第二章 緑髪の催眠術師④
数年前、自動運転補助機能及び緊急停止機能が搭載されていない自動車は、高速道路を走行できない法律が制定された。
自主運転の車は通行が禁止されている高速道路では、万一にも衝突は起こらない。事故率は3%以下を更新し、渋滞は死語となった。高速道路では進路変更も全て自動で代行してくれるため、必要なのは目的地(SA、PAを含む)設定のみ。ハンドルを握る必要もない(手放し運転は法律では禁止されている)。
目的地を設定しない場合は、目的地未設定アラートが表示される。
タクシーの残りの充電は約30%。消耗戦では勝てない。こうなれば残された手段は一つしかない。雅をどう救出するか、寺島はすでに答えを決めていた。
シートベルトを外して運転席の扉を半開きにすると、シートベルト未着用の警告ランプが点灯して、半ドアの警告音が鳴り響く。寺島はシートから腰を浮かせて身をねじりながらタクシーのルーフに這い上がった。
片道三車線の高速道路。時速は120キロ。誘拐犯は逃走する気がないのか、ただ走り続けるだけで何か行動を起こす様子も見られない。何が目的だ? 逃げる気はないのか?
吹き付ける強風に目を開けるので精一杯だ。車体が揺れて足元すら覚束ない。
そんな状況で寺島が実行を決断した最終手段――相手の車に飛び乗ること。
前方の車に飛び乗るのは決して容易ではない。だが一般道と違い、高速道路では整然とした並びで自動車が走行するため、車間距離は従来の倍近い約5~6メートルほどの距離まで近くなった。
結果、前方の自動車に飛び乗ることは絶対不可能という訳では無い。
寺島が両手でバランスを取りながらゆっくりと立ち上がった時――
「やぁ寺島クン。会えて嬉しいよ」
ビクンと体が震える。不気味な声が背後から聞こえた。
身の毛もよだつ甲高い声だった。
瞬時に振り返ると、トランクの上に――緑の髪をした男が立っていた。
――……? 男? いや……、ここは高速道路だぞ……っ!
「いいね、驚いてるみたいだね。実は君が高速道路に入るぎりぎりに飛び乗ったんだよ」
口角を無理やり吊り上げた緑色の髪をした男は、笑顔の仮面を張り付けたような表情だった。
「誰だお前……つーか、なんでそんな所に……」
「名前? 僕に名前はないけど、僕らの組織『欠(アクビ)』だとディジィーって呼ばれてるよ。ここのいるのは飛び乗ったから。あれ、寺島クン理解力ない? ハハッ」
ディジィーと名乗る男は、長い滑った舌を垂らして小馬鹿にするように首を傾げた。
「ディジィー……? しかもお前、なんで俺の名前を知ってる……」
「あー、ディジィーって言うのはさ、英語の『眩暈(dizzy)』から取ってるんだ。僕は組織の幹部に当たるんだよ。そんで君の名前は聞いたから知ってる。あれ、答えになっていないかな?」
男は得体の知れない底闇を象ったような落ち窪んだ眼をしていて、特徴的な濁った緑色の長髪が強風にたなびいている。しかしそれよりも気になるのが左手のバイオリンらしき弦楽器と右手に持つそれを引く弓だ。
前に伸びる首に通されたネックレスには注射器のようなものがぶら下がっていて、男が放つ薄気味悪い雰囲気と、光沢の艶めく弦楽器が奇妙なコントラストを創り出していた。
「……瀬崎雅を攫ったのはお前の仲間かよ」
雅が攫われているこの場面では、普通が何かも分からない。
トランクの上に見ず知らずの男が立っていることには驚いたが、動転したり大きく冷静さを欠くことは無かった。
「正確には違うね。瀬崎雅を攫っているのは仲間じゃなくて組織の『駒』だよ。組織のメンバーが一般人に《催眠術》を掛けてるんだ。悪い人達でしょー?」
「催眠術……?」
寺島の理解力では、それだけ聞いてもディジィーと名乗る男の正体は全く把握できなかった。どころか更なる疑問が増えただけだ。
『将生君は赤の他人が《催眠術師》に命を狙われていると知ったらどうする?』
雅の言葉が頭の中で繰り返された。こいつらが雅の命を狙ってるってことか?
「お前、《催眠術師》なのか……?」
自ら口に出したにも係わらず、寺島の全身から血の気が引いてゆく。
「ご名答。僕ちゃん《催眠術師》なんだよ。あれ、寺島クンは本物の《催眠術師》を見るのは初めてだったけ?」
「なんで《催眠術師》がここに……七年前に姿を消したはずじゃ……」
「驚いてる驚いてる! いいね寺島クン! その顔好きだよ! はははっ!」
ディジィーと名乗った男は腹に手を当てて高笑いしたが、徐々に笑いが引くと今度は疲れたようにはぁ、と陰鬱な表情になってトランクの上に大仰に胡坐をかいた。
「姿を消したってさぁ……寺島クンは僕たちの姿をちゃんと見たことないでしょぉ? ま、国もさ、そろそろ僕たちの足掛かりくらい掴んでも良かったのに、まったく無能ばっかりだから困っちゃうよねぇほんと」
男は落ち窪んだ眼を細め、僕たちが機密文書やらを全部消したから無理もないけどね、と付け加える。目が合うだけで、吐き気のような不快感に襲われた。
「《催眠術師》ってことは《戦慄の水曜日》を起こした奴らは……」
寺島はカーブを曲がる車体から振り落とされないように体勢を低く保つ。
「そそ。僕たち組織の《催眠術師》が一般人に《催眠》を掛けて起こしたのが、君たちの俗に言う《戦慄の水曜日》だよ」
『何者かに《催眠術》のような暗示をかけられた気がして、目覚めたら世界が変貌していた』
――保護された人間の証言。
必ずしも目の前の胡坐をかいて座る緑髪の男が、本物の《催眠術師》で真実を口にしているとは限らないが、男の底闇のように暗い眼は普通の人間が持ち合わせているそれじゃない。
「お前らの組織って一体何なんだよ……」
強風に煽られるのを必死に耐えながら、寺島は男を睨むように見据えた。
「ニハッ。僕たち組織は、ヒュプノス殿のカリスマ性によって結集された、選ばれし《催眠術師》で構成されるチームだよ」
ヒュプノス? 組織の中心人物の呼び名か?
「ああ、あと特大サービスで一つ教えちゃうとねぇ、あの《催眠術師》を造り上げるための施設なんだけど、あれ設立されてから一年くらいで『欠』が乗っ取ったの。だから僕たちに国なんてほぼ介入してないみたいな感じなんだよねぇ~」
男の不気味な笑い声は、風にかき消されることなく厭なほどはっきり鼓膜に響く。
「日本の人間兵器研究施設を運営してたのは僕たち。傲慢だよね人間ってさ。自分より強いものを創り出しちゃったら統制も統御も支配も管理もできるはずないのに……。だって結果僕たちに支配されてしまったわけだもん」
国家によって《催眠術師》は施設に閉じ込められてきた。
人権を奪われ、苦痛の日々を暗闇の中で過ごし、それが膨脹しきった風船が破裂するように起こったのが《戦慄の水曜日》。
そう思って今日まで寺島も生きてきた。だけど、違ったというのか。
「目的はなんだ……」
寺島が尋ねると、男は吊り上がった頬の筋肉を緩め、ぶっきらぼうに答えた。
「――目的はねぇ、最初に僕たちを施設に詰め込んだ奴ら全員殺すことだよ」
寺島の身体に寒気が走る。
奥底の闇を一瞬だけ覗いてしまったような感覚に襲われた。
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