第二章 緑髪の催眠術師⑤
「だったら、雅は関係ないはずだろ……?」
「おっと、よくぞ聞いてくれた!」
男が頬を吊り上げる。
「……と言いたい所だけど、僕にもそれは分からなくてねぇ……。僕は従順なヒュプノス殿の遣いだからさ。やれと言われたことをやるだけだ。今日ここにいるの『寺島将生にちょっかいを掛けてこい』と言われたから」
「は? 俺に……?」
寺島の脳内が混乱するのも無理は無かった。
攫われたのは瀬崎雅であり、それを追いかけているのが寺島だ。
「そうだよ寺島クン。君は《催眠術師》でもない癖にヒュプノス殿から一目置かれているらしい。僕にはよくわからないけど……。あ、僕からは全部話せないから、後で瀬崎雅から事の流れを聞くと良い。ある程度のパーツは重なるだろうよ」
《戦慄の水曜日》は緑髪の男が属する組織が《催眠術》を用いて起こした反乱で、彼らの組織は《戦慄の水曜日》以前から既に国を排除し、施設を支配していた。
世の中の認識とズレが生じている。
まだ《催眠術師》は世界に、自分達を施設に収監した人間に、恨みを持っている――。
「ははっ。そうだ、寺島クンは音楽が好きかい?」
突然、男が張り付いた笑顔で尋ねた。バイオリンの弓を杖にして細い身体を持ち上げると、口を開いたまま頭をぐるっと一周させて、首元にバイオリンをセットする。
「もしよければ、寺島クンの良い一日を願って、特別に僕がバイオリンを弾こうか?」
何をしようとしてるんだ、そんな寺島の疑問を遮断するが如く、舌なめずりをしたディジィーと名乗る男は恍惚とした表情を拡張させ、寺島に微笑んだ。
「って、拒否しても弾いちゃうけどねぇ?」
――次の瞬間。ディジィーが手前に弓を引くと、バイオリンが唸った。
首都高速道路を走る自動車のルーフの上。上半身を起こせば体が吹き飛びそうな風が吹き荒れる中で、目の前の緑髪の男は直立したまま優雅にバイオリンを奏で始めた。
それは音楽の知識が殆どない寺島でも、男が一流の腕を誇る実力にあると感覚で理解してしまうほど凄まじい演奏の開幕だった。
曲はアントニオ・ヴィヴァルディの『四季』。
クラシック音楽の超有名曲で、誰もが聞いたことのある名曲。中でもホ長調で紡がれる『春』は爽やかな日差しの中、木陰で休憩する小鳥を想起させる。
立っているのが高速道路を走る車のルーフの上でなければ、つい瞳を閉じたくなってしまいそうだ。
この男は一体何がしたいのか。寺島の脳内は不気味な疑問で溢れていたが――
一瞬だけ、ただ男の演奏が 美しい と感じてしまった。
「掛ったね。寺島クン」
前髪の隙間から覗く男の落ち窪んだ目が、寺島のその表情を見てニハッと笑った。
「《制約》対象者が僕の演奏を美しいと感じた時――《催眠》眩暈を起こさせる」
――制約? ――催眠?
「狂乱と安楽のメロディ『陽炎』さ」
視界がぐらっ、と揺れた。高速で回るコーヒーカップに乗っている時のような、あの感覚。中腰だった寺島の姿勢が崩れて、耐え切れず片膝をルーフに付けた。
「な、なんだこれ……」
重力が何倍にもなって身体に圧し掛かる不思議な感覚に、顔を上げるのがやっとの状態。不鮮明な瞳の奥でぎらぎらと銀の粒が瞬いて視界が眩む。
演奏をやめたのか、バイオリンの音は止まった。ただ、この緊迫した事態にそぐわない『四季』の軽やかなメロディが頭の中で止めどなく繰り返さ、こびりついて離れない。
「なんだこれッ……。体が、立とうとしても上手く動かない……。眩暈が……」
「おっと、そうだった。寺島クンは僕が初めての《催眠術師》だもんね。優しく丁寧に教えてあげないとダメだったかな?」
「お、お前なにをした……!」
「簡単だよ。君に《催眠術》を掛けたのさ。君の視界は眩暈で歪み、天と地すら不鮮明で曖昧になる。気が付くと自分の実体すら定かではなくなって、色のない炎のように揺れ動く君はまるで――『陽炎』のようだ」
視線の先、男の姿が残像を残して左右に揺れる。いや揺れているのは己かもしれない。男の表情すら読めないが、おそらく張り付いた笑顔で嗤っている。
「僕たちみたいな催眠術師は、対象者の脳をある一つの潜在意識で支配し、暗示をかけることで《催眠術》を発揮することができる。個人の素質によって掛けられる催眠はそれぞれ違うんだけど、僕はね、対象者が僕の演奏を美しいと感じた時、眩暈を起こさせる《催眠術》を使えるよ。寺島クンはたった今、僕が奏でる音楽を潜在意識――つまりは奥底の無意識で美しいと感じてしまったってことなんだよ」
《催眠術》の力は、世界を恐怖に慄かせた。
寺島もその術の危険性は重々承知している。
これが、《催眠術》。
「そんでもう一個重要なのが《制約》ね。これが暗示というやつだよ。ええっと、例えば、『私が家に帰ると窓ガラスが割れていた』という文章があるとするだろ? 勿論、人間はこの文章の意味を普通に理解できる。だけど、この文章にも暗に含まれた言葉が沢山あるんだ」
男は姿勢を崩したままの寺島をニタニタと面白そうに笑い続けた。
「『私が家に帰ると窓ガラスが割れていた』これはね、『私が帰宅する前に、何者かが私の家に侵入し、窓ガラスを何かで割って逃走した』――こんな風に言葉で言わなくとも伝わることが暗に含まれているんだよ。《制約》も一緒さ、君はただ僕の声を、言葉を聞いただけに思ったかもしれないけど、寺島クンが顕在意識では理解できないような深層心理に働きかける暗示を僕ちゃんは掛けているんだよッ! ニハッ! ニハハハッ! あー! 実に愉快だろッ!」
「何が愉快だくそったれが……」
寺島がルーフについた片膝を起こして体勢を立て直そうとするが、左右上下に視界が揺れて足元に力が入らない。今にも吹き飛ばされそうな風の中、覚束ない足取りと靄の掛った視界でまともに平衡感覚が掴めない。
「おいおい寺島クン、もたもたしてないと進行方向を向いて早く瀬崎雅を助けなきゃ」
「……手前に言われなくても分かってるよクソ野郎」
「早くしないと離されちゃうよ? 次のトンネルを抜けたらもうゲームオーバーって設定だから。あ、やべネタバレしちゃった? でも寺島クン無理なら諦めた方が良いとも思う。身体も大事だからね」
寺島は男と自動車の走る進行方向を交互に見た後、固唾を呑んで腹を据えた。足を数センチずつ動かし、慎重に黒のブックスカーに向き直る。
最優先事項は雅を誘拐犯から救う事だ。
「くそ……眩暈が……」
寺島が雅の救出を優先するのは、男の胸中に殺意が混じっていないのを直感したからだ。
男の心境にあるのは抑えきれないただの好奇心だ。
《催眠》に掛けられた吐き気さえ引き起こす眩暈の状態で、寺島が前方車に飛び移れるのかどうか心を弾ませながら観察している。殺意よりもよっぽど質の悪い感情。
ディジィーと名乗る緑髪の男の目的が未だ謎だ。ヒュプノスという奴に気に入られているなんて、そんな馬鹿な。今日までずっと雀と二人で世界を生きてきた。《催眠術師》とは何ら関わりのない生活を送ってきたはずだ。
『今まではそれでよかったかもだけど、今日でK24の相談係としての寺島将生氏が知れ渡った。明日からは同じ平凡な日常を送れるとは思わないよ雀は。違う?』
自らK24の相談係であることを暴露したあの日。雀に言われた言葉を思い返す。
「寺島クン。もしかして怖気づいたの? 僕も早く帰りたいからちゃっちゃと飛んでくれる? 眩暈は時間が経つにつれて酷くなる一方だよ。《催眠》を解除するには僕がこの場からいなくなるか、僕が解除するかくらいだからね」
「うっせえな! 黙ってやがれ!」
寺島は大きく息を吐いて、肺の全ての空気を入れ替える。眩暈がして真っ直ぐ飛べるかも分からない。けど、冷静になれ。幾ら眩暈がするとは言え、直線上に足を踏み出して前に勢いよく飛べば必ず成功する。
寺島が右足をぐっと引き、姿勢を低く屈めた。寺島が一番速く走る時の構えだ。
右足を大きく前に出し、突風に逆らってスタートダッシュを切った。
「うらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
黒のボックスカーまでの車間距離は約5~6メートル。
三十年ほど前には有り得ない数字だ。
自動運転補助機能と緊急停止機能が搭載された自動車しか走行しない高速道路では、3メートルほどの距離でも互いの自動車が速度や停止の情報をセンサで共有し合うため、自動車整備に欠陥がなければ、衝突することはまず無い。
ブレーキすら、緊急時以外に使用されないのだ。
鋭角に伸びるフロントガラスを加速する小さな坂にして、最後にボンネットを強烈な力で踏み切る。タクシーのボディがギィと歪な音を立てて沈み、ボンネットの銅板にくっきりと足跡の形が残る。
「……へぇ、やるじゃんか」
緑髪の男が寺島の勇姿に、嬉々とした声をうっすらと洩らした次の瞬間。
――ドンっと衝突する鈍い音がした。
寺島は、間一髪の所でボックスカーの後ろに掴まった。眩暈と吹き荒れる風によってルーフに飛び乗ることは出来なかったが、何とかナンバープレートの凹みに足を掛けて、両手を広げてしがみついている。
無様な姿でリアガラスのワイパーに左足を移動させ、身体を丸めてルーフまで登り詰める。車がカーブに差し掛かり、身体が遠心力と風で吹き飛ばされそうになるのを必死に堪えた。
這いつくばりながらフロントガラスまで到達すると、寺島は脚を車が走る進行方向に合わせた。
そして、右足を地面と直角になるまで大きく上げると――力に任せて振り下した。
奥歯を噛み、何度も、何度も、フロントガラスに踵を叩きつける。
足のじんとする痛みが麻痺し始めた時――バリィン! とガラスが割れた。
「うおっっ!」
キュルルルルルル! キイイイイイイ! キキキキキキキキキ!
黒のボックスカーの後輪が腰を振るようにスリップし、緊急停止の警告が大音量で轟いた。
後方の追尾していたタクシーも警告音を寸分違わず同時に鳴り響かせると、二台の車がタイヤを摩耗しながら、魔女の叫びにも似た、けたたましい音を上げる。
「くっそ……!」
緊急停止の衝撃で、ルーフにあった寺島の身体は呆気なく投げ飛ばされた。空中で咄嗟の判断をし、後頭部を打ち付ける既の所で、右手を地面に叩きつけて受け身を取る。
前後の車は自動的に情報共有され、停止や速度上昇は完璧に把握されている。衝突は避けられたが、焼けるような焦げくさい臭いは周囲に漂った。
目を開けると、ボックスカーは、地面に横たわった寺島を轢く寸前で停止していた。身体を動かそうとすると、地面に叩きつけられた全身が疼く様に痛んだ。
「馬鹿みたいに痛ぇじゃねーか……」
見ると、腕には無数のガラス片で鱗が出来ていた。運悪くフロントガラスを下敷きにしてしまったらしい。特に受け身を取った右半身と右腕に激痛が走る。
それよりも、雅を……と寺島は満身創痍の身体を持ち上げ、鱗を払って立ち上がる。地面には弧を描くようにタイヤ痕が刻まれ、二車線に跨って黒のボックスカーが停止しているのが見て取れた。
後方に続く自動車がいなかったことが不幸中の幸いというやつだ。
震える脚を引きずり、ビィビィと耳障りな音を聞きながら寺島は車のドアを開く。
「大丈夫か?」
後部座席には雅一人がぐったりと横たわっていた。急停止に加え、スリップしたせいで後頭部をぶつけたかもしれない。外からガラスを割ったため、車内にも破片は散らばっていた。
運転席には見知らぬ男が鎮座していて、助手席にはショッピングセンターで雅を攫って行った張本人が項垂れていた。二人ともシートベルトに支えられるようにして眠っている。
「て、寺島君……? 将生君……?」
細目を開いた雅が、悪夢に魘されるような声で囁いた。
「そうだ、助けに来た」
寺島の対応は驚くほど冷静だった。地面に打ちつけられた衝撃で右腕は力なく垂れ下がっているが、雅は彼の毅然とした出で立ちに、怪我を負っていることにその時は気づかなかった。
「ど、どうして……」
「お前が俺といる時に攫われたらK24の相談係として肩書きに関わる」
なんてね、と寺島は思いつくまま適当に答えた。
肩書などに拘りがあるはずない。
追ったのは雅が諦めたような顔をしたからで、悪い言い方をすればムカついただけだ。
「そう……」
弱々しい声で雅が囁く。ヘーゼル色の瞳に透明な雫が浮き上がると、木の葉が雨の水滴を耐え切れず宙に落とすように、白い雪色の肌に一筋の涙が流れた。
とても美しくて、儚げな彼女の表情に、寺島はいつの間にか眩暈が止んだのに気づいた。
「将生君……私を……、私を…………助けて」
強硬なダムが決壊して水が溢れる。雅の心の叫びに相応しい表現だろう。
この時、知らず知らずのうちに寺島は、運命の歯車に乗せられていた。
誰かの手の上で岐路を隠され、一本道だと思い込んで進んでいた。振り返って見渡す頃にはもう遅い。分岐点は遠く離れて見えなくなっている。
雅の手を引いて外に連れ出すと、緑髪の男はいなくなっていた。
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