第三章 殺害予告とK24③
新校舎一階の保健室には、シルクカーテンに仕切られた低反発極厚マットのベッドが3台並んでおり、常に皴一つなく整頓されている。
入学当初寺島が訪れた時は三ツ星ホテルかと勘違いしたほど、心地よい空間が備えられていた。
「痛っ! 痛い痛いっ!」
「これくらい我慢しなさいよ、もう」
「だって痛いんだから仕方ないだろうが」
「……はぁ、まだ傷も塞がってないし、痣だらけなのに……」
仲睦まじい母と子のような会話を繰り広げつつ、雅は不在の養護教諭の代わりに寺島の怪我の処置を行ってあげていた。コットンに含ませた消毒液が傷口に沁みて寺島が苦い顔をする。
腹の辺りには竹刀で打ち付けられてできた数本の赤い線があって、所々痣になっている。寺島の身体は正真正銘の満身創痍だった。
「こんな身体なのに無茶して……」
「いや、お前が兄には絶対言うなって言うからだろ?」
「それはそうだけど……。でも『決闘』をするくらいなら言ってもよかった……」
雅が小さく唇を噛んで、ヘーゼル色の瞳が静かに揺れた。
「あと裸なの恥ずかしい」
「はぁ⁉ じょ、上裸ね! 処置してあげてるんだから仕方ないでしょ!」
はぁっと雅の頬にほのかな朱色が差して、寺島の背中をばちっと強めに叩いた。
再度の確認だが「痛いっ!」と声を上げる寺島の身体は満身創痍だ。また叩かれる前にと、寺島はジト目で警戒しながらシャツを羽織った。
「退院は午後って聞いてたけど、予定よりも早かったのか?」
寺島が聞く。
「野々宮から兄が竹刀を持って学園に向かったと聞いて、もしかしたら将生君に『決闘』を申し込むんじゃないかと思って駆けつけたの」
「予想が的中したってことね」
もう少し早く駆けつけてもらえると有難かったが。
「私が土曜日の出来事を正直に兄へ説明しなかったのが悪いわ。本当にごめんなさい」
「いや、俺も『決闘』せずとも話し合えば良かったと思ってる。謝ることじゃないけどさ」
寺島の提示した要求が野次馬の声によって雅の耳に入らなければいいが……。
雅は顔を上げて、ありがとう、と寺島に優美な微笑みを向けた。
「じゃあ、ちょっと片付けるわね」
消毒が終わり、救急箱を元あった場所に片付けようと窓際の棚に向かおうとした雅の背中にぶっきら棒な声でなぁ、と寺島が問いかけた。
「雅は《催眠術師》に命を狙われてるのか……?」
踏み出そうとした雅の右足が緩やかに速度を落として止まった。
将生君……私を……、私を…………助けて。
雅の悲痛な震えた声が、頭の中に鮮明に蘇る。
「それは――」
「失礼致します」
雅が何かを言いかけた刹那だった。二回ノックをする音がして、寺島の背後にあるスライドドアがすっと静かに開いた。
「野々宮……?」
「立ち聞きしてしまい申し訳ありません雅さま」
現れたのは、綺麗なボブカットに眼鏡を掛けた無表情が特徴の女子生徒だった。
ブレザーの下衿には純金のバッジが留められている。旧校舎の食堂で修一の隣にいた雅のもう一人の相談係だ。野々宮は無表情で小さく礼をすると、椅子に座る寺島の前に静かな足取りで回った。
「寺島将生さま。前回お会いした時にきちんとした挨拶が出来ず、申し訳ありませんでした。雅さまの相談係であります二年、野々宮遥香です」
野々宮は面接を受ける時のような恭しい態度で頭を下げた。
「えっと、俺は野々宮さんの『主』でもなんでもないから、さまを付ける必要ないけど……」
「すいません。敬語は円滑なコミニュケーションを取るための手段であり防衛本能ですので」
決まり切った台詞なのか、野々宮が言い切る。
寺島もそれには共感できる部分があった。
「今朝、修一さまが竹刀をお持ちになってお早く玄関を出られた時点で嫌な予感はしていたのですが、まさか『決闘』を申し込むとは思わず、仲裁が遅れてしまいましたことを寺島さまにお詫び申し上げます」
野々宮は自分を繕うといった感情が片鱗もない平坦な口調が特徴で、鮮明な声はとても聞き入りやすいものだった。ボブカットから覗かせ小顔も雀と同様、眼鏡を外すと相当な美人であることが窺える。
「質問の件に関しまして、瀬崎雅さまの相談係でありますこの野々宮遥香がご説明をさせて頂きたいと思います」
「大丈夫よ野々宮。私から説明するわ」
「いいえ。雅さまからは申し上げにくい内容もございますので、この野々宮が変わってご説明をさせて頂きます。少なくとも今回の件には野々宮も責任がございますので」
丁寧すぎる口調で野々宮が断りを入れた。その様子は《純金制度》により結ばれた『主』と相談係という関係ではありながら、二人が対等に近い存在であるように寺島には映った。
「まず寺島さまには一か月前の出来事について説明しなくてはなりません」
「一か月前?」
寺島の頭に疑問符が湧いた。
「はい。一か月前――瀬崎家当主であった瀬崎憲明さまがお亡くなりになりました」
「――――は?」
淡々と告げられた事実に寺島がつい声を洩らした。たとえそうだとしても、何の関係があるというのか。野々宮の後ろで救急箱を持ったまま立つ雅は顔を背けたが、表情が暗鬱な影に沈み込んだのを寺島は見逃さなかった。
「そこに残されていたのがこちらです」
野々宮が寺島に手渡したのは自らのスマホだった。映っているのは一枚の紙の写真で、白の画用紙に、白や黒や灰色をした新聞の切り抜き文字を貼り付けたもの。
新聞の文字を切り抜いて使用するなんて古い脅迫状じゃないんだから、とそんな言い訳を頭の中で行っていた寺島だったが、内容を見てしまえば絶句するのも無理はなかった。
「『ゴールデンウィーク最終日、瀬崎憲明と同様、瀬崎雅を殺害する。――催眠術師より』」
「これは瀬崎憲明さまが亡くなった自室に残されていたメッセージです」
「……いや、そういうことじゃなくてだな…………」
「今日は四月二十五日です。今年のゴールデンウィークは二十九日から始まります。本日を含めてもゴールデンウィーク初日まであと四日しかありません」
なんだよこれ、と寺島は見せられた画面に釘付けになりながら、一昨日出会った緑髪の《催眠術師》の男との因果関係を脳内で結び合わせた。
「警察にも提出いたしましたが……取り合ってはくれませんでした。現状では警察の一部の方と、私と雅さま、そして寺島さましか知りません」
「はぁ? 取り合ってくれないって……それは無いだろ。これは立派な殺害予告だぞ?」
「簡単なことよ」
両腕で自分を包み込んだ雅が、絹糸のような細い声で呟いた。雅の瞳には憤りや悲痛、様々な感情が混在していた。誘拐された時、寺島に微笑んだ顔と一緒だ。
「《戦慄の水曜日》から七年が経過して、《催眠術》を悪用したと思われる不可解な事件も起こっていない。国は《戦慄の水曜日》は解決されたことのように扱っているけど、実際は何も解決していないわ。そんな状況で、また《催眠術師》が現れたとなったら、日本中が大変なことになる。《催眠術師》が事件を起こしたなんて公認できないのよ」
それに、と沈んだ表情のまま雅が首を横に振る。
「父の死因は心臓麻痺だった。刺殺でも撲殺でも絞殺でもないの。だから警察は他殺ではなく単なる急性死だと判断するのはとても簡単だったし、合理的だった。なによりも父が亡くなった自室は密室に近しいものだったから……急性死と判断した以上は、その場に《催眠術師》からのメッセージが残されるという事実はあってはならないの」
病死ならば、殺人犯は存在してはいない。
存在してはいけない。
「心臓麻痺は確か、循環器疾患による急性死だよな。そんなのを《催眠術》で?」
「正確に言うと、心臓麻痺が医学用語ではないから、死因は心肺停止による脳死よ」
心臓麻痺が発生するのに予兆は無い。死因が他殺だという断固とした結論が出ない以上、警察が更なる調査を続行するとは考えられなかった。しかも亡くなったのは世界を代表するWSZグループ最高取締役の瀬崎憲明。《催眠術師》が殺害事件を起こしたとなれば、世界中に再び恐怖が伝染するのは容易に予測できる。
「……親父さんが亡くなったのはまだ公表していないのか?」
「ええ、私たちもまだ完全に気持ちを整理できたわけでもないし、予告も……あるから」
七年前、《戦慄の水曜日》を起こした《催眠術師》が、憎悪の感情を抱きながら日本に蔓延っていると広まったら、人々は尋常ではいられないだろう。
《催眠術師》を名乗る者からメッセージが残されたとしても、証拠も無く殺害方法も判明しなければ、警察も国も単なる急性死だと断定して丸く収めるのが通常だ。
WSZグループの主軸は広告代理店の経営。警察との親しい関係もない。
国は《催眠術師》を確認できていない。あの不気味な緑髪の男は組織が《戦慄の水曜日》を起こしたと言った。
一般人に《催眠術》を掛けて。
「組織か……」
「将生君、何か言った?」
雅が寺島の顔を覗き込む。
「いいや何にも」
瀬崎憲明を殺害したのはあの緑髪の男なのだろうか。と寺島は唾を飲んだ。
「少し話を戻させて頂きますが、寺島さまには先程の脅迫状の裏にある言葉を見てほしいのです。私たちが寺島さまに近づいた理由がここにあります」
「近づいた理由?」
すっとスマホを操作してページをめくると、脅迫状の裏に続きがあった。内容はさらに寺島の目を白黒させるものだった。
「『死にたくなければ、K24の相談係を頼れ』……?」
「そうです。土曜日、雅さまが外出にお誘いなさったのはこのためです」
野々宮がまたしてもフラットで抑揚の全くないトーンで淡々と告げた。
「本当にごめんなさい将生君……」
雅が野々宮の隣に並ぶと突然、体側に手を合わせて深々と頭を下げた。
「私たちはK24の相談係を一か月の間ずっと探していたの。でも、見つからなかった。K24の正体も分からないのに無謀だったと思ったわ……けれど諦めずに探し続けたの。旧校舎も新校舎も兄に勘づかれないようにして探し回った。そこで兄と口論になったあなたが偶然K24の相談係だった」
「……修一さんは脅迫状のことを知らないのか?」
「ええ、知らないわ。正直に言うと、心配をさせたくなかったの……」
寺島が気になった疑問をぶつけると、雅は顔を上げて桜色の唇を小さく噛んだ。
「母が幼い時に亡くなってから、仕事で忙しい父に代わって兄は私の面倒を見てくれた」
雅は幼い頃の過去の自分を思い返す。
「父が亡くなった時も兄は一切涙を見せずに隣にいた私の背中を擦ってくれたわ。でも、私は兄が自室でひとり泣いていたことを知ってる。だからいつか伝えなきゃと思っていたけれど、どうしても言えなかったの……」
寺島は黙った。修一にとって雅は今やたった一人のかけがえのない肉親。『決闘』を申し込んでまでも雅が病院に搬送された理由を知りたがる訳だ。
保健室を静寂が包む。
鼓膜が圧迫されるほど重く深い沈黙を破ったのは野々宮だった。
「私たちは殺害予告について直ぐにでも寺島さまに相談をするつもりでした。しかし雅さまのご意向で土曜日にデートの練習と称して、寺島さまとお話をする機会を設けられたのです」
「……だから、あんな無茶苦茶な理由をつけて誘ったのか」
雅ほどの美貌を持ち合わせていればデートの練習に付き合ってくれる生徒は他に大勢いる。目的がデートの練習だけであれば、食堂にいた生徒達に口止めをしてまで寺島を連れ出す必要はない。雅に話を聞いて、緑髪の男の言う通りある程度のピースが揃った。
「私たちは全くの他人だった。そんな状況で殺害予告の話をするのは、将生君にも荷が重すぎるはずだと思って、まずは少しでも関係をと……」
「まぁ、全くの他人に出来る話じゃないよなぁ……」
寺島が深く息を吐いて納得する。
「寺島さま、お願いがあります」
淀みのない動きで、野々宮が腰を直角に折った。
「警察に何度連絡しても重要な情報は得られませんでしたが、それでも寺島さまが誘拐された雅さまを救出してくださったのは存じ上げております。お願いです雅さまをお助け下さい」
野々宮の声は相変わらず単調でフラットだったが、内容には雅を想う気持ちが詰まっていた。
「私からもお願いです……勿論、危険を伴う事は分かっている。それに私はあなたに嘘をついた。でも、将生君……私はもうあなたに頼るしかないの……」
――将生君……私を……、私を…………助けて。
そんな雅の心の声が聞こえた気がした。
「いいよ」
「え――?」
デートに付き合うのすらあんなに渋った男が、表情すら変えることなく軽く即答した。
「将生君、い、今なんて……?」
「いいよって言った」
寺島は丸椅子に座りながら、首の後ろを擦りながら肩を回した。
嘘など寺島にとっては全くどうでも良い要素だ。それよりも記憶に蘇るのは、初めて訪れたというショッピングモールで見せた雅のあどけない無邪気な笑顔だった。
彼女は父が亡くなり、自分も殺害されるかもしれないという恐怖を抱きながらずっと寺島の隣を笑顔で歩いていた。
しかし、未だ雅の心から溢れる本当の笑顔が寺島の瞳に映っていないならば、寺島将生はそれを何となく見たいと思った。それに、気になることもある――。
「とりあえず、家に案内してくれ。話はそれからだ」
殺害予告によれば、雅の命が狙われるのはゴールデンウィーク最終日。
刻一刻と時計の針は進む。寺島は膝に手をついて丸椅子から立ち上がった。
「俺もただの部外者じゃないみたいだしな」
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