第二章  緑髪の催眠術師③

二千三九年現在、先進国ではガソリン車に代わってEV(電気自動車)が普及している。


日本では二〇二四年に大手自動車メーカーが協定を結び、公式にガソリン車製造停止、電気自動車の本格的な製造を宣言した。


その際、前後左右の自動車と双方向センサによる情報共有を行い、手放し運転(法律では禁止されているが)を可能にする自動運転補助機能及び、飛び出しや前方車の急停止を事前に予測して衝突を回避する、緊急停止機能の搭載が確約された。既に公道を走る自動車の8割には両方の機能が備わっている。


 寺島がハンドルを握るタクシーも自動運転補助機能、緊急停止機能共に搭載済みだが、寺島は自動運転補助の機能を解除し、雅を攫ったボックスカーから距離を離されないよう、懸命にハンドルを切り返しながら追跡を行っていた。


 何度も警告音が内外から鳴り響いたが、今は気にしている余裕もない。右左折を繰り返し追跡し続けると自動車は別の三車線道路に入った。


 誘拐犯は自主運転に切り替える様子もなく、何を考えているのか分からない。

 痺れを切らした寺島は手慣れた手つきでスマホとタッチパネルを操作しBluetoothスピーカーに接続した。数十秒して通話が繋がる。聞こえてくるのは欠伸交じりの寝ぼけた声と、流しっぱなしの恋愛ドラマであろうテレビの音声だ。


「どうしたの寺島氏ぃ~。休日のこんな朝早くから電話なんて寂しくなっちゃったの~?」


「寂しくなってねーし、もう朝はとっくに過ぎてる! 体内時計狂ってんのかお前は!」


「ありゃ、ほんとだもう三時過ぎてるねぇ」

 いつも通り能天気な雀に、あぁ! と寺島は後頭部を無造作に掻く。


「悪いけど、雀に頼みたい事があるんだよ。大至急だ」


「えー? なになに? 『プロポーズ大規模作戦』はこの前貸したよー?」


「違ぇ! あれはお前が勝手にバッグの中に忍ばせたんだろ!」


「あらら、じゃあなにごとぉ……?」


 スピーカーの奥から流れるロマンチックなエンディング曲に、ハンドルを握る集中力が割かれそうになるのを何とか堪え、寺島は気を取り直すように頬を叩いた。


「詳しい事情は後で説明するとして、とりあえず俺のGPSを探って、源蔵さんが開発したセキュリティカメラと照らし合わせてほしいんだよ」


「……んー? なんだか急ピッチみたいだねぇ」


 通話の向こうでばさっと毛布を翻し、ベッドから飛び起きる音がする。ようやく雀は空気を察したらしく、ウィンと起動音がしてPCが立ち上がったようだ。


「……えーと、寺島氏はいま三車線道路を走ってるのかな? んで、何してんの?」


「人が攫われた」

 寺島は必要な部分だけを抽出し、説明しようと心掛けたつもりが、


「ふぅーん、なにそれ男? もしくはメス?」

 なぜか妙にテンションの低い声が返ってきた。


「……まあ女性だな」

「なるほどねぇ。詳しい話は後でしっかり聞かせてもらうことにしようかぁ」


「な、なんか怖い……。けど、今はそんなこと言ってる余裕が無くてだな……、追跡してるのは5、6台分前の黒いボックスカーなんだ。分かるか?」


「あー、えっと、うん。今見つけたよ」

 雀と寺島はお互いをGPSアプリに登録している。普段から位置情報を互いに共有しているため、雀は一瞬にして寺島の居場所を把握できる。


「じゃあ雀。相手の逃走路を絞って教えてほしい」

 そして寺島が雀に電話を掛けた理由は、警察組織だけが確認できるはずの防犯セキュリティシステムで誘拐犯の逃走ルートを確認してもらうため。


「感謝してよぉ寺島氏ぃ。お父さんがセキュリティシステムエンジニアじゃなかったらこんなことできないんだからね? 『主』が雀じゃなかったら不可能ミッションだよ?」

「分かってるよ。感謝してる」


 七年前の《戦慄の水曜日》以降、東京の都市部では至る所にリアルタイムの防犯カメラが設置された。


 雀の父親である飛鳥馬源蔵はその東京セキュリティ計画の責任者を数年前まで担っていた。今でも警察組織しか見られない極秘のリアルタイム映像にログインして見ることができる。親バカ飛鳥馬源蔵は娘にもそのログイン方法を教えてしまっているということだ。


「おそらくだけど相手は左折も右折もしないと思う。右折レーンはこの先も混み合ってるから止まる時間ができちゃうし、左折するにしても交通量が少なくなって追い付かれちゃうからね。しかも相手の車、ナンバー偽装してるから逃げられたら厄介かも……」


 リアルタイムカメラの設置は東京の都市部に集中していて、未だ完全な体制とは言えない。


 このままカメラの設置範囲外に逃げられた場合、逮捕まで相当の時間が掛かる。


 雅の安全がその間に保証されるとは限らない。


「そうか」寺島の脳裏を雅の顔が掠める。「なら、このまま直進を選ぶってことか?」


「うん。今のところはね。問題は信号かな……。600メートル先の信号で離される可能性があるから、寺島氏、その前にはボックスカーの直後に車をつけてね」


 目標のボックスカーは寺島が運転するタクシーと一定の距離を保ちながら走行する。自主運転に切り替えて速度を上昇させる訳でも、複雑なルートで撹乱しようとする訳でもない。寺島を前に出さないようにだけ意識した走行は、挑発的に受け取れた。


「600メートルか……。了解した」


 寺島が返事と共に、ハンドルを右側に切った。アクセルを踏む力を繊細に変化させながら自動車の間をすり抜けてゆく運転技術は高校生が簡単に身に付けられるものではない。


「懐かしいねー、小学生の時寺島氏がよく運転してたのを思い出すよぉ」

 リアルタイムカメラから寺島の運転を見ているであろう雀が、衰えを知らない寺島の運転技術に昔の記憶を蘇らせた。


 雀は小学生の時すでに億万長者だった。寺島と出会う前には私有地を海外に有しており、毎年休みの期間には広大な敷地でリアルの車やバイクで二人とも遊んでいた。無免許にしてマニュアルの大型バイクを乗りこなすほどの腕前を持っている寺島は、自動運転補助機能が搭載された今、一般の大人より運転が格段に上手い。


 左にハンドルを切り戻した寺島は、雅を乗せた黒のボックスカーの真後ろにタクシーを付ける。


 ――信号が黄色から赤に変わる瞬間、二台の車が交差点を通り抜けた。



「ねぇ寺島氏? 聞きたいんだけど、車の充電はどんな感じ?」

「ん? 充電は、あと32%だけ……だな」


「そりゃまずいね」雀の声から焦燥が感じ取れた。「雀ね、分かったんだけど相手が向かってる先は高速道路――首都高速だよ」


「――な」


 雀が焦る理由は簡単だった。このまま直進を続ける場合、問題は自動車の充電。

 つまり、どれだけ執念深く誘拐犯を追いかけても車の充電が底を突いたら一巻の終わりだ。


高速道路に進入されてしまえば、信号機が存在しない。突破口である車の停止時も狙えないのだ。高速道路のICまで残り300メートルもなかった。標識は必ずあったはずだ。


――なのに、追い付くことに必死で標識に目が入らなかった。


「……ありがとう雀。悪いがそっちで通話を切ってもらってもいいか? 分かる通りここからは車外の戦いになるみたいなんだ」


「うん……ごめんね寺島氏ぃ。雀が早く気づけば……」

 スピーカーの向こうでしゅんと悄気込む雀が、容易に想像できた。

「なんでお前が謝るんだよ。全部俺が悪い。雀は協力してくれただけだろ?」

「――ねー、寺島氏?」

 寺島の声を少しだけ遮るように雀が呼びかけた。


「雀をおいて死なないでね……?」

 それは弱い声だった。

「馬鹿か。雀より先に俺が死ぬことは絶対ないっていつも言ってんだろーが」

「うん。だよね。雀待ってるね」

 プッと通話が切れた数分後、雅を乗せた黒のボックスカーと寺島の運転するタクシーが高速道路へと進入すると、自主運転から自動運転補助へと強制的に切り替わった。



 

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