏庭に出ると、野々宮が鋏を片手に背の低い植木を剪定していた。


「昨日もお伺いしたのですが、朝食は本当にお作りしなくてよろしかったのですか?」


「大丈夫です。俺、少食だし、朝は何も食べずに平気だから」


「左様ですか。もし小腹が空くようでしたらいつでも仰って下さい。簡単なのでしたらいつでもご用意致します」


 野々宮は鋏を刃を下に向けて、表情を変えずに腰を軽く曲げた。


「……あの、野々宮さん」

 寺島が尋ねようとしているのは、昨日この邸宅に来てからずっと気になっていたことだ。

「昨日も思ったんだけど、やっぱり屋敷ではその恰好なの?」

 

フリルのついた黒色ワンピースの上から白のエプロンを後ろで蝶々結びにした野々宮の服装。太腿辺りまで伸びる黒のハイソックスとの組み合わせは、秋葉原で見るメイドそのものだった。


「はい。屋敷内で行う休日の仕事はメイド服で行っております」


「普通に答えちゃうんだ……」


「修一さまも雅さまも、最初は何度も反対していらっしゃったのですが、エリスの強い意思でわたくし野々宮もメイド服を仕事中は着用することになっております。修一さまの最初は目をお逸らしになりましたが、今ではこれが普通になりましたので、寺島さまのような反応は久しぶりでございます」


 エリスは英国と日本のハーフであるため、衝撃的な初対面の仕方と合わせて寺島は大きな違和感なく見過ごしてしまっていたが、ここは日本だ。家政婦はいてもメイドは珍しい。


「メイド服は、私には似合っていないでしょうか?」


「いやいやそんなことは無い。滅茶苦茶似合ってるぞ」


事実、美形な顔立ちをしている野々宮のメイド姿には、男を悩殺する威力が備わっている。コスプレ感が強いけれど、被り物をした猫みたいにそれが逆に可愛らしい。修一が目を逸らすのも理解が出来た。


「それはよかったです。そういえば、寺島さまはどうしてお庭に?」


 眼鏡を直し、無表情のまま頷いた野々宮が首を斜めに傾げた。


「ああ、表の庭も綺麗だったから、こっちも見て見たかったんだよ」


 なんてね。と嘘を付きたかった訳では無いが咄嗟に出まかせで話してしまった。


「寺島さまは植物が好きなんですね」


 野々宮は黒のフリルが地面につかないよう注意を払って屈み、近くの花壇に植えてある色とりどりの花を愛でた。花壇には無駄な雑草すら生えていない。随分丁寧な手入れがされていた。


「実は、植木の剪定は旦那様に一から教わったんです。奥様がお早く亡くなられたということで、家計の管理や家事に関しても旦那様から色々教わったのを覚えています」


 自分の学生生活もあるだろうに、金が城学園高校の相談係には本当に感服してしまう。寺島も雀の家にたまに訪れては掃除や料理をしたりするが、住み込みではない。


「俺の『主』も籠りっぱなしだからたまには連れ出さないといけないな」


「是非K24さまも今度は一緒にお屋敷に一度いらしてください。どんな御方かは分かりませんが、雅さまもきっとお喜びになります」


「雅が?」


「はい。雅さまは世界一の才女と呼ばれるK24さまを尊敬して已まないのですよ」

 思い返せば、2号館の進路指導室で雅がそんなことを言っていた気もする。


 学園での雀をK24だと知って落胆しないことを願おう。


「もしかして、寺島さま、こちらが気になるのですか?」


 野々宮が寺島の視線を察知して、植木の傍に置いてあった剪定用の脚立を見た。


「その脚立は普段どこに置かれてるのかと思って。ほら、憲明さんが亡くなった時は二階にある自室の窓が開いてたんだろ? 侵入の際に利用できない事もない」


「脚立は車庫の隣にある倉庫に置かれています。ですが、取り出すには鍵が必要ですし、ドライバーの加藤が車庫前で洗車しておりましたので、屋敷の脚立を使用するのは不可能かと思います。屋敷にはこちら以外に他の脚立はありません」


 脚立は寺島の身長にも満たない高さだ。一番上の天板に立って背伸びしても、二階の窓には指先すら届かない。二メートル背があってもよじ登るのは無理だ。


「それもそうだな……。まず高さが全く足りない。窓からの侵入は無理そうだな……」

 寺島が一人呟くと、野々宮が「そういえば」と何かを思い出した。


「雅さまから寺島さまが起床したら部屋に出向いてもらうよう、お願いを受けていたのでした」


「んと、それは雅の部屋に行けばいいのか?」


「はい。今は学園の課題に取り組んでおりますので、ノックをして頂ければと思います」


 寺島は裏庭の野々宮にじゃあ、と挨拶を告げて雅の部屋に向かった。

 結局、裏庭からは何も得られなかった。


――唯一得られたのは、野々宮がK24の正体を知らないということ。


 ノックをすると、はいと短い返事がして扉が開いた。

 一瞬だけ覗いた雅の部屋は淡いピンク色で溢れていて、ぬいぐるみが幾つか置いてあるのが見えた。意外と乙女チックな内装だった。


「野々宮さんから聞いたけど、何か用事でもあったか?」


「ええ、もしよければ散歩に一緒に行こうと思ったの」


 そういう訳で寺島と雅は屋敷を出て、二人で散歩に向かった。


 瀬崎邸からは一番近いコンビニでも徒歩で十五分は掛かる。瀬崎憲明は海外に家を三軒持ち、会社の本拠点をイギリスに置いているため、日本に滞在する期間は一年でも短い。日本の家は憲明氏にとっては別荘のような位置づけだったらしい。


 都心から離れているわけだ。


「私が散歩を好きなのは父の影響なの。父も日本にいる時は二日に一回は散歩していたわ」


 雅は白シャツに細身のジーンズというラフな服装に身を包んでいたが、モデル顔負けのスタイルと郊外の雰囲気も相まってファッション雑誌の一ページのように寺島の目に映った。


「親父さんアクティブだもんな。趣味多いし」


「散歩も私が小さい時に父が連れて行ってくれた道から一度も変えてないのよ」


 長い坂道を二人で石を転がしながら歩く。春は花粉さえなければ、綺麗な桜が咲いて寒くも暑くもない最高の季節のはずだ。東京でも珍しい自然に囲まれた丘の上にある瀬崎邸は通り抜けるそよ風がとても気持ち良い。


「休日は毎日歩いてたんだろ? 同じ道で飽きないのか?」


「飽きないわね。毎日街は変わり続けるもの」


 確かにそれで言えば、東京の街は七年前とは大きく変わった。

《戦慄の水曜日》の爪痕が残る荒地は、未だ各所に見られる。


「ねえ、そういえば将生君はどうしてK24の相談係に抜擢されたの?」


 二歩ばかし前を歩いていた雅がミルクティーベージュの髪を揺らして振り返った。

「雅に言ってなかったか?」


「聞いて無いわよそんなの。私がK24の情報を聞いて忘れるはずないじゃない」


 背中で手を結んで、後ろ向きに雅が歩く。K24を尊敬しているという話は間違いではないみたいだ。《投資の天才》が恋愛ドラマオタクだと知ればひっくり返って驚くだろう。


「逆に、雅はいつ野々宮さんと出会ったんだ?」

 寺島は少し早歩きして雅のとなりに並んだ。


 二人で交互に小石を蹴り合いながら、ゆっくりとなだらかな坂道を下る。


「野々宮とは七年前よ。《戦慄の水曜日》が起こった日から数か月後に、野々宮とエリスを父が連れて来たの。最初は二人とも無口だったけど、私はその時から友達がいなかったからとても嬉しかったのを覚えてる」


 雅は微笑ましい過去を思い出し、薄い桜色の唇の端に自然な微笑を浮かべた。


「《戦慄の水曜日》が起きた時、偶然だけど私と兄はイギリスにいてね、テレビで日本の状況が映し出されて、鳥肌が立った。父は日本にいたからとても心配だったけど、まさか小さい女の子を二人も連れてくるなんて思わなかったわ」


「なら、野々宮さんとエリスさんは俺とほとんど同じ境遇だったんだな」


 石を蹴って転がすのに意識を削がれてしまったせいか、つい余計な話を口走ってしまった。


「将生君も孤児院出身なの?」


「ん? ああ……いや、間違えた」


「なにを?」


「いや……、七年前に俺の家族は全員いなくなったんだ」



「――え?」



 唖然とした表情で雅の足が止まり、ようやく寺島は自分の迂闊な発言に気づいた。蹴っていた石ころが靴を離れ、軽快な音を立てながら惰性で転がっていく。


「悪いな。散歩中に話す内容じゃない。行くぞ」


「ちょっと待ちなさい」

雅が寺島の腕を掴んだ。

「教えてほしい。私、その……変だけど、将生君をもっとちゃんと知るべきだって前から思ってた」


「……どうして俺のことを知りたがる? K24の情報だったら簡単には引き出せないぞ」


「いいえ。私はあなたのことが知りたいの。その……私はずっとエリスと野々宮以外に友達はいない。だけどそれは誰にも興味が無かったからよ。話していても次の話題が思い浮かばないし、みんな瀬崎雅ではなく瀬崎家の令嬢として接するのが分かるの。でもあなたは違った」


 真剣な眼差しで、雅が言葉を紡ぐ。絹のような白い肌に仄かな朱色が差す。


「あなたはK24の相談係だから、瀬崎家を特別視していないだけかもしれない。けれど少なくとも今のあなたは私を瀬崎雅として見ているわ」


風にミルクティーベージュの髪が揺れて、簡単には離さないと掴んだ右腕が訴えかける。


「私はあなたが知りたい」

 雅に根性比べで勝つのは出来そうになかった。


「……あの日、俺は小学校を休んでたんだよ、微熱が出て家の近くにある病院に行ってた」

 寺島は短く息を吐くと、前置きもなく語り始めた。あの日とは《戦慄の水曜日》だ。


「――その帰り道、街で人間が暴れ狂う様子を見た。とにかく最初は必死で走って、母さんと家まで辿り着いたけどそこは火の海だった」


 龍が隠していた首を伸ばすように、燃え上がる炎が隣の家へと轟々と移ってゆく光景を鮮明に覚えている。肌が焼けるみたいに熱くて、計り知れない絶望が体中を襲った。


 記憶を蘇らせると、胸が焦げるような想いに憑りつかれる。寺島は無意識に坂道からの景色を楽しんでいる振りをしていた。


「最初は近所の人達も一緒で、俺はその先頭で母さんの手を引いて逃げた。でも振り返る度に後ろの人が徐々に減っていった」


 どこかに行けば助かると思った。とにかく誰もいない所に避難しようと。


「うん……」雅が静かに聞き耳を立てる。


「でも、逃げられなかった。一生走っても道は限りなく続いてることに途中で気づいたんだよ。それで馬鹿みたいだと思って足をその場で止めた。その時には母さんの手は消えてた」


 周囲は灰色で、至る所から警報が鳴って、鼓膜が破れそうだった。それがいつの間にか聞こえなくなった。音が消えたのではない。音に慣れたのだ。喧騒と同じ、最初は煩わしくも聞こえるが、慣れるうちにそれが普通で正常になる。


「それで……?」


「諦めて近くの古い建物の壁に背中を持たれかけた。そしたら看板らしきものが降ってきて、次の瞬間には瓦礫の下敷きにされてたってわけだな」


 あの瞬間、寺島の人生は儚く消滅したはずだった。雀がいなければ。


「将生君にそんな過去があったなんて知らなかったわ……」

 雅はぎゅっと拳を握って、ヘーゼル色の瞳を揺らした。


「今は、雀に拾われて幸運だったと思ってるし、俺は別に過去を悲観してないぞ」


 寺島は他人の昔話を聞いて自分のことのように表情を暗くする雅を不思議に思い、すぐに自分が無用な断片まで話してしまったことにも驚愕を覚えた。


「やっぱり将生君は強いのね」


「どうしてそうなる……。修一さんの方がよっぽど強いだろ」


「そういう意味で言ったんじゃないわよ。やっぱり馬鹿ね」


 ほら、行くわよと雅がもう一度小石を蹴り、二人は散歩を再開した。


 丘の上には瀬崎邸が建っているだけで、坂道を下る最中に自転車はおろか一台の自動車ともすれ違うことは無い。他愛もない会話をしながら何度か曲がり角を折れて、住宅街に差し掛かった。平日というのもあり、人の気配が少なく閑散としていた。


 軽自動車一台通るのがやっとな狭い路地が続いていて、特に代わり映えは無い。


「はい、ストップ!」

 次の信号のない交差点まで残り十メートル辺りで、雅が横に腕を伸ばして行く手を止めた。


「なんだよ。道でも間違えたか?」

「違うわよ。散歩のルートはここまで。引き返すわよ」

「はい?」


 スマホを取り出し、時間を確認する。玄関を出てから十五分ほど経っていた。散歩の時間は確かに往復で三十分ほどと言っていたが――。


「待て、雅。俺はてっきり桜が綺麗に見えるポイントがあるとかで、散歩に連れ出されたんだと思っていたんだが……」


「連れ出されたって本当に人聞きが悪いわね。私は散歩に一緒に行こうと言っただけよ? 将生君が頭の中で勝手な解釈しただけでしょ」


「それはそうなんかもしれないけど……。にしても、引き返す場所が中途半端だ」


「はぁもう。ほら、あれをみなさい」


 雅の細い指が示す方向に、STOPの標識があった。知っている標識より若干低い位置にあると思ったら、ポールがカクっと中央で折れていた。反対にあるカーブミラーも、凹みが出来て猫背みたいになっている。


「ここは事故が頻繁に起こるのよ。壁で安全確認が難しいのに、人気が少ないからスピードを出しがちになるの、父と散歩をした時も必ずここで引き返すって決まり」


「……今は緊急停止機能があるだろ?」


「ここは東京でも郊外だし、住んでいる人たちはご老人ばかりで使用されている自動車が全体的に古かったりするの。一方の自動車に緊急停止機能が搭載されていても、自転車だったり原動付自転車と衝突を起こしたりするのよ」


「時代は進んでもまだ問題は尽きないってことだな」


「なに名ゼリフっぽく言ってんのよ」


 高速道路は今のところ事故発生率3%以下を更新しているが、原付を含む二割の車は未だに自主運転しかできない。一般道や見通しの悪い交差点では逆に多くの事故が発生している。


 しかも、この交差点は周囲が背の高い壁に囲まれていて、見通しが最悪なのに道が狭い。


「リアルタイムカメラもこの場所じゃあ設置されてないか……」


 辺りを見渡すと、交差点の電柱の前に看板が見えた。目を細めると『事故発生! 目撃情報求む』と書かれている。警察が設置する目撃証言を求める看板だ。久しぶりに目にした。


 何となく字を読むと、約二週間前の四月二十日の午後三時十五分頃、原付と中型トラックが衝突し、トラックの運転手はその場から車を置いて立ち去ったらしい。


奇しくも、四月二十日は瀬崎憲明が亡くなった日。


 ――偶然だな。


 振り返ると、せっかちな雅は既に道を引き返しはじめていた。朝から日差しを浴びて散歩というのもたまには悪くない、そう思いながら寺島も後に追い付いた。

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